睦月/1月/JANUARY
若者の目が輝くとき ドイツ、フランス、イギリスを凌ぐ経済力は本当に日本人の暮らしに反映されているのだろうか。発展途上国の貧困と比べれば、ものがあふれる日本はまさに豊かさそのものですが、何か違う、どこかおかしいと多くの人が思っているはずです。 これだけの経済力があれば、社会的な歪みは政治、施策によって是正できるはずなのに同じ過ちが繰り返されて、国民一人一人の笑顔はどんどん消え去って、しかめっ面と無表情が蔓延する。若者は夢を持てず、他者との調和ができない。孤立、孤独、なんだか変です。
奇妙な強迫観念から自分だけを守ろうとする心理が拡大しどこかさめた人間性、そして守りきれなければ挫折、屈折。そもそも人間は何を目指して生きるべきか、何を求めて生きているのかの根源的な問いかけがあまりにも希薄になっているように思えます。 多くの情報が得られる現代において社会的意識に裏打ちされない個人的指向などそもそも発生しないと思うのだけれど、まるで中世のような内向きな感覚は何故でしょう。 若者に社会意識が芽生え芸術や科学に純粋な興味が湧き、友情や愛情がもっとも大切なものだと再認識した時に若者の目は輝き、社会は笑顔を取り戻すのではないか、人間的な社会を再構築するためにはそれしかないと思うのです。 「アベノミゾシル」 平和学の第一人者として知られるヨハン・ガルトゥング氏が沖縄の現状を「平和と対立する構造的暴力の下に置かれている」と指摘しましたが、原発問題も構造的暴力ですし、闇雲な公共事業も構造的暴力です。国民の声が届かない、医療、福祉、教育に関しても国民の意思とのギャップは大きく、安倍首相が語る「積極的平和」は「積極的暴力」の間違いではないかと思うぐらいです。 ガルトゥング氏は「構造的暴力」を断ち切ることが「積極的平和」だと定義していますが、まさにその通りで、特定秘密保護法は構造的暴力の強化拡大に他なりません。軍事を持ってなされる平和などあるはずがありませんし、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」とある日本国憲法第9条の条文に背く思考です。 自由と平和というかけがえのない状況を固持するためにも一人一人が「アベノミゾシル」動機と目的を推測し、ブレーキをかけなければ「誰も望まない」事態になるかも知れません。強権主義はだめです。大企業や多国籍企業の圧力に屈する政治はだめです。平和をないがしろにする施策はだめです。そして何よりも一人一人の人権と自由を最上位に掲げない国家はだめだと思うのです。 みどりの1kWh/ドイツから風にのって そんな情報が世界各国から流れてくれば、閉鎖的で偏狭になりがちな島国日本の視点が少しは変わるのではないかと思います。以下はみどりの1kWhのコンセプトです。「私たちが住むベルリンでは、脱原発をどう達成するかと、様々な議論が交されている。情報の多様性と独自の主張に富むドイツのメディアに触れられることのありがたさ。 この特権をどうすれば分かち合えるか。身の回りにもアイディアが溢れている。インターネットを使えば簡単に声が届くかもしれない。こちらの状況を書いて伝えたい。そんな思いから、私たちは集まった。ジャーナリスト、物書き、建築家など、何十年もドイツで生活している者が多い。話題はあちこち飛ぶ。・・・」http://midori1kwh.de/
苦渋の都知事選 もともと原発を推進し格差社会、弱肉強食社会、危険な安倍政権への道筋をつくった張本人の小泉氏が掲げる反原発の真意はなんなのだろうと考える人も多いのではないかと思います。それでも猪瀬氏に大量の票を投じた東京都民の現実を考えると「とにかく原発を止めるための勢力になるなら」との思いで影響力の大きい小泉氏が推す細川氏に期するところもあってまさに苦渋の心境だろうと思います。 今回は反原発、反格差社会の意志がはっきりしているリベラリストの宇都宮さんで戦えるだろうと思っていた人にとっては、なんとも言いがたい、それでも原発は止めなければならないというジレンマの多い選挙、票が割れるのが避けられないだけに深刻です。 ちょっと古き大阪の記憶01<映画館> しかも2本だて3本だてが当たり前の時代でしたから、映画館で暮らしているような人もいたはずです。身近だけれど映画館は非日常の空間。そんな映画館に浸りきっていた人の日常は逆に非日常だったに違いありません。 映画は感性と知識をゆたかにします。世界中の優れた映画が身近な映画館で観れる。今の環境を見ればあの頃は本当にゆたかな時代だったのだとあらためて思います。 男女平等度ランキング105位、報道の自由度ランキング53位だけれど スイスに本部を置く世界経済フォーラム(WEF)が毎年公表している「The Global Gender Gap Report」を基に作成された社会進出や政治参加における男女間の平等度を示すグラフを見れば対象国136カ国中105位で日本社会の後進性が垣間見えます。「世界の報道の自由度指数(World press freedom index)」は53位。
