原発事故に対する避難訓練の愚かさ
2013/10/07 原発周辺の住民の避難訓練が各地で行われています。どう考えてもおかしい話です。原発事故が起こればどれだけ深刻で悲惨な状況になるかは、2年半経った今も収束どころか深刻度を増す福島原発の現状を見れば明らかです。そんな危険な原発に対して事故を想定した避難訓練など頭が狂っているとしか思えません。事故が起こればそれこそコントロールできない放射能汚染の問題があります。再び事故が起これば避難訓練などの次元の問題ではないことは誰にでも分かります。
地震や津波などの自然災害に対する予備訓練なら意味はありますし、自然災害は人間の力では防げないものですから当然のことです。でも原発はこの先動かさなければいいだけです。取り返しのつかない人災である原発事故を想定した防災訓練とは一体どのような発想、神経で行われるのか。原発再稼働が既成事実のごとく扱うための演出以外の動機は見当たりません。何故にこれほどまでに危険で非人間的な原発に固執するのだろう。多くの国民の意想を無視した原発ありきの体質こそ地中深く埋めてしまいたいものです。
風評被害への疑問
2013/10/05 マスコミにしばしば登場する風評被害という表現を聞くたびに思います。風評被害を起こすのは正確な情報を公表しなかったり隠蔽されたりした結果起こるものですから、責任は国や自治体、関連企業やマスコミなど関係組織にあることは明白です。消費者は情報に関して受け身ですから、曖昧な情報しか得る事ができない場合は盲目的になるか、過分に慎重になるかどちらかしかありません。産地や生産国などのおぼろげな印象で買う買わないの判断をしている消費者も多いのではないかと思われます。原発事故の後、食品の放射能汚染に関しては注意せざる得ないのですが、防ぎようがないのが現実です。
食品衛生法で暫定基準キロあたり100ベクレルを決めたのなら可能な限り数値表示するべきだと思います。基準値以下の表示ですませるなら99ベクレルの不安は誰にでも起こります。広範囲の国土が汚染されてしまった以上大人は甘んじて100ベクレル未満の食品を食べるのはしかたないですが、影響が強いと言われる子どもたちには限りなくゼロに近い食品を食べさせたいのは当然の気持ちでもありますし、大人としての責任だと思います。でも実際はその判断すらできない状況で不安はつづきます。風評被害を無くすためにも正確な測定と情報を流すべきだと1人1人が思わなければいけないと思うのです。
海洋汚染を調査した50年以上前の学者たちのヒューマニズムと今の落差
2013/10/03 小さな突破口から真実の奥行きが見えて来ることもあります。大きな大事件から真実の細部が見えてくることもあります。原発事故はまさにそういうものではないかと思います。見えてしまった不正、知ってしまった理不尽を訴求するのは国民としての当然の義務です。これだけ多くの人が犠牲になり今なお救済措置は不十分で、日に3000人と言われる作業員の人たちが被ばく覚悟で働いている現実。海の汚染、食品の汚染、特に子どもたちそして国民の健康。事故の検証もされず進行する汚染水の問題も透明な報告がなされているとは思えません。流通している食品はきちんと検査されているのだろうか?事故当初から起こっていたかも知れないの海への放射能の影響は統計的に調査、記録されているのだろうか?1954年にビキニ環礁で行われた核実験の結果起こった海の汚染。
漁船が持ち帰った大量のマグロが汚染されていて廃棄され大問題となった事件がありました。社会的衝撃の大きさに日本政府は海洋学、気象学、水産学、物理学、医学などの専門家からなる調査団を海域に送り調査しました。科学者達の2ヶ月に渡る命をかけた調査結果は驚くべきもので、海の放射能汚染はそう簡単には薄まらないこと、放射性物質が食物連鎖を通じてマグロの体内に蓄積されることが世界で初めて明らかになりました。*ETV特集(海の放射能に立ち向かった日本人〜ビキニ事件と俊鶻丸(しゅんこつまる)〜)http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2013/0928.html
当時アメリカは「放射性物質は海水で薄まるためすぐに無害になる」と主張したそうです。信じられない無神経で今も御用学者は同じような事を言っています。大量のマグロを廃棄せざる得なかった漁師さんの無念がどれほどのものだったでしょう。それから50年以上経った日本での原発事故。放射能汚染に対する危機管理、姿勢は当時より劣っているのではないかと感じるのは僕だけでしょうか。当時と比べ格段に経済がゆたかになりやろうと思えばできる事がいくらでもあるのに何故でしょう?
