330頭の牛を見捨てる事はできない。「希望の牧場・ふくしま」代表:吉澤正巳
2015/11/22 福島第1原発事故で飼い主を失いやせ細ってさまよう家畜の映像をテレビ映像で見ましたが、本当に痛ましい光景です。多くの人たちがふるさとを失い、悲観のあまり自殺者さえ出した原発事故の凄まじさはテレビを始めとするマスメディアが正確な実体を伝えているとはとても思えません。人間、犬、猫、牛や馬などの家畜を始めどれだけの動物の命を奪ったのか計り知れませんが、放射能汚染の恐ろしさは4年半経った今も、汚染土の処理、汚染水の処理もままならない現実を見ればその深刻さは誰にでも分かります。この事実を無視して原発を再稼働しようとする政府や電力会社の無責任ぶりには言葉もありませんが、被爆して今なお生きる330頭の牛たちは原発事故に対する声なき生き証人です。その牛たちを殺さずせめて天寿を全うさせようと懸命に世話をする「希望の牧場・ふくしま」の人たちには頭が下がります。膨大な餌の確保のために汚染牧草の提供を近隣の自治体に要請していると記事にありましたが、まさに苦肉の策でつらいけど、唯一の方策なのはよく分かります。吉沢さんの苦悩、怒り、やるせなさは日本人1人1人が共有すべき感情だと思います。
1億総括役社会?
2015/11/19 首相官邸ホームページに「少子高齢化の流れに歯止めをかけ、誰もが活躍できる「一億総活躍社会」の実現に向けて、政府を挙げて取り組んでいきます。」と記されています。白々しいというか、無責任というか、言葉もありません。安倍首相は口先だけで国民の評価をどうにでも左右できると思っているようで、あまりの厚顔に恐ろしくなります。
先進国の中で際立って女性が活躍していない、活躍できない社会を作り出しておいて、この経済的に豊かである日本で貧困とか格差の問題を増長させておいて、何をたわけた事を言うのだろうと呆れます。美しい国とか原発事故の汚染水の問題をコントロールできているとか無責任もいい加減にしろと多くの国民がなぜ思わないのでしょう。本当に不可解な国です。自分のことでみんな頭の中が一杯なのでしょうか。少し考えれば誰にでも分かるような嘘を平気でつく首相とそれに怒らない国民。怪しげな経済政策で国民を煙に巻きながら、安保法案とか辺野古の問題とか、あまりにも危険で非情な政策を次々と強行する姿を見て、不安に駆られない国民の意識、心情はどうなっているのかと思います。もちろん心から日本の現状、未来に危惧する人たちが懸命の反対を唱えているのも現実ですが、何故もっと多くの人が同調しないのかがとても不思議です。
政治ではなくヒューマニズム(人間性の尊重)の問題です。
2015/11/13 原発、安保法案、沖縄の基地問題。どれも根っこは同じで、命の尊厳、自由の権利といった、人間の根幹的な部分に対する非情と冒涜です。原発にまつわる虚偽は福島原発事故のあと、そのほとんどが検証されました。安全の嘘、電力不足の嘘、経済的メリットの嘘、使用済み核燃料の処理法の未定。そして被爆する作業員がいなければ原発を動かす事ができないという実体です。人体への悪影響が分かっている施設で働きたいひとなどいるでしょうか。仕事がない、報酬がいいとかの止む得ない事情で、線量計を身につけ定められた被ばく量ぎりぎりまで、働く人たち。決して本意ではないはずです。放射能被ばくと癌を始めとする様々な病気との因果関係を立証する科学的土壌がまだ確立していないのをいい事に、無責任としかいいようのない原発推進者たち。福島原発の事故からの反省やいましめが全くないという現状は異常に過ぎます。そして無謀な安保法案。
アメリカと一緒になって戦争をしたら、悲惨な戦争を2度と起こすまいと平和憲法の下で培って来た日本独自の平和への努力は水泡に帰すでしょう。そして沖縄の基地問題。もし沖縄県でなくて岡山県でも京都府でも千葉県でも沖縄と同じ状況を政府が強要したら、国民は大反発するはずです。沖縄だからいいとの理屈などどこにもないのは、誰にだって分かります。じゅごんが棲む世界屈指の美しい海に戦争のための基地をつくるなど日本国民全てが反対するべきです。大問題ばかりですが、政治の問題としてではなく、人間として当たり前の思考があれば、危惧するのは当然の問題ばかりです。自民党や民主党といったイデオロギーの問題ではありません。政治や政治家が大嫌いで関わりたくない人であっても、命や自由が脅かされるような事態には1人1人が人間としての心、そして判断をしなければ誰もが願う平和と自由に基づいた民主国家は名前だけのものとなってしまいます。
虹の戦士号
2015/11/06 「世界で起きている最も深刻な環境破壊の現場で、そこで起きていることを世界中に発信することを使命とした船です。」詳しい事は知りませんが、このような船がいっぱいあって、世界中の海を航行していればいいなと思います。原潜や原子力空母が多数世界の海に点在している現実とたった一隻の「虹の戦士号」。今の世界情勢を象徴しているような構図です。下記はグリーンピース発信の記事です。
内閣府、虹の戦士号を拒否(2015年11月5日国際環境NGOグリーンピース)
こんにちは、グリーンピース・ジャパン、海洋生態系担当の小松原です。みなさんにささえられて、虹の戦士号は11月1日に沖縄・那覇港に入港しました。 しかし昨日4日、内閣府は虹の戦士号の辺野古・大浦湾海域での航行申請を却下。1週間にも及ぶ手続きと海上保安庁との入念な打ち合わせにもかかわらず、却下の明確な理由さえ明らかにされませんでした。
虹の戦士号は、世界で起きている最も深刻な環境破壊の現場で、そこで起きていることを世界中に発信することを使命とした船です。もし辺野古・大浦湾での工事が本当に"正当"で、"環境への影響がない"というのであれば、なぜ虹の戦士号の航行を却下する必要があるのでしょう?
