個々人の思想信条に権力が踏み込んできたり、あまりにも軽々しく憲法を変えるというような言説が堂々と、まかり通っています。戦時中のような思想統制、そして徴兵制が再び布かれるのではないかと危惧されます。そして国民全員の命を脅かし、一国を滅ぼしかねない、更には世界の国々に恐ろしい汚染を垂れ流す原発が一部の人間の私利私欲の為に再び動かそうとされています。
 
この危機的状況にあって、朝日新聞に掲載された、憲法学者 樋口陽一さんの言葉をひとりでも多くの人に読んで貰いたいと思い、全文書き写しました。


インタビュー《戦時世代が語る憲法といま》 憲法学者 樋口陽一氏
        (2012年5月2日朝日新聞朝刊「オピニオン」掲載)

東京の自宅の窓から、六本木や赤坂の街が見えます。夜には明るく輝いている。豊かさを楽しむ人たちがいるのでしょう。一方、3・11後の苦難を強いられている多くの人たちがいます。新聞の社会面には餓死や孤独死といった悲惨なニュースが絶えません。
公正な社会をつくろうというのは、第2次世界大戦後、日本も含め、戦勝国にも敗戦国にも共通した流れでした。日本国憲法はその一つとして生まれました。この憲法のもとで私たちは、外国から「日本ほど平等な社会はない」とまで評価された社会をつくってきました。それがどこでどう変わってしまったのか。大震災、そして原発事故という大きな試練と合わせ、一度、戦後の出発点に立ち返って考える時期だと思います。私自身は、まだ答えは見つかっていません。
 
敗戦の年の1945年、私は仙台市内の国民学校の5年生でした。7月に空襲があり、危なくなったので家族で農家の馬小屋を借りて住み、そこから通学しました。当時の学校は兵営みたいで暗く、貧しかった。級長をしていましたが、ある日先生から「副小隊長を命ず」という辞令を渡された。クラスが軍の単位でいう小隊で、先生が小隊長、私が副小隊長というわけです。夏休みが終わって2学期になったら、役の名前が学級委員に変わりました。学校も急に民主化されたのですね。福沢諭吉流に言えば、一身にして二生ならぬ三生を経る、です。

私たちの世代は戦争には行きませんでしたが、戦時を体験したという意味では「戦時世代」です。この体験を次の世代に引き継げただろうか、という思いがあります。戦前の日本がすべて真っ暗な時代だったというわけではありません。誰でも知っている明治時代の自由民権運動があり、これも誰でも知っている大正デモクラシーはあり、マルクス・エンゲルス全集が世界で一番売れたという時代もありました。45年7月に米・英・中の3カ国が日本に降伏を求めたポツダム宣言に、こんな文言があります。「日本国政府は日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙(ショウガイ)を除去すべし」。戦前の日本には民主主義があったことを、ほかならぬポツダム宣言の起草者が認識していたわけです。


日本国憲法を「この国に合わない」「押しつけだ」と非難する人たちがいますが、それは違う。この憲法の価値観は、幕末以来の日本の近代と無縁ではありません。先ほどあげた自由民権運動や大正デモクラシーといった、幕末・明治以来の日本社会の「持ち物」とつながっています。むしろ35〜45年の国粋主義、全体主義の時期こそ、幕末からの流れと異なるものだった。ポツダム宣言は軍国主義に染まる前の日本の民主主義を「復活強化」せよといい、日本政府はそれに調印したわけです。

大東亜戦争に負けた翌々年の5月3日、日本国憲法が施行されました。私は新制中学の1年生でした。初めて日本国憲法を知った時の印象ですか。学校であの有名な冊子「あたらしい憲法のはなし」が配られました。当時の私は「そういうものか」ぐらいの感じでしたが、少し年上の先輩は「基本的人権」という文字を見て、そんな言葉があるのかと身震いしたといいます。
         
日本国憲法が想定している人間像とは、一人ひとりが自分自身の主人公であり、主人持ちではいけない、というものです。誰かがではなく、自分で自分のことは決める。作家の井上ひさしさんは、人間にも砥石が必要だ、と言いました。砥石で自分の磨いて、立ち位置や居住まいを正す。それが憲法の言う人間像であり、人権の基本です。よく、人権というと、甘いとか、きれいごとだと受け止める人たちがいますが、実際は逆です。誰かが決めてくれた方が、ずっと楽ですから。その誘惑は常にあります。自分で決めると言いましたが、「自分でも決めてはいけないこと」もあります。しかもそれが何かは、自分で決めないといけません。