自然災害は再生の希望まで奪いはしない、でも原発は・・・
2013/10/02 2011年3月11日に起こった東北大震災。恐ろしい津波に家や車が木の葉のように流され破壊される映像は忘れることができません。あれから2年半が過ぎて思います。自然災害ではなく人災である原発事故がもたらした被害の甚大さ。福島をはじめ日本全土と海を汚染した放射能。しかも過去形で語れないのが放射能被害の実態であって、未来への不安を含めその影響は計り知れません。原発に関する問題は知れば知るほど理不尽な思いが募ります。「こんなことが許されていいのか」と言う疑問が次々と湧いて来ます。
政府、電力会社の圧力による情報操作がなされている中でこれだけの事実が明るみに出ているのですから、マスメディアが報道しない、できない部分を想像すれば背筋が寒くなります。心あるジャーナリストや学者、文化人が粘り強く反対運動をしているのは真実が分かった以上、「人間としてやらざるえない」ただそれだけの気持ちだと思います。あらゆるジャンルの人がそれぞれの方法で真実を伝えて行く。強力な権力基盤の上に出来上がっている原発に対してはそれ以外に対抗手段はありません。
権力の基盤は国民1人1人の集まりなんですから。地震、台風、火災など過去に大きな自然災害が幾度もありました。多くの命が奪われ、長く続く悲しみは残りましたが、それでも努力と時間が心と町や村を再生しました。でも、原発は現実のみならず未来をも奪います。放射能がいつ誰にどのように影響するかも分からないですし、逆に被爆はできる限りしない方がいいことは分かっています。しかも原発に安全などないことも分かるのですから、廃止するしかありません。戦争を肯定する理由がないのと同じで原発もまた選択の余地がない問題の一つです。
1人1人が人間としての意識を持つだけで世界は変わる
2013/09/29 なぜだろうと思うような人間がいます。道ばたにゴミを投げ捨てたり、公園で食べ散らかしたり、せっかくの美しい山や川に空き缶や弁当を置き去りにして帰る人もいます。なぜだろうと思います。暴言で相手を威嚇したり、暴力を振るったり、車の窓から道路に灰皿をぶちまけて走り去る人間もいます。低すぎる人格。無知や無教養だけでそのような人間ができるとは思えません。愛とか感性とか人間としての根源的な要素が一切培われなかったのが原因ではないかと思います。
一つ言えることはそのような人間が反原発を思うことはまずないはずです。当たり前ですが、動物愛護とか環境問題についても同じです。でも、そのような人間は少数です。問題はそのような人間ではない大方にあります。自分が関わる細部の世界には精通しているけどその他の事柄に対しては無関心であったり、無知であったり。日常と経済以外の問題に関して深く考えようとしなかったり。戦争の残酷さや放射能の脅威にたいして想像力が働かない人間。そのほとんどはあえて知ろうとしない「積極的無知」にあります。
戦後長きに渡って真実を知るより目をそむけるほうが楽であるかのような洗脳ともいえるプロパガンダがそれこそ官民一体でなされて来た結果だと思います。煩わしい、難しい、関係ない、興味ない・・・とんでもないことです。重大なことほど実際は誰でも分かる簡単なことですし、しかも誰1人無関係ではすまされない問題ばかりです。しんどければ口に出したり行動に移したりしなくてもいいけれど、せめて1人1人が戦争と原発と環境問題の実態を知り、その真実を意識に入れておくだけでも世界はいい方向へ変わって行くと思うのです。
国家としてのお手本がアメリカでなくフランスやドイツだったら
2013/09/21 もし日本が戦後復興の中でアメリカだけでなくフランスやドイツの文化、経済のあり方を見習っていたら国民の価値観や意識の持ち方は今とはずいぶん変わっていただろうなと思います。日本の風景も心のあり方もあまりにもアメリカ的になってしまって疑問が湧きます。1776年に独立宣言が公布された歴史の浅いアメリカ合衆国と紀元前660年に神武天皇が即位したとされる日本の歴史。歴史や文化に対する価値観が違って当然のはずですが、よく似た国になってしまいました。