大浦湾の『命の海』を守りたい。それは、18カ国から沖縄までやってきた19人のクルー全員、共通の願いです。虹の戦士号船長、マイク・フィンケンからのみなさんへのメッセージをお伝えします。
3歳になったばかりの息子のために、わたしは辺野古のジュゴンを守りたい。
もちろん、息子はわたしが航海に出ることをいやがる。
だが彼こそが、世界の美しさと尊厳を守るために、わたしがここにいる理由だ。
インドネシアの森林を燃やし、グリーンランドの氷河を溶かし、わたしたちの小さな惑星は危機に瀕している。それなのに、人間は武装という手段で互いを脅かしあっている。
飢餓や教育不足に苦しむ人々がいるのに、なぜ戦争に投資するのだろう。
平和こそが最大な防御だ。武力は不変の平和をもたらしたりはしない。
恐怖心から、人間は母なる地球を支配しようとしている。
沖縄のジュゴンに残されたわずかな生息地を奪い、生物多様性を壊そうとしている。
命を祝福し支えあうべきなのに、なぜわたしたちは武装しなくてはならないのだろう。
ジュゴンのために。
それが虹の戦士号の使命だ。
虹の戦士号船長 マイク・フィンケン
http://www.greenpeace.org/japan/ja/
貧困政治
2015/11/01 安倍政権のやることなすことはまさに社会的、経済的弱者をないがしろにする政治であまりにも人間としての品位を欠きます。心ない安倍首相と追随する閣僚たちの頭の中はどうなっているのだろうと思うぐらい非人間的で、彼らの言動や人相にもそれは如実に現れています。これだけの現実があって、未だ自民党を支持する人々は日本の未来をどうしたいのだろうと考えてしまいます。安保法案、沖縄の基地問題、原発の最稼働、TPP問題、格差や貧困の問題。民主主義の根幹と日本の未来を左右するような大問題をアメリカの都合によってなされているようで、日本の主体性と誇りがどこにもありません。自由と民主主義を重んじる人々と未来を案じる若者たちが安倍政権に対して抵抗を続けていますが、その輪がもっと広がらなければ慢心の政治家たちには見えない、届かないようです。
起らないはずの原発事故が起ったように、油断すれば起るはずのない戦争だって起ります。絶対にあってはならない危険な方向への徴候に対してはあらゆる抑止が必要です。日本が世界の中で際立つのは平和国家としての存在理由があるからです。世界への貢献もその基盤の上に構築して行くことは出来るはずですし、義務でもあると思います。日本にしか出来ない役割を放棄して戦争のできる国へと変貌するなど狂気の沙汰です。1人1人が現実を見つめこの先を想像すれば、安倍政権の施策は危険で愚かなものばかりだと言うことに気づくはずです。本当に事が起ってからでは取り返しがつきません。選挙で意思表示するのは当然ですが、日頃から政治や社会の変動への目配りは忘れたくないものです。当たり前のことですが自由と平和があってこその経済です。
なんで今頃「38%が被ばく1ミリSv以上 福島原発事故時、自衛隊員ら」
2015/10/26 なんで今頃というような発表がよくなされます。事件事故が起って、その余韻が冷めきった頃を見計らって都合の悪いことを発表。この発表も原発事故から遅くても一年後には分かっていることのはず。この事実が当時発表されていたら、一般の人の被ばくに対する意識はもっと上がったはずです。
戦争へとつながるものへの否定と平和へとつながるものへの再認識
2015/10/22 人間ならば誰でもいやなことだと思います。暴力とその最たる物である戦争。理性や感受性をなくした人間が個人的に振る舞う暴力もあればよからぬ意図を持った人間共が自分たちを安全な場所におきながら無差別に人を殺す、それが戦争です。いかなる戦争にも肯定する要素は一つもない、それだけは真実です。個別に起る小さな暴力と戦争という絶対的な暴力。それはどちらも同じ1つの根っこだと思います。集約すればそれはエゴイズム。自分のことしか考えない自己中心性にあります。他者を顧みない、命を尊重しない、未来を予測できない、それよりなにより自分を客観的に見れない浅はかさ。横暴、無知、無関心。偏見、偏狭、偏向。独善、独断、独裁。まさに今の安倍首相に代表されるような心理、人間性は今の日本、多くの人が陥ってしまっているのも現実です。
でなければ、安倍政権は成り立たないはずですし、これだけ経済力と科学技術がありながら貧困の問題を抱えるような国家はありえないからです。安倍晋三の無責任な言動を見ていると、馬鹿な人間に権力を与えてはいけないと思うばかりです。そんなことが万が一にもないように民主主義があり、法治制度があるのですが、現実安倍晋三は日本の首相に君臨し、やりたい放題といっていい独裁政治のような事態を引き起こしています。恐ろしいことです。当然ながらそのような心から生まれる政策は愛とか平和とかの対極にあるもの、差別とか戦争とか反人間的な世界へと向かうのは必然です。この戦争へとつながる流れだけは止めなくてはなりません。自分に何ができるか、1人1人が出来ることは小さいけれど、それがつながれば絶大でもあります。それが本来の民主主義だと思います。
反対に平和へとつながる考え方や行為行動もたくさんあります。横暴の反対、無知の反対、無関心の反対、偏見の反対・・・偏狭や偏向、独善、そして独断や独裁は小さな家庭生活の中にも会社組織の中にもあります。小さな戦い、自分の身の回りの小さなエゴイズムを1つ1つ客観視しながら削って行くこともまた、平和への道のりです。民主主義とは1人1人の個人が自らの水準を高めなければ成り立ちません。多数を占める者が正しくなければ意味を成さない制度です。1人1人がほんとうに自分自身のことを大切に考え、誇りを持てるよう努力すること。そうすれば他者に対する意識も変わるはずです。自分のことを考える、それはエゴイズムとは対極の姿勢となります。
さあこれからだ。がぴったりのこれから。
2015/09/19 圧倒的多数の与党が国民の不安、疑問、反対を完全に無視しての強行採決。国会の様子は克明にカメラによって伝えられましたが、日本の命運を左右する重要法案にもかかわらず軽率と強引だけが目立ちました。茶番劇のような決定に、議会制民主主義って何だろうと多くの国民が思ったはずです。戦後70年、政治家がいかに偏った思惑をもとうが日本の平和を守りつづけて来た平和憲法。その平和の礎とも言える憲法をないがしろにした安倍政権。その暴挙の責任は意識ある多くの国民がこれから問い続けるでしょう。欧米に比べ政治意識、社会意識が低いと言われる日本人ですが、シールズに代表される若者の意識の芽生えは平和憲法とともに過った政治に対して大きな防壁となるでしょう。
