おかしいことが多過ぎる原発の過去と今 猫と人間
じゃあ猫は?猫は僕が生まれた時からいつもそばにいて、以来ずっと観察しているけれど、ほとんど変化はありません。猫としてのコンセプトは不変で、相変わらず無邪気で可愛い生き物です。猫に限らずどんな動物でもその心、行動は不変で、変化があるとしたら結局人間のエゴイズム故の結果で、常に彼らは被害者です。 世界では人間同士殺し合う状態がいまだ続き、まともな神経なら絶対にあり得ない戦争への道を、70年に渡って平和を築き上げたこの日本でご破算にしようとする政治家などがいて、人間の劣化は止まらないけれど、でもやっぱりそれは一部、何らかの理由、原因で人間性を欠損した人間の仕業であって、多くの人間は平和を愛し、動物や自然を愛する心を保っていると僕は思います。 人間の身勝手で捨てられた野良猫を「地域猫」として大切に世話している街もあります。それを実現する努力、労力は大変なものだと思いますが、やっぱりそれが人間で、そのような視点、感性があればくだらない人間同士の争いごとはいつかこの地球上から無くなるでしょう。 核兵器の廃絶にしても、原発の廃絶にしてもそれは可能性があります。もっとも難しいのは人間性を何らかの理由で失ってしまった人間を再生することではないかと僕は思うのです。人間よりはるか多数を占める動物はそれぞれ安定しているし、大丈夫なわけですから。
なんとも奇妙な人間のタイプ 「かって・・・人間は単純に知識のある者と無知なるもの、多少とも知識がある者とどちらかといえば無知なるものの2種類に分けることができた。ところが、この専門家なるものは、そのいずれの範疇にも属しえないのである。彼は自分の専門領域に属さないことはいっさいまったく知らないのだから知者であるとはいえない。しかし、かといって無知者でもない。というのは彼は「科学の人」であり、彼の領域である宇宙の小部分はよく知っているからである。
われわれは彼を知者・無知者とでも呼ばねばなるまい。これはきわめて重大な問題である。というのは、この事実は、彼は、自分が知らないあらゆる問題において無知者としてふるまうのではなく、そうした問題に関しても専門分野において知者である人がもっているあの傲慢さを発揮するであろうことを意味しているからである」・・・ 「文明が彼を専門家に仕上げた時、彼を自己の限界内に閉じこもりそこで慢心する人間にしてしまったのである。しかしこの自己満足と自己愛の感情は、彼をして自分の専門以外の分野においても支配権をふるいたいという願望にかりたてることとなろう。・・・」 「わたしが大衆人の特性として繰り返し述べてきた(人の言葉に耳を貸さない)、より高度な審判にも従わないという傾向は、まさにこの部分的資質をもった人間においてその極に達するのである・・・」(オルティガ・イ・ガセット著/神吉敬三訳:大衆の反逆、第一部・第12章、専門主義の野蛮性より抜粋)
引用が長くなってしまいましたが、この文を読んだ時に一部学者、政治家などの知識人における野蛮性と言ってもいい側面が理解できました。悪夢のような安倍首相を始めとする政権の傲慢さ、そして盲目ぶりも結局は自らの大衆性以外のなにものでもないのだろうと思います。 それにしても1930年に当時のヨーロッパに対して書かれた内容が今の日本にそのまま当てはまる部分が多いのには驚かされますが、日本は歴史を逆行しているのではないかと、今の安倍政権を見ていると思わざるえません。悪夢が現実とならないよう、1人1人が偏らない知識を持たなければならないと思うのです。
「ありがとう大五郎」へのありがとう 共著のカメラマン大谷英之さんの文中の言葉です 「昭和46年に両親を連れて高崎山へ遊びに行った私は、餌付けしている猿の中に奇形をもつものが多いことに驚いた。帰ってからもそのことが脳裏を離れず資料をあさったりしてみたが、明確な答えは得られなかった。 公害や輸入食品、川の水の汚染などいろいろな原因が考えられたが、いずれにしてもただ単に野猿の問題ではすまされないことだった。翌年から各地の野猿たちを追って写真を撮り続けたが、淡路島のモンキーセンターで大五郎に出会った。仮死状態で薮の中に転がっていたのを保護されていたのだが、後足は付け根から全く無く、前足は肘から少しついているだけだった。 私は後わずかしか生きれないだろう、というその猿を家に連れて帰って良いかと申し出た。許可を得て手続きをして、その足で東京へ戻った。・・・」