フランスやドイツに限らず歴史ある欧州の国々がアメリカの経済一辺倒の政策に一線を画しているのは当然のことで過度な経済志向が文化や歴史のみならず精神をも軽視するに至ることを分かっているからです。見る機会は少ないですが、欧州の映画やアニメーションなどを見るとはっとすることがあります。映像と物語の中に精神性、芸術性がにじみ出ていてこんな映画が生まれる国のあり方を考えてしまいます。こんな映像を見ていれば子供も大人も感性が育つだろうなと思うからです。スポンサーに迎合し、大衆受けを狙うようなものをつくらなければ成り立たないからと言うのでは創造的仕事に従事する意味がありません。
弊害だけです。皮肉なことですが官民一体となって大衆受けを狙う反面、官民どちらも大衆のことなど考えていません。社会の大多数を占める大衆の思考力を弱めればものが売れ、政治がやりやすくなる。煽れば流行り、煽れば売れる。まさに経済絶対主義アメリカの方法そのものです。国民性が対照的とも言えるフランスとドイツ。共通するのは過去の過ちを繰り返さないという信念と1人1人の自由を尊ぶ理念です。そのためには過去の記憶を残すものを大切にし、国民1人1人が自らを啓蒙し続ける努力があるとおもうのです。GDP(国内総生産)がドイツやフランスの倍近くもある日本。でも、あくせく働き、心の余裕をなくし、他者を顧みないような社会がいいとはとても思えません。
自身の心と頭脳ががコントロールできていない安倍首相
2013/09/20 以前何かの記者会見で美しい日本とはどういう国ですか?と言う質問に安倍首相は映画「3丁目の夕日」のような国との答えを聞いた記者が「空いた口が塞がらなかった」と言う記事がありました。汚染水が外洋にまで流れ出していると言うニュースが連日報じられる中での「コントロールできている」発言。そして今度は福島第一原発5号機6号機の廃炉要請。日本の全原発を順次廃炉するとの方針ならいざ知らず、福島原発の廃炉は当たり前のことです。
汚染水の影響が一定範囲内で「完全にブロックされている」など海が区分けされた貯水槽のごとく言っているのを聞くと、思考のコントロールを失っているのではないかと恐ろしくなります。汚染水放出で日々苦悩が増す漁師の方達や放射能に故郷を奪われた人の痛みが分かるどころか無責任な発言は更なる苦しみを与える仕打ちです。沖縄の基地問題、オスプレイの不穏、改憲の不気味、原発再稼働の危険、原発輸出の不道徳、秘密保護法案の真意、ブラック企業の野放し・・・加えて国民生活の様々な部分で歪みの度合いは大きくなるばかりです。
国民1人1人と政治家自身がまずまっとうな心と哲学を持って自身をコントロールできなければこの国は、心温まる「3丁目の夕日」から心情を取り去った「地獄の1丁目」へと盲進してしまうのではないかと思えてなりません。1人1人が物事を決して人ごとだと思わず、正しい認識を持ってそれぞれができる何らかの行為行動を取らなければ、気がついた時には遅いという状況になってしまう気配が色濃くある現状です。弱者の声はなかなか届かないけど、分断、隠蔽された弱者の数は決して少なくないと思うのです。1人1人が高感度のアンテナを持たなければいけない、そして弱者の声を増幅させなければいけないと心から思います。
サマータイムブルース
2013/09/19 久しぶりにRC サクセションの歌を聞きました。「東海地震もそこまで来てる、だけどまだまだ増えていく、原子力発電所が建っていく、さっぱりわかんねえ誰のため?・・・」歌を聴いていると歌詞の中に原子力発電所が37個も建っているとあります。曲の発売予定が原発企業東芝の圧力で中止になった1988年当時は37個だったんだとあらためて認識。37個でも滅茶苦茶な数だけど、それから54個まで増やしたあげくの果ての大事故だからまさに絶句です。推進して来た自民党と原発関連企業、学者はひど過ぎますが、自分も含め強く反対してこなかった国民にも責任があります。