平和と自由は全ての人間の願いであり権利です。積極的平和主義とは軍事によらない問題解決をあらゆる知恵と方法を使って見いだすことです。安倍政権が打ち出す施策は今まで培って来た世界に対する日本の信用と日本が続けて来た暴力を使わない平和貢献の努力を破壊するものです。安倍晋三とそれに類する人間を政治の舞台から下ろさねばなりません。1人1人が自分の頭と心で感じたことをもとに連携すればそれは可能です。それが民主主義だろうと思います。そして間違った政権が下した間違った決断をもう一度元に戻せるのも民主主義です。ただし戦争と言う特殊な状況になる前までが、民主主義に与えられる猶予です。
安倍政権の鈍感と冷酷
2015/09/09 国民の多くが不審を持ち、反対を唱える安保法案。様々な分野、様々な立場の人が全国各地で反対運動を繰り広げています。アメリカの言いなりではあっても日本国民の感情には意を介さない、耳を傾けない安倍首相の心底には何があるのだろうと考えてしまいます。辺野古移設協議にしても国民を欺くために見せかけだけの対話姿勢を示しただけで、問題解決など念頭にもない感じがあらわです。一国の首相として、一人の人間としてその責任と良心はどこへ消えてしまったのかと思います。
新聞に掲載された沖縄問題への意見広告がありました。青く澄んだ海をを背景にあどけない少女の顔が問いかけています。8月30日の朝日新聞に掲載された全面広告です。
見出しにはこうあります。
子供たちに残したいのは
この「美(ちゅ)ら海」です。
軍事基地ではありません。
この意見広告は、全国からの熱い思いのこもった辺野古基金によって実現いたしました。
かけがえのない自然を守りたい。
基地のない平和な暮らしがしたい。
いまこそ沖縄の声を聞いてください。私たちに力をください。
ジュゴンが生息し、サンゴが群棲する、この美しく豊穣な辺野古の海、大浦湾。沖縄だけの宝ではありません。日本の、そして世界の貴重な財産です。
3500億円もの基地建設予算をかけ、貴重な自然を破壊して辺野古の海が埋め立てられようとしています。普天間飛行場の辺野古移設については、昨年の選挙で「反対」の民意がしめされているにもかかわらずです。
世界一危険といわれる普天間飛行場の固定化とともに、私たちは到底受け入れることができません。
政府は2012年、復帰40年の式典で「基地負担の軽減を目に見える形で進める」と約束しました。しかしそれから3年、政府が進めたのはオスプレイの強行配備や辺野古の埋め立てなど、沖縄県民の願いに逆行することばかりです。
戦後70年、本土復帰43年たったいまでも、全国の0.6%の面積にすぎない沖縄に、73.8%の米軍基地が集中する現実は変わっていません。
沖縄への基地集中を選択し、押し進めてきたのは日本の政府です。私たちは自ら米軍基地を望んだことはありません。「基地の中に沖縄がある」といわれるような現状を容認もしていません。爆音や墜落事故の恐怖や危険に脅えることもない「基地のない平和な暮らし」。私たちは、ただそれがほしいだけです。無理な願いでしょうか。我がままな要求でしょうか。
沖縄県民の83%が辺野古移設反対です。
広告の下記にこう記載されていました。
「この意見広告は、全国からの熱い思いのこもった辺野古基金によって実現いたしました。」
エンターテインメントの洪水と注意しなければいけない現実
2015/08/18 スポーツ、映画、演劇、コンサート、ゲーム、本・・・娯楽の量はまさに洪水状態で、楽しみ、気晴らしを超えて娯楽からの脱出がいるような時代です。スポーツ1つとっても野球、サッカー、テニス、体操、世界水泳、世界陸上、世界卓球、世界バレー、モータースポーツもあります。高度な技と力とセンス。高度な能力を目のあたりにすると我を忘れて心地よいものです。世の中が平和だからこその快感。でも現在のように庶民に情報が行き渡らない時代、娯楽に熱中する世相の背景で戦争への準備が密かに行われていた時代がありました。
気がついた時にはデモどころか小声でも政権を批判できない恐ろしい状態。言論の自由が封鎖され全体主義、国家主義の強圧の中で平和は消え去ります。娯楽どころではない状態、夢や希望の代わりに恐怖と絶望が覆いかぶさる理不尽な人生。日本だけでなく世界の歴史を見れば戦争の足音が騒音と無関心の中でかき消され、重大事が起った時には手遅れでどうしようもない事が証明されています。戦後70年続いた平和な時代は偶然でも成り行きでもなく戦争や束縛へ向かう足音に敏感に反応する人々がその都度抵抗してきたからです。そして、そのバックグラウンドには世界に誇れる日本国憲法、平和憲法があります。強大で狡猾な権力の暴走を止める防波堤です。スポーツや映画などの娯楽は僕も大好きで、こんな時代が永遠に続いて欲しいと願います。
エンターテインメントの洪水の中で、それに埋没して現実を見る感覚を無くしてしまったら、また娯楽どころではない社会がやってきます。戦争なんてあり得ないとか原発事故なんてあり得ないとか思っている人がいるとしたら、それは間違いで無責任です。現実原発事故は起りましたし、4年経った今も事故原因を始め、ほとんどが未解決です。小さな糸口から戦争だって必ず起ります。アメリカや資本家の言いなりになっている安倍政権を見ているとその感はひときわです。人が人として自由に生きるために1人1人が「entertainment」を楽しむかたわら常にそんな当たり前の状態を守るためにも政治には目を光らせ耳を澄ませてほしいと思います。未来のために。自分自身のために。
安倍首相の言葉の軽さと悪用、誤謬
2015/08/16 原発の汚染水がコントロールされているとか美しい日本だとか、無責任な言葉が目に余ります。後藤健二さんが殺害された無念な事件の時も口先で国民の命を最優先すると言いながら、その後明らかになった事実では、ほとんど棄民と言えるほどの冷酷な対応でした。この人の心はどうなっているのだろうと多くの人は不安を抱えていますが、今現在その人が日本の最高権力者です。安倍首相が唱える積極的平和主義という言葉がありますが、積極的とか消極的とか以前の問題として平和という概念が狂っています。もちろん承知の上でのまやかしなのですが、本当に卑怯で危険な人間だと思います。積極的平和主義が本来どういう意味なのか、よく分かる記事があったので以下に引用します。・・・・・・
「積極的平和主義」とは
「平和学の父」とも言われるヨハン・ガルトゥング博士は、平和を戦争のない状態と捉える「消極的平和」に加えて、貧困、抑圧、差別などの構造的暴力のない「積極的平和」という概念を提起して、そのような平和の必要性を主張している。ところが、安倍首相の言う「積極的平和主義」とは、実は全くそれとは異なる。それは、アメリカなどに協力して、行き詰まりを「力で打開する」ことを意味し、そのために今まさに安保法制を強引に立法しようとしている。これは、「法の支配」を軽んじて、戦後日本の平和主義を放棄することである。実際、ガルトゥング博士は安倍首相の「積極的平和主義」について、「私が1958年に考え出した『積極的平和』の盗用で、本来の意味とは真逆だ」と述べたという。