(世界経済のネタ帳より。http://ecodb.net/ranking/ggap.html)男女平等と報道の自由指数が低いのは先進国としては恥ずかしい評価です。世界平和度指数が6位なのは誇らしいですが、それも世界に誇る平和憲法があってのことであらためて感謝です。考えてみれば女性の自由度と報道の自由度の向上は民主国家の基本で、GDPと国情の不均衡はその辺にも理由がありそうです。 それにしてもせっかくの平和度指数を秘密保護法や集団的自衛権などの施策がもとで評価を下げるようなことがあってはたまりません。理不尽や不条理が多々あるとしてもそれは少しずつであっても是正してゆけますが、言論の自由さえ脅かされる強権国家になってしまえば、戦争への流れすら抗議できなくなります。今こそ、自由と平等の精神をいまいちど1人1人が意識しなければならない時代だと思います。 やりたい放題としかいいようのない安倍自民。 沖縄県名護市長選で選挙期間中、自民党の石破茂幹事長は500億円の振興基金構想を表明し、辺野古移設に反対する稲嶺進氏が当選すると構想を見直すとのこと。なんともあからさまで国民を馬鹿にした行為です。原発立地への対応も同じですが、お金で人心を煽動するやり口は余りにも下品です。しかも当然ながらお金は税金ですから、国民は怒るのが当然です。 次の国政選挙までの3年間、やりたい放題を決め込んでいるかのような安倍政権の目に余る振る舞いを甘んじれば、本当に取り返しのつかない事態になるのではと危惧します。 日本の各都市の歩道に記憶のプレートを その芸術家は「名前が忘れられたとき、その人物は忘れ去られる」との考えで最初のプレートをつくったそうですが、決して忘れてはいけない記憶を町中の歩道の要所に埋め込むアイデアは日本も見習ったらどうかと思います。 記憶の薄れかけた戦争の悲惨さ、まだ3年も経たず、被災地の再建はおろか避難を強いられてる15万の人々が難儀している現状がある福島原発事故。
汚染水は増え続け、海への流出阻止もままならず、廃炉作業も未知の領域といいますから、収束どころの話ではありません。なのに再稼働や新規建設、他国への原発輸出など福島原発事故が無かったかのような政府の振る舞いにはその理性と良心を疑います。 政府がやるべきことは東京や大阪などの都市の歩道に「原発事故の処理ははまだ何も終わっていない」と書いたプレートを埋め込むことです。「事故が忘れられたとき再び事故が繰り返される」可能性があるからです。 特別な施設や場所ではなく日常の中に、そして1人1人の心の中に忘れてはいけない記憶は刻まれていなければならないと思うのです。 風化、忘却させてはいけないこと そして何より人間としての誇り、人間への愛情が戦争という絶対悪に対する抵抗を生むのだと思います。かけがえのない幾多の命が失われるのを目の当たりにし、自らも恐怖の中から生還したものとしての使命感から発せられる重い言葉に1人でも多くの人が耳を傾けなければならないと思います。戦争は人間から何もかも奪ってしまう。誰でも分かる真実です。 にもかかわらず安倍政権は戦争ができる国へと舵を切っています。正常な思考、神経ではありません。そんなことにはならないだろうとの軽視、あるいは無関心が社会に蔓延した時に進行し、気がついた時には恐怖で反対すらできないのが戦争です。平和を望むなら、自由を愛するなら、1人1人が戦争へと傾くどんな小さな要素にも敏感にならなければいけないと思います。 やっとたどり着いた民主国家だから 2000年という長い歴史の中で、人間が叡智に叡智を重ねてきた結果の今です。数えきれない人命と、各時代の圧政の中で平和と自由のために殉じたかけがえのない人たちの魂がもたらした今です。それでもその平和はまだたったの60年あまり。やっとたどり着いたばかりの今です。
そして巨大企業というあらたな支配者が日本といわず世界を視野に権力を拡大しつづけている現状は大国アメリカをも動かす多国籍企業の力を見ればよく分かります。対して独自の歴史、文化、哲学を持って時代の流れと対峙する欧州の先進国を始めとする国々。 果たして日本の国家としての意思は確立されているのだろうかと考えれば、とてもそのようには思えません。やっとたどり着いた民主主義の土台を自ら破壊するような政治や風潮に対して、まだ自由である国民1人1人が「自由と平和」という到達点、そして始発点を噛み締めなければならないと思うのです。 当たり前のことを当たり前に語り合える国に 原発が危険で非人道的で非経済的なことも明らかになって、事実を知らない見ようとしない人以外は反原発になるのは当然のことですし、自由が犯され戦争への道をつくってしまうかも知れない秘密保護法の制定は本当に恐ろしい話です。にも関わらず学校でも職場でも当たり前のように議論されているかと言えば、それはごくわずかな人たちで多くは無関心を装って話題を避けようとします。