コストが半端じゃないこと、電力が足りているのが分かっていて、しかも危険性を訴える科学者、技術者、ジャーナリストなどの人たちが真剣に警鐘をならし続けていた中でのことですから、異常としか言いようがありません。原発が見える海でなんか泳ぎたくもないけれど、事故が起これば泳ぐどころか土地や家まで捨てて逃げなければならない。2009年、福島原発事故の2年前に亡くなった忌野清志郎が生きていたら絶句のあと絶叫するだろうと思います。「さっぱりわかんねえ誰のため」そして「人間なら考えろ」と。
生命の源、水の大切さ
2013/09/12 ケニア北部で巨大な地下水源が見つかったとユネスコが発表しました。衛星による探査と掘削による調査で確認されたそうです。ケニアは長年の干ばつから水をめぐって死者がでるほど治安が悪化し、人口4100万人のうち1700万人は水を確保できず、2800万人が不衛生な環境に置かれているとのことですから、水源が利用できるようになればまさに夢のような出来事です。科学技術はこのようなことに使われなければならないとつくづく思います。一方、福島原発では毎日のように汚染水漏れのニュース。
今日も観測用井戸で、地下水1リットル当たり6万4千ベクレルのトリチウムが検出されたと東電が発表。連日なので何がなんだかわからなくなります。恐ろしいことだけど命を育む大切な海が汚染され続けていることだけは事実です。生命にとってこの上なく大切な水。水源に恵まれた日本ではありますが、更なる原発事故で地下水脈や琵琶湖などの水源が汚染されることを考えたら再稼働などという方針がどれだけ馬鹿げているかは誰にでも解るはずです。地震多発国という立地、被ばくする作業員がいなければ動かせないという人道的な問題、そして福島原発事故が日々証明しているように底なしのコスト。
しかも経費の調達は税金と電気料金への上乗せと言うのですから空いた口がふさがりません。なおかつ原発がなくとも電力が足りている確証と事実があるのですから、やりきれません。ケニアの現状を見れば水がいかに貴重なものかあらためて実感します。環境に恵まれた日本を自らの手で破壊するような行為には国民1人1人が強い意志で立ち向かわなくてはならないと思います。そして海も大気も境界などないのですから尚更のことだと思うのです。
責任不在という怪奇
2013/09/11 歴代の自民党と電力会社、原発村と言われるグループが科学者などの有識者の警鐘も聞かず推進し続けて来た原発政策。そして今なお多くの人の苦しみが続く悲惨な原発事故を起こした現実。刑事司法の限界だと言うけれど、人災であり、未曾有の被害をもたらした事故に対して責任を取るもの、取らせるものがいないと言うのは法治国家としては怪奇としか言いようがありません。土地を奪われ、家族が離散し、悲痛な自殺者が出て、原発関連死は津波や建物の倒壊などによる直接死1599人に対して1459人にまで増えています。
避難者と避難できない人とのコミュニケーションの破壊、離婚などの深刻な家族崩壊も起こっていると言うのに、誰も責任を取らないなんてどう考えてもおかしいと思います。パン一つ盗んでも罪を問われる法治国家の中でこれだけ深刻な人災事故があって、その責任の所在を明らかにせず、うやむやのまま事態が進行することはどう考えても異常ですし、未来に向けて危険なことです。責任の不在は事故後の政府や東電の無責任な対応の大きな要因で、更なる被害の拡大や再稼働、そして同じ事故を繰り返す原因になるのではないでしょうか。過ちは過ちだと素直に認めて、誠心誠意被災者を助け、放射能の被害をできるかぎり防ぐこと。