小林正弥(2015/08/15朝日新聞(WEBRONZA)
Wikipedia
ヨハン・ガルトゥング(Johan Galtung、1930年10月24日 - )は、オスロ生まれのノルウェーの政治学者。平和研究、紛争研究の開拓者の1人として知られている。
平和を戦争のない状態と捉える「消極的平和」に加えて、貧困、抑圧、差別などの構造的暴力がない「積極的平和」を提起し、平和の理解に画期的な転換をもたらした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヨハン・ガルトゥング
自民党安倍政権の横暴政治。
2015/07/15 民主主義の根幹を破壊したいかのような横暴ぶりにつくづく思います。こんな政党、国会議員は選んではいけないと。ここまでの愚劣さ凶暴ぶりを目の当たりにして自民党の支持率は下がってはいますが、まだ自民党を支持する人がいることが驚きです。国民の命や未来を無視する政治。まるで時代劇の悪代官を彷彿とさせる安倍晋三の暴挙に圧倒的多数の国民のノーが必要です。
大切なのは、見えないものを見る、知らない世界を知る、そして理解しようとする姿勢
2015/07/02 可視化されていない多くの社会的悲惨や残酷。事実を知れば多くの人がこれが先進国のあるべき姿か?と怒りと疑問が湧きあがる問題が多々あります。その多くは明らかに間違った政治に起因しています。そして国民1人1人の価値観の劣化もあります。命、幸福、人生、人間性などに対する考え方が短絡的になりつつあります。とても不安です。特に若者の無関心や情熱の喪失には大きな不安を覚えます。でもここに来てやっと非人間的な安倍政権の施策、体質に対して異議を唱える若者が増えてきたのは光明です。
そのうねりがもっともっと広がって、先ずこの間違った政治を変えなくてはいけないのだろうと思います。そうなれば当然1人1人の生き方、考え方も変化するはずです。以下に抜粋した文はジャーナリストの鈴木大介さんが執筆した「最貧困女子」という本のあとがきにあるものです。非情でいびつな日本社会の現実が見えてきます。貧困女子の問題を筆頭にして可視化されていない見えない苦しみがどれだけあるのかと想像するだけで暗澹たる気持ちになります。それでも問題が見えれば、少しでも理不尽を是正する動きが増えるはずです。何事においても、知ろうとしないこと、そして理解しようとしないこと。それが一番いけないことだろうと思います。
「最貧困女子」(幻冬舎新書)あとがきより抜粋
「世の中で、最も残酷なこととはなんだろうか?それは、大きな痛みや苦しみを抱えた人間に対して、誰も振り返らず誰も助けないことだと思う。そんな残酷は誰もが見たくはない。道端で倒れて七転八倒している女性がいれば、多くの人が手を差し伸べるだろう。だが、その女性が脂汗を拭きながらも平然を装っていたら?声をかけても「大丈夫ですから」と遮ってきたら?睨みかえしてきたら?その女性との間に一枚の壁があったら?人々は通り過ぎるだろう。さらにその女性が何か意味不明なことを喚き散しでもしていたら、人は目を背けて足早に歩き去るかもしれない。助けてくださいと言える人と言えない人、助けたくなるような見た目の人とそうでない人、抱えている痛みは同じでも、後者の痛みは放置される。これが最大の残酷だと僕は思う。・・・
現代の日本ではこうした最悪の残酷が広がりつつある。格差社会、若者の所得の低さ、特に貧困が単身世帯の女性や、一人親(特にシングルマザー)に集中しているという報道は、昨今否応なく耳に入ってくる。・・・取材期間中、幼い娘を残して自殺してしまったシングルマザーもいた。彼女は売春相手とホテルに向かう際、愛娘が児童養護施設で作ってくれた折鶴をお守りのように財布に入れていた。何も与えられず、何にも恵まれず、孤独と苦しさだけを抱えた彼女らは、社会からゴミ屑を見るような視線を投げかけられる。もうこんな残酷には耐えられない。繰り返す。抱えた痛みは同じなのに、なぜ彼女らを救おうとするものがこれほどまでに少ないのか。彼女らを放置することは、例えば病院の待合室で同じ病気で苦しむ人々がいるとして、一方を診察室に入れ、一方を放置する状態と何ら変わりはない。果たしてこれが正しい社会とはとても思えないし、それを見過ごすことは絶対的に悪ではないのか・・・」
先進国家、近代国家、民主国家というけれど
2015/07/01 独自の文化と歴史の中で培われた今ある現状を真摯に見つめ、誤った過去の反省と誇るべき歴史の継承、そして日本という国に暮らす全ての人、命あるもの全てに対して手厚い処遇がなされなければ近代国家とは言えないと思うのだけどはたして・・・つぎつぎと施行される逆行する政策で世相に翳りが差します。GDPが世界3位なのに格差や貧困、不平等などという言葉が飛び交うような国をなんと呼べばいいのでしょうか。
安倍自民党の欠落
2015/06/24 暴言、失言の連続でその意識の低さと人格のいやしさが露骨な安倍自民党の面々。知識不足とか理解力がないとかの次元では片付けられないほどの暴言が飛び出す裏には裸の王様である安倍首相の傲慢不遜があります。何故の大きな態度なのかと思うけど、・・・これだけ盲目的な強引さを目の当たりにすると米国のお墨付きでも貰っているとしか思えません。何をやらかしても平気、何が起っても責任を取らないという確信があるかのような政策。こんな人物、こんな集団に日本の未来を預けようと思う人はどういう考えの人なのだろうかと考えてしまいます。同じ孔の狢、悪事を働く人と社会に無関心な人は同類です。でもそんな人間が多数を占めているとはとても思えません。むしろ多数の人間は批判と不安を持って安倍政権を見つめているはずです。
戦後日本を牛耳ってきた自民党の功罪の歴史の中でも安倍政権は最悪だろうと思えます。国民の命や生活に対する配慮が全くない政治。政治とは国民の命を守り、いかにして自由で健全な国家を作り、維持するかに腐心することですから、真逆としか言いようがありません。先の人質事件で後藤健二さんを見殺しにした政府。安倍首相はテロに対して「日本人には指一本触れさせない」とマスコミに語りましたが「政府は事件に対して指一本触れなかった」のが真実です。「原発事故の汚染水がコントロールされている」とか「美しい日本」「輝く女性」など口からでまかせ出放題。自身の言葉に酔っているのか、言葉でかく乱しようとしているのか、おそらく両方でしょうけど、あまりに無責任で無情な感覚です。1人でも多くの人が、あらゆる機会あらゆる場所で安倍政権の危険性と実体を語り広めなくてはならないと思います。
憲法学者の当然の姿勢
