呆れ返ることばかり
2012/12/28 原発に関しては次から次へと呆れ返ることばかりで絶句します。多くの有識者が原発の危険を訴えて来たのにもかかわらず、耳を貸さず福島の大事故。途方も無い被害を出して、原発村を始めさまざまな悪事が露出して、推進して来た自民党や電力会社が謝罪し責任を取るかと思えば、何食わぬ顔で責任どころかまだ原発を動かそうとするのですから、人間かどうかさえ疑わしい存在です。罪も無い農家の人が絶望から自殺し、数十万人の人が生活を奪われ、混乱し、海も山も取り返しのつかないほど汚染され、食の安全や子供の未来に大きな不安を残すような事態を起こしたのだから推進して来た人たちは刑事責任を問われるのは当然です。
今日もまた呆れる事実が新聞に載っていました。電力会社の広告宣伝費が1970年度から計2兆4千億を超えているとのこと。家電メーカーや自動車メーカーのように企業競争があるわけでも無い地域独占企業が一体何のためにこんな巨額の広告宣伝費がいるのでしょう。スリーマイル島事故やチェルノブイリ事故の後、広告費が倍増しているのを見れば原発反対を恐れたプロパガンダのためだと言うのは明らかです。福島原発事故の後東電はテレビ、ラジオ放送費に70億円、広告広報に46億円、PR施設運営費に43億円を使ったと明らかにしましたが、それで電気料金値上げはむちゃくちゃです。なぜこんな理不尽が次から次へと見逃されるのか。
国民ももう目を覚まさないと悪の巣窟を温存するだけでなく、更なる過酷事故が起こってしまいます。他の事故と違って「絶対に起こってはならない事故」それが原発事故です。今の日本、大小の理不尽や矛盾は幾つもありますが、まず原発だけは廃止しなくてはその次がありません。寒空の下、大切な時間を割いて原発デモに参加している人も全国各地にいらっしゃいます。全ての人の未来がかかっている問題に関して、関係ない人は1人もいないはずです。
国のあり方、どの国を参考にすればいいのか
2012/12/27 213万人を上回る日本の生活保護受給者。多いのか少ないのか、社会的背景や実態は複雑で簡単には判断できないものです。しかし貧困と格差が広がる条件下で「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が憲法によって保障されている以上、セーフティーネットをもっと充実させる必要こそあれ、給付水準の引き下げなどあってはならないことです。もとはと言えば配慮の無い国策に因することで、社会的弱者に責任転嫁するのは筋違いです。果たして日本が先進国なのかどうかは判じかねますが、例えば先進国であるドイツの生活保護利用者は793万人(2009年)、フランスは372万人(2010年)、イギリスは574万人(2010年)だといいます。ドイツの人口は8177万人、フランスは6503万人、イギリスは6200万人で、日本の人口は1億2806万人(2010年)もあるのですから各国条件が違うとしても考えさせられます。しかもドイツでは生活保護の基準が引き上げられたというのですから尚更です。
何度も書いている動物の殺処分数が日本では31万匹以上、約100秒に1匹の猫や犬が殺されている現実があります。そしてドイツでは「ゼロ!」あまりの較差に訳が分からなくなりますがほんとうの事です。国のあり方のいろいろな問題、環境、社会、教育、福祉、医療・・・一度ヨーロッパの先進国と比較検討する事が必要ではないかとつくづく思います。経済大国、技術大国である日本がその内面においてどこかおかしい。一体何を目標にして、何を基準に国を組み立てているのかよく分からない点が多々あります。個人としての人間の場合も、会社や学校にしても、目標とする、あるいは参考とする対象がなければ考えようがないではありませんか。ヨーロッパの街並、映画、音楽を目にし、耳にし感じる事は人も、街も、芸術もお金に優先して存在していることです。生活保護の問題も、原発廃止の問題も、何が本当なのか?とことん突き詰める必要があります。
「知る」権利、「知らせる」義務。無関心と無意識が育ててしまう悪しき権力
2012/12/25 マスメディアが報じず、知らなかったのですが12月9日に阪南大学経済学部の下地真樹准教授が、大阪府警によって逮捕されました。下地准教授ら市民有志は、小さな子どもを持つお母さんたち、とりわけ福島・東北・関東から関西に避難移住して来られた人たちの不安な気持ちに寄り添い、放射能汚染の拡散を阻止するために活動してきた経歴があります。2ヶ月前の10月17日、大阪市の震災がれき試験焼却に反対する市民有志(下地准教授含む)は、午後3時 、大阪駅・東北角の歩道上に集まり、大阪市役所にむけて三々五々歩いて移動しました。その際に、大阪駅構内の東コンコースを北から南へ通り抜けており、この行為を根拠に逮捕されたようです。