そして2度と過ちを繰り返さない誓を立てるという人間として当たり前のことがどうしてできないのか、情けない思いがつのります。もし、自分が避難を強いられ、家や仕事を奪われ、家族が分断する状況に置かれた場合を想像すれば、どれだけの怒りが込み上げるでしょう。理不尽きわまりないではありませんか。原発問題は誰一人無関係な人などいない問題なのですから、難儀の渦中にいる被災者の人より難を逃れた他地域の人たちが声を上げ理不尽を追求しなくてはあまりにも非情だと思うのです。
エコノミック・アニマルの彷彿
2013/09/10 目に余る経済利潤追求の姿勢に対してエコノミック・アニマルと批判された1965年。本家のアメリカには言われたくないけれど世界に対して恥ずかしい思いをした人は多かったのではないでしょうか。動物には全くいわれのない言葉ですが、人間としてあるべき姿からはかけ離れた状態の生き物だと思います。当時、「人間に近づかねば」と自嘲の混じった言葉が飛び交ったのを思い出します。あれからの半世紀、軌道修正できそうな時期もありましたが、現状があります。
原発事故の対応もままならない中でのなりふりかまわない安倍首相の原発セールスにはエコノミック・ビーストなる比喩が使われ、またしても恥ずかしい思いです。生存本能だけで生きる野獣だってこんな馬鹿げた行動はしないでしょう。東京オリンピック決定に湧く経済界。オリンピック開催をアベノミクス第4の矢と呼ぶ政府と金、金で蠢く企業のどこにスポーツマンシップがあるのでしょう。ビーストの次は何が来るのだろうと恐れます。オリンピックの精神を記したオリンピック憲章の中に「オリンピズムの目標は、スポーツを人類の調和のとれた発達に役立てることにあり、その目的は、 人間の尊厳保持に重きを置く、平和な社会を推進することにある。 」とあります。
1964年の東京オリンピックは西洋の先進国の文化を吸収し、アジアの一国としてその資質を世界に世界に知らしめる目的がありました。50年の時を経て経済大国となった日本。これからは西洋や発展途上の国々に対して経済ではなく日本の精神性を発信できる国にならなければいけないと思うのです。オリンピック憲章の中には次のような言葉もあります。「オリンピズムは、肉体と意志と知性の資質を高揚させ、均衡のとれた全人のなかにこれを結合させることを目ざす人生哲学である。」
狂喜乱舞のオリンピック関係者
2013/09/08 スポーツは大好きだけれど今回のオリンピック招致には疑問があります。東京は福島から250km離れているから安全だと言った日本オリンピック委員会会長。不安の中で暮らす福島の人々と故郷を離れざる得なかった避難者の人たちの苦悩を無視する発言です。安倍首相はブエノスアイレスでの最終プレゼンで汚染水漏れ事故に関して「コントロールできており東京には何の影響も与えない。問題ない」と話しましたが、大量の汚染水が海に流れ出ることをコントロールと言うのでしょうか。
そこに現在進行形の危機と多くの人々の苦悩があります。しかも経済目的があからさまでスポーツ精神もオリンピック精神も感じ取れません。経済効果は結果であってその前に世界の文化交流と平和への思いがスポーツの役割でもありオリンピックの精神でもあると思うからです。国策の原子力発電の事故によって多くの人が生活を奪われ苦悩する毎日が続く中、それを無視するかのような発言、行動はまさにスポーツマンシップからはほど遠いと思うのです。開催が決まり、しばらくはマスコミのオリンピック狂想曲がつづくでしょうが、その間も原発事故の物理的、精神的被害はつづいています。
理不尽な国の理不尽な話
2013/09/04 一体どうなっているのだろうと思います。何十年も前から原発は危ないから止めなければと警鐘を鳴らす科学者や技術者がいたのに一切耳を貸さずに続けて来たあげくの福島原発の事故。事故の収束どころか増え続ける汚染水が海に流れ出して日本のみならず世界が危惧しているのが今の現状です。放射能から逃れて各地に避難した人々とのっぴきならない事情で現地に留まる人々。東電や政府の援助、保障は無責任と言ってもいい状態です。それにも増してこれだけの事故を起こした当事者の誰も責任を取っていない事実。