2015/06/06 御用学者といわれるような情けない学者が間違った国策に加担したり、政治家に利用されたりすることがあります。その結果取り返しのつかない環境汚染や環境破壊につながることもあります。福島原発事故は最悪の事例ですが、原発を推進してきた政治家と電力会社そして無責任な見解で政策に加担してきた学者たちの誰もが責任を取っていないという異常な事態が続いています。重大な結果に対して誰も責任を負わない、問われないという無責任体質そのものがそのような人間を生む要因でもあります。そのような世相の中で今回の憲法学者が示した結論は当然と言えば当然ですが権力の乱用に歯止めをかけ、国民を守るためという立憲主義の基盤である憲法の存在意義を改めて想起させると言う意味に置いてほっとする回答でした。
4日の衆院憲法審査会で、憲法学の専門家3人が安全保障関連法案について、そろって「憲法違反」と明言した事実。最高法規である憲法を軽んじる安倍政権の姿勢は民主主義を軽んじ、かけがえの無い多大な命の犠牲のもとに築き上げてきた戦後日本の秩序と平和を軽んじることでもあります。様々な問題が地球規模に拡大した現代において日本の平和憲法に根ざした国際貢献と外交を堅持する事が最大の国防であり、真の意味での平和主義だろうと思うのです。安倍政権の目指すものは明らかに間違っています。
戦争という恥ずべき行為をいかにして回避するかが、政治であり人間の英知です。
2015/06/14 NHKスペシャルの沖縄戦全記録「70年経った今も続々と見つかる物言わぬ遺骨。太平洋戦争中、地上戦としては最大の民間人犠牲者を数えた「沖縄戦」。なぜ、9万人超もの住民の命が奪われるに至ったのかー。」・・・見終わって何とも言えない気持ちになりました。いかなる戦争もおぞましく人間が人間でなくなると言う事が痛感させられます。無差別殺人に近い状況を生み出す戦場。殺す側のアメリカ兵も殺される側に立たされ生き残った人も70年間経った今も悪夢にうなされるという真実。戦争が絶対悪であることを全ての人間が認識しなくてはいけません。いざ始まってしまえばどうしようも出来ない戦争の悲惨さ不条理は歴史がいやと言うほど証明しています。
戦争へ向かう可能性があるどんな些細な徴候も見逃さず、絶対悪の芽は摘まなければなりません。それにしても安倍政権は狂っています。過去の戦争の悲惨な記録を直視すれば政権がやることの第1は戦争だけは2度と起こさないという不退転の決意だろうと思います。それが民意を代表する者たちの使命であるはずです。戦争や争いの源になるあらゆる要素を調和し是正することだけが政治に関わるものの責務です。アメリカの強大な権力の言いなりになる安倍政権。でも、戦争に関する問題だけは日本の立場、日本の哲学を持って対峙して欲しいものです。経済、科学技術、歴史的背景、哲学、芸術、スポーツ。日本は戦後70年培った平和精神を遵守し、あらゆる要素を使って外交努力をするべきです。それが戦争と言う悲しい歴史を経てたどりついた今とこれからの政治と言うものです。
放漫で無粋で下品で偏狭な人間
2015/06/03 世の中には何でそんなになったのだろうと考えさせられる人間がいます。身の回りでも絶句するような人間に遭遇する事がありますが、それが一国の首相なら事は重大です。国会での下品なヤジとその表情を見て、恥ずかしくなりました。これが一国の首相、日本の政治的な代表者ですから事は重大です。この映像が海外に流れなければいいなと思った人は多いのではないでしょうか。口先で何を言ってもその内面が醸し出す人間性の下劣は隠しようもありません。
先進国、発展途上国を含め世界の指導者の中でもインテリジェンスのなさとやさしさのなさはかなりのものではないかと思います。安倍首相がことあるごとに私は国民の信を得ていると豪語しますが、多くの国民はあなたを選んではいません。勘違いです。こんな暴言を吐かさないためにも国民は政治家と政党選びにはもっと真剣にならなくてはいけないと思います。平和や人権がないがしろにされかねない昨今の動きを見ていると猶予はないだろうと思うのです。
自己への関心を広げるということ
2015/05/18 朝日新聞の折々のことばの欄に鷲田清一さんの言葉がありました。「自分というものを、その意識からではなく、さまざまの歴史的な関係の交差点としてとらえること。インタレスト(関心)という語はラテン語のインテル・エッセに由来する。つまり何かの「あいだにある」ということ。私の存在そのものが一つの社会問題なのだというふうに、ひとは自己への関心を広げてゆく必要がある。(フォイエルバッハに関する十一のテーゼ)から。」・・・
自己への関心を広げる・・・それはまさに社会への関心を広げることだろうと思います。無限と言ってもいいほどの要素が重なり織り合わさった社会。一個の人間としての自分が一体何物だろうと時に問う事も必要なんだろうと思います。自己への関心、他者への関心それは相対するものなんだろうと思います。エゴイズムや無関心な人間は自分そのものを見ていない、そして自分そのものに無関心なのだと考えればなるほどと思ったりします。
辺野古への移設問題。民意無視の度が過ぎる
2015/04/06 集団的自衛権の行使容認、原発再稼働の動き、米軍基地の辺野古沖への移設問題。どれも国の未来を左右する大問題です。民主国家である以上とことん議論し尽くされなければ前に踏み出せないはずの問題であるにも関わらず、国民の意思、意識など存在しないかのごとくの政府の姿勢。翁長知事への一連の対応、菅義偉官房長官の会見談話を聞いているとその傲慢さに胸の悪くなる思いがあります。安倍政権がここまで傍若無人に振る舞える理由は国民1人1人の無関心と消極性にあるとは思いますが、民主国家の代表者であるという自覚のなさには呆れるばかりです。安倍政権は何を目指しているのか、それより本当に未来へのビジョンがあるのだろうか、とても不安になります。
毎日新聞に普天間基地移設問題に関する的を得た意見が掲載されていたので、抜粋引用して置こうと思います。
特集ワイド:国VS沖縄県、普天間移設問題で緊迫 これでも民主国家?(毎日新聞 2015年04月06日 東京夕刊)
米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古沖への移設問題をめぐり、国と県が互いに「法廷闘争」をも辞さない異常事態になっている。翁長(おなが)雄志(たけし)知事が移設作業中止を沖縄防衛局に指示したのに、農水省が「指示の執行停止」を決定し、作業を強行しているためだ。5日には菅義偉官房長官と翁長知事の会談が行われたものの、事態は変わらず、作業現場周辺では移設反対の住民にけが人まで出る緊迫した状況が続く。これが、先進国、民主主義の日本の姿なのか。おかしくないか。【構成・吉井理記】
◇県民分断、まるで植民地支配 鎌田慧さん(ルポライター)