ここから妻の大谷淳子さん、4歳の真穂さん、7歳の一世さん、大学受験を控えた聖子さんたちと不自由な体に生まれた猿の大五郎との奇跡的な2年4ヶ月の生活が始まります。読んでいて随所に涙をこらえきれないシーンがあります。生き物に対する大谷さん一家の情愛、大五郎の感受性、1つの命を守ることの大変さ。 人間が人間としてあるための根源的な心の波動とはこういうものなんだと、あらためて気づかされました。大五郎と子供たちの心の交流、猫のぬいぐるみを支えにして突然立ち上がった大五郎の表情。どんな命もかけがえの無い、そして愛おしいものだということが胸にしみ渡りました。小さな文庫本ですが、貴重な写真と家族それぞれの意味深い文章で構成されたヒューマニズムが凝縮された重たい一冊です。 「ありがとう大五郎」 ボーイズ・ビー・アンビシャスから137年
若者が夢や希望を抱きにくい社会構造ではありますが、クラーク博士のようにまず大人が率先して、社会に風を入れなければならないのだろうと思います。若者に目先の要領や処世術を教える教師。反面、事なかれ主義が蔓延する教育現場で苦悩する教師や生徒もかなり存在するのだろうと思います。 大志を抱く以前の問題。野心や冒険心が生まれる社会的土壌をつくるのは家庭であり、学校であり、社会の責任です。そしてまず大志を持たなければならないのは親であり、教師であり、大人なんだと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ウィリアム・スミス・クラーク 少年でもないけれど 暑い日は頭から水をかぶる、思いだせば僕もよくやっていた行為です。しばらくするとお互いに水をかけあって、笑い転げています。これもまた必然の流れで思いだします。ただ水がそこにあるだけではしゃぎまわれる、若さ。太陽と水と笑顔が爽やかです。またしばらくすると4人の友人が加わって何やら作業をしています。
どこから持って来たのか夜店のヨーヨーぐらいの大きさの風船が大量にあります。1つ1つに水を入れて水風船を大量生産。夜店でもやるのだろうかと思ったけれど、それは違っておそらく風船爆弾を投げ合って遊ぶのだろうと思い当たりました。結果を見届けずに席を立ちましたが、感じのいい若者たちでした。太陽と水と笑顔。 ふざけ合いながら走り回っている彼らを見ていると、いじめとか、陰湿な暴行事件とかを起こす若者とは無縁な感じがします。抽象的だけれど、太陽と水と笑顔、そして気の置けない友人さえいれば若者はまっすぐ育つのではないかと思いました。
太陽の下でのびのびと四肢を伸ばし、汗をかき汗を洗い流し水をがぶがぶと飲む。お互いのちょっとした言葉、表情、しぐさに大笑いする。そんな若者ならなんでもないあたりまえのことが時代とともに消え失せているような気がしてなりません。 滋賀県知事選、自民公明敗北で1つの光明 何しろ男女平等ランキング(対象国136カ国中105位:2013年度)日本の女性国会議員比率が先進国で最低でたったの8%(「列国議会同盟(IPU)」報告書)という国情で、情けないことに先日の都議会でのやじに類する暴言は何度も繰り返されています。
政治家としての能力も品性もない男性議員が何を言ってるのだろうとその自覚のなさに呆れ返りますが、この国においては女性であるがゆえの苦難が明らかにあります。もしドイツやフランスのように国民の意識がひらかれていれば嘉田さんがメルケル氏のように首相に選ばれるでしょう。 いやしくも国政トップの座につく安倍首相の意識の低さを見れば当然のことですが、日本では男性であるというだけで、とんでもない人物が要職に就きます。せめて女性議員比率が世界平均の22%ぐらいにはなって欲しいものです。そんな嘉田さんの方針に共鳴して当選した三日月氏。嘉田前知事の意志をついで「男として」思う存分活躍して欲しいものです。 ドイツ対アルゼンチン、組織力とメッシの突破力の戦い 信じられないような技術を観ました。名選手にはある一瞬、相手選手と観衆を金縛りにしてしまう能力があるような気がします。歴史に刻まれた超人的な選手たち。そのそうそうたる歴史の中でもメッシは燦然と輝くでしょう。組織力、総合的な攻撃力で勝るドイツ。メッシを頂点とした結束力で立ち向かうアルゼンチン。歴史的な試合がもうすぐ始まります。 無関心という名の病気と治療法 個人がその個性や純粋な疑問を失った時に簡単に感染してしまう病気だからです。誰でも子供の頃、学生の頃を思いだせば分るはずです。月がきれい、海がきれい、空がきれい・・・友人の悩みを共有したり、社会の理不尽を「それはおかしいね」と疑問を持ったり、それは誰でもあったはずです。