しかも安倍政権は原発の再稼働や輸出にまで動いているその神経が解りません。誰も望まない戦争につながる改憲もそうですが、この国をどうしたいのだろうと考え込んでしまいます。操業を目指して懸命の努力を続けておられる福島の漁業者の方の怒り。「われわれ漁業者は、海で燃油を漏らしただけで罰金を取られる。あれだけの放射能を海に流し、われわれからの海の仕事を奪った東電が罰せられないのは納得できない」との叫びは当然のことだと思います。
巨額の除染費用はゼネコンを潤し、暴力団にまで流れているとの報道もあります。原発にまつわる話はどこをどう取っても理不尽だらけで、国民がもっと怒らないのが本当に不思議です。小出しに発表される汚染水の問題はドイツでは連日トップニュースで報道されているのに当事国の日本では知る人ぞ知るような状態。マスコミにも責任はあると思いますが、政府の無神経さは恥ずかしさと怖さを感じます。この国は一体どうなっているのだろうと思う人が1人でも増えて、社会や政治にきちんと目を向ける風潮が強くならなければ未来はあまりにも暗雲です。
環境の汚染と心の汚染をくい止める人たち
2013/08/26 干潟や川の小動物や微生物が海や川の水質を保っていることはよく知られています。森は生命を維持するために必要な酸素をつくり大気と水源の環境を守っています。そしてそのかけがえのない環境を守る人たちがいます。自分たちが生かされている環境を大切に思うのは人間なら当然のことですが、無関心な人もいます。原発事故で放出されつづけている放射能が一定の地域の問題だなんて考える人はいないでしょう。海も大地も仕切りなどなくつながっているのですから。
この先人体や生態系への影響がどのくらいあるのか計り知れませんが、案じるだけの科学力はすでにあります。放射線による遺伝子の損傷一つを考えても安穏と無関心でいられる問題ではないはずです。起こったことは取り返しがつきませんが、二度と絶対に事故を繰り返さないためには原発を動かしてはいけないことは誰にでもわかります。わからないのはただ事実を知らないか、無責任か無神経かのどちらかです。環境を守ってくれる多様な生命体のように懸命にそしてあきらめずに核や原発に歯止めをかけようとする人たちがいます。全体から見れば少数かも知れませんが、そのような人たちが世界中にいて、頑張り続けて、やっと今の現状があります。
そのような人たちがもしいなくて無知や無関心な人ばかりだったら日本はおろか世界はもうとっくに破滅しているでしょう。海を守る生物、森を守る生物、そして人間が作り出してしまった汚染や不条理をくい止める人たち。彼らが戦っているのは物理的な危険だけではなくエゴイズムや無関心など人間としての心の汚染に対する戦いでもあるのだと思います。1人1人の心が美しくなれば戦争も核も原発も必然的に消滅していくだろうし、自然も社会も日々の暮らしも、もっといきいきとのびやかになるだろうと思うのです。
この状況でにゴルフ三昧はないだろう
2013/08/22 放射能汚染で避難を余儀なくされている人々の救済も滞り、除染は進まず、高濃度の汚染水は海へ流出しつづけ対策はお手上げ状態。沖縄では絶望と怒りに満ちた人々が苦悩しつづけている毎日。こんな状況の中で一国の首相がゴルフをする気になるものだとその神経にあきれます。あくせく働く一般の国民ですら、案ずる事が多過ぎて眠れない夜もあると言うのに、脳天気と言うか無責任と言うか悲しくなります。原発事故の被災者や沖縄県民の心など考えてはいないことだけは解ります。