昨年の名護市長選、同市議選、知事選、衆院選で、民意はいずれも「辺野古移設反対」を示しました。これほど強い「ノー」を無視して強行するのは、沖縄への蔑視、軽視からでしょう。沖縄侵略。僕は今の安倍政権の沖縄に対する攻撃をそう表現します。反対派は、名護市辺野古の「キャンプ・シュワブ」前のゲートで座り込みを続けています。そのゲートを固めるガードマン、移設工事の関係者、防衛省関係の国の出先機関……地元の人たちがたくさんいます。安倍政権は工事を強行することで、県民の分断を図ろうとしているのでしょう。かつての植民地支配の手口と同じではないですか。・・・ 戦争中は本土決戦の捨て石にされ、戦後は日本から切り離され、やっと復帰すれば今度は基地の押し付けです。県民が長年の差別構造に「ノー」を突きつけ、誇りを守ろうとしているのが今の状況。ことここに至った以上、政府がまず引く、作業を中断するしかありません。
居場所がない若者が増えている
2015/04/02 家庭に居場所がない、学校に居場所がない、社会に居場所がない。そんな若者が増えているそうです。繁華街で何かを求め歩き座り込む若者。深夜のコンビニの店先でたむろする若者。4人家族が4畳半一間で暮らさなければならないような状態が珍しくなかった時代ならば物理的に居場所がないというのは分かるけど、今の状況は違うようです。自分の居場所がない。若者の立場から見れば親の無理解、大人のエゴ、社会の不公平感など精神的に孤立する要因は幾つかあるだろうと思います。
客観的に見れば、親の子に対する無関心、あるいは過度の干渉、そして愛情の欠けた甘やかし、あるいは放任。どちらにせよ先ず親や大人に責任があるのは当然のことです。個という生き方を失った親や大人が子供たち1人1人個性や能力の違いを認識できないがゆえに精神的な交流を持てない、人間の生き方にはいろいろ選択肢があって、それぞれの個性にあった生き方も可能なんだという懐の深さが親や大人の方に欠落しているのを子供たちの方が認識してしまって、その結果甘えたり、自分を分かってもらおうという努力を諦めているのではないかと思うのです。
個としての価値観や生きる指針を持たない大人たち。それは精神において子供と同等です。精神的に子供である大人が子供を導けないのは当然のことで、そんな大人が子供に何かを無理強いすれば子供は混乱か反発するしかありません。それは親のみならず子供たちを直接指導する立場の学校の教師にも見られる現実です。親が無理解でも人間的奥行きを持った教師に当たれば子供は救われるでしょうが、そのような教師はごく少数で期待できない時代です。経済以外に関心や価値観を見いだせないような国づくりをして来た政府の方針に多くの国民が陥ってしまった結果です。居場所がないのは大人も同じではないかと思うときがあります。
家庭に居場所がない、会社に居場所がない、社会に居場所がない。大人は現実を誤魔化したりすり替えたりして真実から目をそらすことも出来ますが、若者は悶々としたあげく、絶望から捨て身になって不本意な行動に走ることもあります。萎縮して引きこもりになったりもするでしょう。動物の殺処分の多さ、食品の過剰廃棄、自殺者の多さ、精神的な疾患を抱える人も相当数に上ると言われています。一見関連性のない問題に見えてもその根っこは1つです。それは経済(物質的欲求)と精神的欲求のアンバランスです。自己防御本能(自己充足)と他者への愛情(関心)のアンバランスとも言えます。
中東の紛争地で命からがら難民を強いられてる人々、原発事故の放射能によって故郷を捨てざる得なかった人々とは比較できませんが、ある種の豊かさの中で居場所がない人々は、精神的難民と言ってもいいかと思います。表面上平和で豊かさを装うこの日本の水面下で起りつつある様々な歪み。それを施政者が意図して行っている政策の結果だとしたら、許しがたいことだと思います。なぜなら現状の日本は経済力も科学力も十分にあって、いかようにも国のあり方、国民のあり方を変えられるからです。もちろん政治家を選ぶのは国民ですから、やっぱり1人1人の意識の持ち方、1人1人の人生観の再考が先決だろうとは思いますが・・・
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エゴイズムの集団化
2015/03/22 すべての生命体には自己防御本能があってそれは人類も一緒ですが、人間らしさとはその本能を自意識で制御できることだろうと思います。自分を守りたい、自分の欲求を達成したいとの本能的な行為に対して自己抑制が働きます。それが他者に対する意識へとつながり献身的な行為も生まれます。それが人間たるあり方だろうと思います。そうでなければエゴイズムの強弱が支配する世界となって調和のない殺伐とした世界になるのは当然です。集団化したエゴイズムほど非人間的なものはありません。人種のエゴ、民族のエゴ、宗教のエゴ、国家のエゴ、組織のエゴ、地域のエゴ、家庭のエゴ・・・その構成要素は1人1人のエゴイズムです。
この世の理不尽なことのほとんどはそこに根ざします。自分の小世界以外に関心を持たない姿勢の積み重ねが関心を持てない人間を形成します。そうなれば持たないのではなくその回路が断たれるのです。個人の小さなエゴイズムが会社で集結し、家庭でも不協和音の中でエゴイズムならではの結束を生みます。打算とか利用とかめんどうくさいとかいろいろ理由はあるでしょうが、愛とか調和とはほど遠い世界です。そしてそれが多数であるような国家ならば世界の中で個人と同じような振る舞いをしてしまいます。恐ろしいのは集団化したエゴイズムは戦争というもっともおぞましい行為につながる可能性があることです。逆に考えれば1人1人がエゴイズムを制御し他者との調和を意識すれば国家の暴走は起らないということです。「部分は全体であり、全体は部分である」幾何学の世界の言葉ですが、人間世界においてまさにその通りだと思います。
死者2万5000人と聞けば
2015/03/17 ぎょっとする数字です。昨年の自殺者数は交通事故死者数の約6倍といいます。自らの命を絶つという深刻な問題の背景には複雑で奥深い原因があると思います。でも労働環境の悪化や人間関係の希薄など積年の経済至上主義に染まった社会が個人を追いつめている側面は否めないと思います。個人的な生き方に関してはそれぞれ自身の責任もあるでしょうが国の指針による社会の見えない圧力が多様な価値観、人生観を排除するような部分があるのだと思います。自殺者数は把握できますが、潜在的な悩める人、病んでいる人がどれだけいるか計り知れません。国民1人1人が人生の価値観をもう一度考え直し、モノやお金に埋没しがちな風潮を変えていかなければ豊かさとはなんだ?というところまで社会の歪みは大きくなるだろうと思います。