個人が避けようが避けまいが同じように関係する逃げようもない大問題なのにです。とても不思議な気がします。この風潮はいったい何なんだろう?自分の意見を言わない、個人的な問題以外考えない、正しいことをすると損をする・・・まるで見ざる、聞かざる、言わざるが処世術だった封建時代のようです。 資本主義社会だから損得が幅を利かせる部分は分かりますが、同時に民主主義社会であり自由主義社会でもあるのですから、平和と自由をおびやかす絶対的な悪に対しては1人1人が自ら考え、そして協調し、声を発しなければあまりにも情けないと思うのです。 日本の民主主義はそんなにやわくない? アメリカ大使館のホームページ中の「民主主義の原則」というページからの抜粋ですが、考えさせられます。安倍政権の独断的な政策を目の当たりにしていると、はたして「民」は主体なのだろうかと思うからです。確かに君主制でもなく独裁、専制、権威主義でもないけれど、間接民主主義の弱点をついた暴挙主義とでも言いたくなるような実態です。
欧米の民主主義に比べ土台の脆弱さはあるけれど、日本の民主主義には日本国憲法というかけがえのない柱があります。憲法前文にこうあります「・・・われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する・・・」 安倍首相は憲法を遵守しているのだろうか?戦争がどれほど非人間的な行為であるのかを過去の戦争に学んでいないのだろうか?もしそうなら国民1人1人が声を上げて民主主義を教えねばならないと思うのです。 アメリカ偏向の日本にヨーロッパの風を 同様に日本社会の世相もハリウッド型になってしまった気がします。東京や大阪などの大都市にはアートシアター系の映画館があって、世界の映画は見る事ができますが、見る人の数は限られていて世界の風はどこ吹く風です。でも数年前からヨーロッパ映画の上映が増えて来たような気がします。うれしい兆候です。
同じ先進国と言われる国々でも文化への思い、社会意識の持ち方などが大きく違っていて、日本やアメリカの価値観や常識があまりにも偏っているのではないかと、映画を観るだけでも考えさせられるからです。もし影響力の絶大なテレビ番組の一部に、世界とはいわないけれどせめてフランスやドイツで流れているドラマや映画を取り入れてくれたなら、どんな教育よりいい影響が得られるだろうと思いますし、それが本当の意味でのグローバルな人間を育てることにつながるだろうと考えます。 今の日本。表面的には開かれた国なのだけれど、内面的にはまるで鎖国のような構造があってそれが多くの人の心を硬直させているような気がする時があります。 人類は後どれぐらい文明を存続させることができるのだろう? 仮に文明が10万年前から始まったとしても人間の歴史は地球時間からすればまだほんのわずかです。しかも産業革命以来たった2百年足らず、それこそ一瞬とも言える時間の中で環境を悪化させ、遺伝子を操作し、この地球を壊滅させるほどの核兵器を持つに至ったのには空恐ろしい感を抱きます。
突進する科学力、機械力に人間の精神が追いつかない、というより知力と感性がそれらによって鈍化させられている気がするからです。メキシコ湾に落ちた隕石の破壊力は原爆1億発に相当するそうですが、もし原爆であったなら放射能汚染で地球は死の星となってあらゆる生命はそこで終わっていたはずです。 福島原発の事故で放射能の恐ろしさを多くの人が認識したと思いますが、事故から3年が経とうとする今も多くの作業員の方が被爆しながら事故の収束を担っています。自然が起こす天変地異ならば避けようもありませんが、人間が起こす災厄は未然に防ぐ事ができます。 核兵器しかり、原発しかり、戦争しかりです。危険な農薬、遺伝子組み換え作物も止める事ができます。1億5千万年はともかく、人間が作り出してしまった危険な核廃棄物の安全管理のためせめて10万年はこの文明が続く事を願うばかりです。
あけましておめでとうございます。 そして平和と自由ほど価値のあるものはないと心から思います。テロや紛争のないこの日本なのに原発事故で故郷を奪われた多くの人たちがなれない土地でお正月を迎えています。住み慣れた土地のそれぞれの歴史、培って来た人と人の心の関係。仮に政府の補償が現状の10倍であっても、喪失したものは取り返す事はできないだろうと思います。 計器で測らなければ見えない、感じないからこそ危険な放射能汚染の問題も長く続きます。もう2度と繰り返してはいけない事態です。2014年。原発の廃炉へ向けての流れと平和の礎である日本憲法の堅守だけは多忙で厳しい日常ではありますが、1人1人が心に刻んでおかなければならないと思います。「未来のあけましておめでとう」のために。 |
今や自然エネルギーを有効に使えるだけの科学力があります。原発を完全に無くし、
化石燃料をなるだけ減らして行くことが未来に対する人類共通の責任です。