この状況下で原発の輸出も破廉恥だけどましてや憲法の改変などをもくろむ頭にはいったい何が詰まっているのだろうと不安になります。戦争を経験した方たちの真摯な意見をなぜ聞かないのだろう、多くの人の苦痛に満ちた言葉になぜ心が痛まないのだろうとその貧困な精神に怒りを感じます。二度と戦争を起こすような事態にならないよう戦争の残酷さを語り継ぐ人たちの気持ちがなぜ解らないのだろう、人間であれば誰でもぞっとする真実になぜ向き合わないのか、やりきれない思いでいっぱいになります。福島のこと沖縄のこと日本のこと、すべてはつながっています。
宇宙船地球号を守るために
2013/08/17 ・・・「宇宙船地球号」に積み立てられた化石燃料は、自動車でいえばバッテリーにあたるもので、メイン・エンジンのセルフスターターを始動させるためにエネルギーを貯えておかなければならないものだ。だから私たちのメイン・エンジン、つまり生命の再生プロセスは、風や潮汐や水の力、さらには直接太陽からやってくる放射エネルギーを通して、日々膨大に得られるエネルギー収入でのみ動かなければならない。・・・
日々得られるエネルギー収入は、私たちの工業化されたメイン・エンジンやそれによるオートメーション生産にとっては十分すぎるほどある。・・・私たちが原子炉からのエネルギーにもっぱら頼り、自分たちの宇宙船の本体や装備を燃やしてしまう愚さえ犯さなければ、「宇宙船地球号」に乗った全人間の乗客が、お互いに干渉し合うこともなく、他人を犠牲にして誰かが利益を得たりすることなく、この船全体を満喫することは十分実現可能なことだとわかっている。化石燃料や原子力エネルギーを濫用し開発していくことは、ちょうどセルフ・スターターとバッテリーだけで自動車を走らせるようなもので・・・」
1969年に出版されたバックミンスター・フラーの著書「宇宙船地球号操縦マニュアル」の中の一節です。40年以上前に科学者フラーは自然エネルギー主体で十分に人類のエネルギー調達ができると明言しています。しかも原子力に頼る愚かさにも警鐘を鳴らしています。フラーを始めとする賢明な科学者が異口同音に唱える声を聞かないのは、愚かな利権と核兵器への幻想だけですから、あまりにも馬鹿げていますし、一部の思考停止した人間が国民すべてを巻き込む暴挙だけは1人1人が止めなければなりません。戦争は絶対悪ですが、原発もまた絶対悪です。
終戦記念日に心したいかけがえのない真実の言葉
2013/08/15 こんなことは二度とあってはいけないと、振り絞るように語る戦争体験者の方たちの言葉は今と未来を生きる人たちへの愛そのものです。・・・「体力・気力は消耗し、力尽き倒れる者が続出した。倒れた者はウジがわく死体となり、無間地獄だった」「飢えと疲労、自決者の死体が野ざらしで異臭を放ち、捨て子があふれた。地獄絵図だった。」「防空壕で母たちと一緒になった隣の奥さんたちは、おばあさんを置き去りにした苦渋に、ずっと声を殺して泣き続けていた」「大阪城前から京橋までの道はまだ火の海だった。胴体が引きちぎられた死体や、傷だらけの死体が転がっていた」「みんな怖々やるから、とどめを刺せない。その捕虜を余計に苦しめることになったことを、今でも覚えている……」
「実際に人を殺した体験のある子供がいる。命令を遂行し、自分が生きるために相手を殺す。相手の痛みを想像する思考さえ停止させてしまう戦争の実相を知らせたい」「戦争は戦争の準備から始まると言いますが、準備をしないと戦争はできない。だから、準備はすべきではないんですよ」「帽子を取って「さようなら」と左右に振った戦友たちの多くが死んだ。今も、まぶたの中にアルバムがあるように光景が残り、ただ涙を流す・・・恐怖と後悔と理不尽への恨みに満ちた記憶の断片を自分の子供や若者のために語り継ぐ人々。その思いと痛みを少しでも感じ、受け取り未来へと語り継ぐことが平和を願う人間ならば当たり前のことだと思います。そして「二度とこのような悲しい思い出を子孫に残さないように、と願わずにはいられない。」この言葉が異口同音に語られる悲しすぎる体験からの重い結論だと思います。
不安なこと悲しいことがあるからこそ