経済政策だけに目を向けて戦争や原発などの平和や命の尊厳という最重要の問題に対して無関心になるのは恐ろしい事です。ひとたび戦争が起れば、原発の過酷事故を繰り返すような事があれば、人が生きるための根幹が吹っ飛んでしまうのですから。国民に事故は絶対に起らない、安全でクリーンなエネルギーだと盲信させ増設されて来た原発。そして起ってしまった過酷事故。政府は陳謝することも反省することもなく、再稼働を画策しています。まず事故の検証と責任を取る事が先決だろうと誰でもが思うはずです。自殺者の数の多さと直接の関係はないけれど、政府の弱者に対する非情さにおいてどこかつながっている気がします。
なぜドイツのいいところを見習わないのでしょうか。
2015/03/13 福島の原発事故によって原発の危険性と様々な不合理性が明らかになったというのに政府は何事もなかったかのように原発の再稼働を進めています。事故の収束も検証も未だなされず、放射能汚染で土地を奪われ、今なお多くの人が避難生活をしいられていると言うのにです。ドイツのメルケル首相が福島の原発事故を受けて早期に考えを変え原発の廃止と再生可能エネルギーへの転換を表明し、再生可能エネルギーの普及を着々と進めているのを見ると、安倍政権のあまりの思慮のなさ、想像力のなさに絶句します。地震国日本でしかもエネルギーは足りていて、地熱、風力、太陽光など自然条件に恵まれたこの国で何を考えているのかとその神経を疑います。多くの人を苦しめ続けているあれだけ重大な事故を起こした責任の所在すら明らかにしない姿勢そのものが無責任で思慮のない政策を続けさせているのだろうと思います。広島、長崎への原爆投下と原発事故という恐ろしい体験をした日本が核や戦争に対して世界中のどの国よりも神経質で慎重にならなければならないのは義務であり使命だと思うのです。
繰り返してはいけない過ち
2015/03/10 人間はもともと不完全な生き物ですからもう2度と繰り返すまいと決めたことをまたやってしまったり、これからは実行しようと思ったことが3日坊主に終わって自らの薄志弱行にため息が出たりもします。それでも一進一退、繰り返す反省と希望の中で少しずつ成長する、それが人間だろうと思います。でもこれは個人の問題においてです。政治や公的な世界において同じような事が許されるなら国は衰退し滅びてしまうでしょう。国民全体に関わることで間違った判断や選択、例えば戦争への道とか、原発の再稼働とかをしてしまえば、後々の重大な結果に対して個人が反省とか責任を取るとかの問題では無くなります。正誤が明らかな問題に対して正しい道を選択しないのはどう考えても邪道ですし、あまりにも無責任です。過去の戦争の実態を知ればその悲惨さと残酷さは誰にでも分かります。絶対に繰り返してはいけない事が誰にでも分かるはずです。
そして戦争への道が短絡的な施政者の浅慮によって起ることも分かっています。いかにして平和を維持するか、日本の場合は戦後70年を支えた平和憲法の精神をこれからも遵守することがいちばんの積極的姿勢です。戦争協力と平和協力とは実行要素に共通項はあっても、その意味と精神においては真逆の行為です。世界各国の人々が賞賛して来た日本独自の平和主義を首相をはじめとする一部の人間の思惑で変更するなどあり得ない暴挙だと思います。取り返しのつかない重大問題をなぜこうも安易に進めるのか。答えは未来への想像力のなさ、他者への愛のなさ、そして命の尊厳に対する不遜だろうと思います。戦争になっても自分は前線へは行かないから安全、原発事故が起っても自分は危険地域には行かないから大丈夫。などと思っているのではないかと思うぐらい気味の悪い人たちであること、要注意です。いつの世も権力やお金のために他者の命をも顧みない人がいましたが、科学が発達し、一つ間違えばその力が人類の存続をも脅かす時代においてそのような人たちの存在はあまりにも危険です。
メルケル首相に見る日本とドイツの差
2015/03/08 メルケル氏が学んだライプチヒ大学には「在籍した偉人」としてゲーテやニーチェ、ワーグナーとともにアンゲラ・メルケルの名があると言います。物理研究者から政治家となりドイツのみならずEUを牽引する精神力と決断力を見ていると、安倍首相をはじめとする現政権の要人たちの偏狭と怠惰から来る想像力のなさに情けなくなります。言動を見ても、表情を見てもこれが国を代表する人々だろうかと思うときがあります。世界に遅れを取る男尊女卑の体質がいちばん露骨に見えるのも政治の世界です。2007年のフランスの大統領選で左派の女性候補が後一歩と言うところまで迫ったことがありましたが、同じ先進国としての日本の現状はどうでしょうか。国会議員の女性比率を見れば明らかですが、衆院で9%、参院で16%と言う数字は民主国家としては恥ずべき低さです。
安倍政権が盲滅法に進める、原発再稼働や集団的自衛権などの政策に対してなぜ国民が怒らないのだろうと思いますが、社会全体の中での女性の立場の弱さ、そして政治への関心の薄さも大いに県警があるだろうと思われます。なぜなら命の問題に関しては女性の方が感受性が強いはずだからです。家庭の中で、仕事場の中で、そして社会の中で、女性が対等にものを言うことが出来、待遇などが公平になれば自ずから社会は変わるでしょうし、政治も変わるでしょう。女性が輝く社会になれば安倍政権は自動的に消滅するだろうと思うぐらい、権力志向、男尊女卑感が強い安倍政権です。
ドイツが福島第1原発の過酷事故の後、原発の廃止を即断しましたが、事故の当事国である日本が反省も検証もなしに、まだ原発を動かそうとする現状はどう考えても異常すぎます。福島原発の事故処理は数十年もかかるでしょうし、被害に遭った人々の救済も4年の間何をしていたのかと思うほど歯がゆいものです。時間が経てば何事でも風化して誤魔化せるだとうと言う政府の姿勢は今に始まったことではありませんが、ドイツのように戦争の反省と責任を明確にしない、そしてあれだけの人災を起こした原発事故の責任を未だ誰も取らないという無責任の連鎖が同じ過ちを繰り返さすのだと思います。
美しい日本を守るために安倍政権にノーを
2015/03/06 原発事故から4年。未だ12万人が避難を強いられている現実があります。事故の処理もままならず汚染水は海へと流れ続けています。事故後、原発の真実が次々と明るみに出ました。電力不足の嘘、低コストの嘘、安全の嘘。原発がいかに危険で不必要なものであるかを多くの国民は知ったはずです。それでも政府は国民の声を無視して再稼働を企てています。自然エネルギーの普及と可能性を摘むような動きもあります。この地震国日本に多数の原発を造って来たこと事態が異常ですが、事故の反省も教訓も活かさず、再稼働へと走る安倍政権は異常としか言いようがありません。