無関心という病気にたいする耐性を子供はみんな持っています。それがある時に、人によって年代は様々ですが、その耐性を失ってしまいます。それが就職が機であったり、結婚が機であったり、学問や職業が機であったり、さまざまです。ただ共通するのは閉鎖的な思考だと思います。 エゴイズムの確立と言ってもいいかも知れません。知識のない何も知らない子供のエゴとは大きな違いがあります。もともとあった面白いこと、大自然や大宇宙に対する好奇心が欠落してしまった結果ですから。子供の頃の好奇心がそのまま保たれ、知識や人生の機微を学び取った大人なら、環境や命に関わる問題に無関心でいられるはずはありません。
だって、科学であれ芸術であれ哲学であれ、経済であれ、すべて命あってのものなんですから。無関心の治療法はまず子供の心を思いだすこと、次に愛することの意味を考えること、そして自分が生きる、自分の命を大切にすることです。伝染力の強い病気ではありますが、治療法もまた強力です。愛は無関心を治癒するワクチンです。 子供の心は偏狭を打ち破る教科書です。そして自分を大切にすることはエゴイズムに対する抑止です。戦争、放射能汚染、環境汚染。どれも絶対にあってはならないものですし、人間が阻止できるものです。そのための条件として、無関心と言う名の病気を世界から無くすこと、まず先進国に住む住人から無くすことだと思うのです。 アダルトチルドレンの深刻02 定義は分りにくいけれど、要するに親の精神的不安定あるいは両親の不和からの心理的歪みが子供に対して様々な悪影響を与えることだろうと思います。そしてネグレクトの反対のように見えても子供への過干渉も根っこは同じなんだろうと思います。
人間としての価値観がくい違い、夫婦としての愛情や尊敬が消失しているにも関わらず仮面の家庭を演じている場合や、経済的事情を優先するあまりぎくしゃくした関係を続けている夫婦に育てられる子供の心を想像すれば、その不安の深刻さを理解できます。一個の人間として、親としての生き方を放棄し、自己存在を子供への干渉に転嫁している人も増えているような気もします。 親の精神、生活が不安定、不自然であれば子供の心もまた不安定になるのは当然で、それは子供が大人となってまた循環してしまう可能性があります。個としての生き方、人生の目的をまず親が確立することこそ子供への愛情ではないかと思うのです。 アダルトチルドレンの深刻01 人が人を思いやる、人と人が助け合う。人間としてあたりまえの心のあり方が殺伐とした社会に霧散してしまったようで、そら恐ろしくもなります。親のあり方、教師のあり方、職場のあり方、そして社会のあり方。
1人1人の個性が練られる前に、集団としての価値観を押し付けられてしまう悪循環がもたらした没個性的環境。それは結局エゴイズムと無関心に結びついてしまうのだろうと思います。増えつつある深刻な問題。 アダルトチルドレンとは「機能不全家庭で育ったことにより、成人してもなお内心的なトラウマを持つ」という考え方、現象、または人のことを指す。・・・とウィキペディアにありますが、今の日本は機能不全国家寸前で、家庭や企業が経済的トラウマに侵されて人間としての本質を見失っているのではないかと思いたくもなります。 それでは多くの国民がアダルトチルドレンとなってしまいます。家庭が子供たちの基盤であるとするならば、国家は国民の基盤ですから当然ですが、家庭も国家も、間違った環境には反発、あるいは離脱せねばいびつさは連鎖しますます歪みはひどくなるのだろうと思います。 テトラパックとロータリーエンジン