2013/08/11 年齢がいくつであれ、悩みはあります。不安なことがあったり、悲しいことが起こったりします。年老いた親を抱えてよぎる介護への不安。子供をちゃんとした人間に導けるのだろうかという親としての不安。この先もなんとか食べて行けるんだろうかという自身の不安。大なり小なり家族、学校、職場の人間関係に悩む人はいっぱいいるだろうと思います。病気もあります。事故による怪我、思わぬ事件に巻き込まれることだってあります。個人差は大きいでしょうが、生きている限り悩みがつきないのが人間だと思います。取り戻せない過去を後悔して気力が失せる時もあるでしょうし、未来を描けなくて自虐的になったりもします。人に当たったり社会を恨んだり、意固地になったり、なんでもありです。それでも反省したり、考え方をあらためて新しい一歩を踏み出せる可能性はあります。
自由があり明日がある限りいかなる可能性もあります。国が平和であり、自分の意志を試すことが出来る環境がある限り可能性はあります。でももし戦争になればすべての可能性は失われます。殺したり殺されたり、人間にとって最悪の不幸の中にすべての人が叩き込まれるからです。ほんとうに恐ろしいことです。日常を根こそぎ奪うという意味では原発事故も同じです。住み慣れた家も土地も放射能によって否応なく奪われた福島の現実を見れば痛いほど分かります。戦争や原発事故がもたらす不可抗力の不幸だけは自分がどれだけ悩みを抱えていても、あるいは悩みがなくとも容赦なくその上に覆いかぶさってきます。それは個人が抗いようもない絶対的な不幸です。自身が大きな悩みを抱え、苦しんでいる時には戦争も原発事故も関係ないと思ってしまう心は分かります。それでも戦争や原発事故が引き起こす不幸より苦しいことはそうないのではないかと思うのです。不安なこと悲しいことがあるからこそもっと悲しいこと恐ろしいことには敏感にならなくてはいけないと思うのです。
楽しいことがいっぱいあるからこそ
2013/08/10 旅行はほんとうに楽しいものです。知らなかったものを見たり、食べたり、体感したり面白さが尽きることはありません。人それぞれですが楽しいことはいっぱいあります。野球も面白いし、陸上でもサッカーでもボクシングでもテニスでも観戦するのは楽しいことです。漫画も面白いし文学も面白い。映画もそうですが涙あり笑いあり、考えさせられることもいっぱいあります。ジャズも素敵だし、ビートルズやイーグルスも心に響くし、ベートーヴェン、シューベルトは人間がいかなるものかを感じさせてくれます。レンブラントの驚異的な写実、ゴッホの苦悩、ロートレックの人間愛など絵画も無限の奥行きがあります。自分で何かを作ること、考えることも楽しいですし、仲間とわいわい騒ぐことも、しんみりと語らうこともやはり楽しいことには違いありません。人それぞれ楽しいことはいっぱいあるはずです。でも考えてみれば、楽しみには絶対的な条件が必要です。
時間的な余裕とか経済的な余裕は絶対ではないけれど、平和という条件に関しては絶対です。考えを自由に発するどころか好きな歌を口ずさむことさえ抑圧されるのが戦争です。その恐怖と非人間性は戦争体験者の苦痛に満ちた言葉を読めば誰の心にも突き刺さります。権力と暴力が絶対となり、恐怖の中に精神が硬直してしまうのが戦争です。「楽しいことがいっぱい」それは国是に平和を守る精神が掲げられているからです。社会的不安定、不条理なことはあるけれど、戦争は拒否するという根源的な保障が憲法に明記されているからです。そんな憲法を変える動きには「楽しいこと」が好きなすべての人が反対するのが当然であるべきです。楽しいこと好きなことをするためにも平和憲法は守らなければなりません。戦争、そして原発も楽しみの絶対的条件である平和を破壊します。ですからこの2つの問題には誰であっても無関心などということはあり得ないはずなのです。否応なく自由が奪われ命が脅かされるのは同じなのですから。