そして戦争が出来る国への執着。70年間の平和への蓄積を台無しにする浅慮、暴挙です。日本が世界に対して影響を与え、貢献できるいちばんのものが、非戦、非暴力の国である姿勢、精神だと言うのに。辺野古の問題もあります。美しい珊瑚礁とジュゴンが生息するかけがえのない海。自然環境からの反対も当然ですが、長きにわたって基地問題に翻弄され苦しんで来た沖縄の人々の心を思うなら、軽はずみな施策は取れないはずです。格差の問題もあります。欧米のように人種や民族や宗教などの根深い問題が少ないこの日本で格差問題を是正するのは難しくないはずです。しかし是正するどころか格差は一段と大きくなりつつあります。行き過ぎた格差による社会的歪みは社会不安そのものになるでしょう。権力者側からの視点しか持たない安倍政権。
主権在民と言う民主主義の基本を忘れたかのような振る舞いは何故なんだろうと不思議になります。アンデルセンの童話に出て来る裸の王様よろしく、誰かにそそのかされているのでしょうか。童話のように最後子供が「王様は裸だよ」との叫びで物語が終わればいいのですが、日本の裸の王様は自ら風邪を引いて高熱で寝込むまで暴挙を続けるかも知れません。戦後70年、美しい国土と平和の中で培って来た日本の有り様は欠点もあるでしょうが、世界の多くの国に好感を持たれて来ました。平和と非暴力を主軸にした政策こそこ日本が世界に発信する姿勢であり、美しい日本の姿だと思うのです。反ヒューマニズムとも言える安倍政権にノーと多くの人が言わなければならない時が来ていると思います。
格差世界の罪深さ
2015/03/04 世界中で非人間的な事件が頻発してやりきれない思いと未来への不安が募ります。科学が進んで物質的なゆたかさが世界の貧困と不公平を是正するのではないかと多くの人が思い、夢見てきたけれど現実は混沌として紛争は止むことがありません。罪もない普通に暮らす人々が戦火の巻き添えで命を奪われています。報復の連鎖、非道なテロリズムとそれに対抗する空爆。幼い子供たちが巻き添えになる何とも理不尽な戦闘が続いています。
どうにも止まらない暴力による悲劇。平和を維持する日本においても考えられない殺人が起こり、自殺者も後を絶ちません。それでも日本はかけがえのない平和憲法の下で戦争やテロの脅威から守られ、国際的にも平和的貢献を続けて来ました。今までもこれからもそれは正しい選択だろうと思います。その憲法そのものを軽んじる傾向が現政府にはありますが、とんでもないことだと思います。先の戦争で犠牲になった多くの人の命と無念を踏みにじることです。日本が国際社会に対してしなければならないのは非戦と非暴力の実践を維持し続けること、その一点だけだと思います。それにしても世界の底知れぬ不安定は何に起因するのだろうと考えます。
人種や民族、宗教などの不平等、ある種の格差がもたらした結果なのだろうと思います。今までは様々な差別や不公平に対する不満は国家というくくりの中で抑圧されたり封殺されてきましたが、ネットと言う国境を持たない情報網の中で国を超えた連携、共同が可能になって一国の思惑、方策ではもう不満や怒りを封じ込めれないところに来ているのだと思います。テロや様々な紛争問題を武力によって解決できないのは分かっているけれど、暴力の連鎖は続きます。すべての問題の根っこは格差にあるのですから、大国や先進国が国内外の様々な格差問題を少しずつでも是正していくことが唯一の方法です。長い時間がかかり、今は非現実的に思えるかも知れないけれど、不可能ではないはずです。国家レベルの意識改革に世界中の自由と平和を愛する1人1人の思いがつながる時に。
悲しすぎる後藤健二さんの死
2015/02/06 1月20日に衝撃的な動画が報道されてから、恐怖と悲しい思いを共有されている人は多いと思います。人命を最優先するとの日本政府の言葉に期待を持ちましたが、後藤さんが殺害され最悪の結果に終わりました。人質救出のために全力を尽くすという言葉通りに政府は努力したのだろうか。一連の報道を固唾をのんで見ていましたが、とてもそのようには思えませんでした。狂気としかいいようのないイスラム国のやり方ではありますが、民主国家である日本としては国民の命を救うために、たとえ水面下の取引を使ってでも後藤さんの命を守るのが筋ではなかったでしょうか。戦乱に翻弄され苦境に生きる子供たちを救うために命を賭してその実態を伝えて来た後藤健二さん。1人のヒューマニストの死はとてつもなく大きく深い悲しみです。武力でテロリズムを無くすことができないのは過去を見れば明らかです。憎悪と殺戮の連鎖を止めるために、日本国そのものが後藤さんのような心と観点を持って中東の混乱に関わるべきで、何があっても武力行使のグループに組しては行けないと思います。日本ができること、日本だけにしかできないこと、平和憲法を盾に守り通して来た平和こそが積極的平和主義です。不戦の誓い、不戦の尊さを世界に伝播することが日本の絶対的な使命ですし、それが後藤健二さんの永遠の意思だろうと思うのです。
トマ・ピケティ氏の危惧と提案
2015/01/03 経済的不平等の専門家、フランスの経済学者トマ・ピケティ氏の本「21世紀の資本」が引っ張りだこだと新聞にありました。経済格差の広がりから生まれる社会的不安定に対する危惧が多くの人にあるからだと思います。格差解消のためにピケティ氏が提唱する「富裕税」の概念は経済が至上となってしまったアメリカ型資本主義に対する外科的対応として、考えさせられます。
アメリカや日本が民主主義や自由主義を唱えながら格差社会を深刻化させているのは、政治が巨大化してしまった企業の下に入ってしまったからで、弱肉強食の非人間的循環をコントロールするどころか助長する状態になってしまったからです。いくら資本主義といえども善悪はあるはずです。自由競争というのはルールに基づいてのことでなければ、反則であり卑怯と言うものです。
お金儲けを人生の目的とする人がいてもそれこそ自由社会ですから勝手ですが、人生の価値や目的をそんなことに置いていない人も少なからずいるのが実際で、むしろ少数である経済至上主義型人間の暴走を止めるのが政府の役割のはずです。ブラック企業がはびこりオレオレ詐欺が後を断たない現状は決して資本主義社会のなりゆきではなくて、政府の無能であるか、もしくは悪意ゆえだろうと思います。ピケティ氏の言う「疲労した資本主義」は「良心を失った資本主義」あるいは「ルール無き資本主義」とも言えます。
民主主義のもっとも大切な1人1人の「夢」と「自由」は弱肉強食の社会とはまさに相反するものです。民主主義とは資本主義をいかにして調整するか、格差を縮めて出来る限りの公平さを維持していくかであって、そのための政治、政府、政策であるはずです。そしてそれが出来る政治家を選ぶのが民主国家に暮らす1人1人の責務でもあるはずなのですが・・・トマ・ピケティ氏の「富裕税」は権力者や富裕層にとっては実現性は薄いけれど気持ちの悪い言葉かも知れません。この機会に資本主義とは何か、富裕層とは何かが国民的議論になればいいなと思います。