国民主権についてもそうです。たとえば、ドイツ憲法は第1条で、国民主権よりも、前に「人間の尊厳」をうたっています。ドイツは過去に国民全体でヒトラーとナチスを受け入れてしまった。それが大量のユダヤ人虐殺を生み、第2次世界大戦につながった。だから今度こそ、人間の尊厳を冒すようなことは決めてはいけない、たとえ主権者たる国民の多数を占めても、決めてはいけないことがある。憲法でそう定めたわけです。ドイツは、抽象的な憲法原理でそんなことを言っているわけではありません。

民主主義という制度は、選挙という民主的な手続きによって、独裁者を生んでしまうおそれがあります。民主的に生まれた権力であっても、国民が作る憲法によって制限する。それが憲法の役割です。政治家の側が、選挙で多数を得たのだから白紙委任で勝手なことをしていい、などということにはなりません。近代国家における憲法とは、国民が権力の側を縛るものです。権力の側が国民に行動や価値観を指示するものではありません。数年前に与野党の政治家たちが盛んに言っていた、憲法で国民に生き方を教えるとか、憲法にもっと国民の義務を書き込むべきだ、などというのはお門違いです。

今から120年も前、大日本帝国憲法の制定にかかわる政府の会議で、伊藤博文がこう語っています。「そもそも憲法を設くる趣旨は、第一、君権を制限し、第二、臣民の権利を保全することにある」憲法をつくるとはこういうことです。伊藤は、いわば模範解答を残した。憲法によって国家権力を縛るという「立憲主義」の考え方を理解していたことがわかります。明治から昭和のはじめにかけて、立憲改進党とか立憲政友会のように「立憲」の名を冠した政党がいくつもありました。それほどなじみのある言葉だったのです。では、現代の政治家たちはどうでしょうか。

    
私が生まれ育った東北は、戦前、貧しさに耐えられずに娘を売るなどということがすいぶんありました。一方、東京の銀座や浅草ではモダンな消費文化が大きな花を咲かせていた。戦争も震災も、大きな格差を抱えた中での惨禍という意味で、私には重なって映ります。3.11の天災・人災と生活格差が覆ういま、11条の「基本的人権」や13条の「幸福追求の権利」、そして25条の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」といった日本国憲法が持っている理念を、私たち戦時世代は次世代に引き継がなければいけません。冒頭で「戦後の出発点に立ち返って考える時期」とお話ししたのは、そういうことです。

停滞する政治や社会を、憲法を改正することで変えよう、という声が聞こえてきます。しかし、例えば衆参両院の議論がまとまらないのは、憲法が定める二院制が悪いからでしょうか。決められない首相は、公選制になったら正しく決断できるようになるでしょうか。憲法に「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」があるのだから、脱原発で電力が十分に供給されないのはけしからん、とでも言うのでしょうか。あの小泉純一郎首相でさえ、イラクへの自衛隊派遣の際「参戦」とは言えなかった。本当に9条は空洞化したのでしょうか。

自分たちで新しい憲法を書きたい、作りたいという若い人たちがいるそうですね。そのこと自体は健全な考え方だと思います。議論することに反対しません。ただ、お願いしたいのは、その際、日本の近現代史、さらには世界史まで視野を広げてほしいということです。少なくとも幕末まではさかのぼって、自分たちの社会を作ってきた先人たちが何を考え、どういう犠牲を払って何を達成し、何を達成できなかったのか。どれを継承していくか、捨てるものがあるとしたら何か。過去の蓄積の上に現在があることを、忘れないでください。世界には、日本国憲法よりはるかに古い憲法を今も使っている国があります。アメリカでは「建国の父」たちの権威は絶対で、1788年に成立した合衆国憲法、あるいは1776年の独立宣言が現役です。フランスでは1789年の人権宣言が現行法なのです。彼らには、こうしたものを度外視して憲法草案をつくるという発想はありません。

憲法という基本法を作り直すということは、自分たちの歴史に向き合うことでもあります。論議をするのなら、そのことは十分に意識してほしいと思いますね。「決められない政治」にいらだつあまり、大きな物差しでこの社会の将来を考えることを、忘れないでください。

(聞き手 編集委員・刀祢館正明 秋山惣一郎)

 

 

インタビュー《戦時世代が語る憲法といま》 憲法学者 樋口陽一氏

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