ルーツや事情は全く知らなかったのですが、とにかく先進の感じがしたのを覚えています。牛乳容器とは関係がありませんが、マツダがロータリーエンジンを搭載したコスモスポーツを発表した時にも同じような先進性を感じました。原型が1957年にドイツで試作されたといいますからテトラパックと同じような時代です。四角形容器に押されたテトラパック、そしてレシプロエンジンに押されたロータリーエンジン。 どちらもその構造の合理性において勝っているのだけれど、登場する時代が早過ぎたのかも知れません。2004年にマツダによって水素ロータリーエンジンを搭載したRX-8が公開されその可能性は広がっていますが、正四面体の容器もそのうち街のあちこちで見かけるようになるのかも知れません。 平和と非暴力、それは日本人の誇りではなかったのか
日本では動物の殺処分数が年間20万頭。ドイツの殺処分ゼロは有名ですが、イギリスでも年間7000頭ですからこれも絶句です。他にどれだけのワーストがあるのだろうと怖くなります。
それでも平和憲法の下、戦後70年をかけて築いてきた平和と非暴力という誇りがあります。先進国として恥ずかしい社会状態もありますが、もっとも大事な平和と非暴力というキーワードに関しては胸を張れます。今までは・・・。集団的自衛権の行使容認。安倍政権がやっていることは、日本人にとって致命的な精神的ダメージをもたらすだろうと思います。 憲法九条の平和主義こそ日本人の精神的基盤だと思うからです。平和でありさえすれば国の形態はいかようにも修正できます。先述のワーストも改めることはできます。何があっても平和主義だけは守らなくてはならないと思います。 「集団的自衛権の行使」容認。歴史的汚点と国としての後退 「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」九条に規定された要素は世界の全ての国が未来に向けて目指さなければならないもので、まさに先進的な憲法です。その重みは自国のみならず世界に対する重みでもあります。70年もの間、戦争で誰も殺さず、殺されずに命を守り続けた尊い精神的基盤です。
そんな重要な憲法を時の政権が軽々に触れることなど絶対にあってはいけないことですが、安倍政権は一線を越えてしまいました。安倍晋三首相が何故に戦争ができる国へと変えたいのか、それが本意なのか圧力なのか分りません。作家の森村誠一さんが朝日の声欄に投稿された文に・・・「それなのに、急いで恣意(しい)的に9条を葬ろうとしている魂胆は、どこにあるのでしょうか。 思うに、(1)「支持率が高いうちに」というタイミング(2)祖父の岸信介元首相から引き継いだ改憲への私的執念(3)右派の側近や支持団体の圧力(4)歴代内閣ができなかった解釈改憲をやって歴史に名を残すという野心――といったところでしょう。」と書かれていましたが、どうしようもない低次元の動機です。 国民の命を左右し、国の未来を決定づけるかもしれないこの上なく重要な問題に対して一国の首相が胸に描くべきものではないだろうし、アメリカを始めいかなる圧力がかかろうとも影響されてはいけない、それほど大事な問題であるはずです。 これはおかしい、危ないと気づいた国民1人1人が自らと日本の未来のため、こんな馬鹿げた政策には「ノー」を集積して反故にさせなければなりません。そしてもしことが起これば戦地や危険な場所で恐怖し苦しむのは未来ある若者であり、決して政治家ではないことを国民は肝に銘じておかなければいけないと思います。 未来を生きる若者への言葉 「仕事が来なくなることより、使い捨てにされることを恐れてほしい。教師次第で声は、生涯熟成を重ねてゆける・・・」(07/01朝日新聞朝刊)と語りました。この言葉は声楽の世界だけではなく、未来ある若者全てが心がけるべき姿勢であると感じました。短絡的な世界に埋没しなければ生きて行けないような強迫観念を与える社会ではありますが、長い人生、そして未来を考えれば何が大切かは明らかです。 音楽に限らず、あらゆるジャンルにおいて「人間がもっとも大切にすべきは「ノーという勇気」そして考え方次第で心もまた生涯熟成を重ねてゆける生き物だと思うのです。 |
今や自然エネルギーを有効に使えるだけの科学力があります。原発を完全に無くし、
化石燃料をなるだけ減らして行くことが未来に対する人類共通の責任です。