当勾留中の下地さんからの声明文に「逮捕状の被疑事実は、すべて、事実ではありません。当日現場にいた公安の警察官もすべてを見ていたはずなのに、堂々と事実と異なる被疑事実に基づいて逮捕を行ったことに、とても驚いています。 なぜ警察がウソをついてまで私を逮捕するのか。それは私が、原発の再稼働に反対し、放射能の拡散に反対する市民運動に参加してきたからであり、とりわけ、運動の中で出会った警察の不正行為についても厳しく批判してきたからです。悪いことはなにもしていません・・・」この後に声明文は若い学生の未来に対する思いや、同じように大学で教えている教師や医師、科学者に対しての呼びかけが続きます。これだけ大切な事件が大手メディアで報じられないのか?ジャーナリズムの「知らせる」義務と国民の「知る」権利が守られなければ国家のあり方は極めて危なっかしい方向へと進みます。大多数の民意に反して右傾化する今の情勢を早いうちに正さなければブレーキを踏むタイミングを逸してしまうような気がします。
ジャーナリズムの存在価値
2012/12/23 日本では数少ない偏りの無いメディア「週刊金曜日」の1993年の創刊の言葉に『歴史学者J・E・アクトンの有名なことば「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」に象徴されますように、権力の腐敗がほとんど法則的であることを前提として、近代の国家は腐敗を構造的に防ぐ手段たる「三権分立」を創出しました。しかしこの三権はいずれも国家権力に属するために、しばしば癒着あるいは独裁化に陥りやすい現象がみられます』そして「この「癒着あるいは独裁化」を監視して未然に防ぐための最も有効な働きを示してきたのがジャーナリズムです。腐敗しつつある権力は、国民に「知られる」ことをまず最もおそれます。知られなければ国民の怒りも起きようがないはずなのですから」・・・ほんとうにその通りだと思います。特に福島原発事故以後の政府や電力会社の絶対的権力の横行を見ていると、ジャーナリズムの消極性と、癒着が真実に曇りをかけていることは明らかです。国民一人一人が真実を知ろうとする姿勢は必要ですが、ジャーナリズムが逆宣伝のような事をすれば、それを看破するのはますます難しくなります。金曜日のことばにあるように腐敗しつつある権力がもっとも恐れるのが「知られる」ことならば、大義を失ったジャーナリズムに依存する事無く一人一人が真実のかけらを知らしめなければなりません。そして数少ない週刊金曜日などのメディアを賢く見分け応援することも大切です。
何度でも深く考えなければならないこと、国家の背骨である憲法
2012/12/21 憲法学者、樋口陽一さんの言葉「公正な社会をつくろうというのは、第2次世界大戦後、日本も含め、戦勝国にも敗戦国にも共通した流れでした。日本国憲法はその一つとして生まれました。この憲法のもとで私たちは、外国から「日本ほど平等な社会はない」とまで評価された社会をつくってきました。それがどこでどう変わってしまったのか。大震災、そして原発事故という大きな試練と合わせ、一度、戦後の出発点に立ち返って考える時期だと思います。」「日本国憲法が想定している人間像とは、一人ひとりが自分自身の主人公であり、主人持ちではいけない、というものです。誰かがではなく、自分で自分のことは決める。」「民主主義という制度は、選挙という民主的な手続きによって、独裁者を生んでしまうおそれがあります。民主的に生まれた権力であっても、国民が作る憲法によって制限する。それが憲法の役割です。政治家の側が、選挙で多数を得たのだから白紙委任で勝手なことをしていい、などということにはなりません。」「近代国家における憲法とは、国民が権力の側を縛るものです。権力の側が国民に行動や価値観を指示するものではありません。」これは朝日新聞のインタビューからの抜粋ですが、一人一人が憲法の意味と、憲法の重みを考える時に指針となる言葉です。この憲法の精神を国民がもっと噛み締めていたなら、原発の濫立も、格差社会を深めた配慮の欠けた規制緩和も歯止めがかかっていたに違いありません。国民が権力に歯止めをかけるもの、ゆえに乱暴な権力者は憲法を変えたいのでしょう。日本の平和主義、日本の民主主義にとって最後の砦である日本国憲法の尊さを全ての人が常に意識し固守することが未来を守るための大きな条件だと思うのです。
17才の高校生の涙
2012/12/19 「戦争放棄を定めた憲法9条の行方がとても心配だ。総選挙で改憲を訴えた自民党などが大勝したからだ。選挙中ふと目にした『9条改正』という言葉を目にした時は驚いた。台所にいた母に大声で尋ね説明を受けた私は泣いた。9条が将来変えられてしまうかも知れないと思った。これまで一度も、何かに心を動かされて泣いたことがなかった私が泣いたのだ。・・・」松山市の女子高生が朝日新聞のコラムに寄せた言葉の一部です。彼女のように憲法9条を誇りに思う日本人は多いと思います。金権主義がはびころうが、競争主義が蔓延しようが、右傾化を煽動する輩がいようが、「平和主義」を明確に規定した憲法9条があればこそ、日本の今があるのだと思います。この尊い憲法だけは絶対に触ってはいけない、その思いが彼女に涙を出させたのだと思います。彼女は言います「私は医師志望で将来医者になってアフリカなどの貧しい国々で医療活動する夢を持っている。日本人ならではの平和的方法で世界とかかわりたい。私はこの誇りを失いたくない」・・・未来ある若者にこんな危惧の涙を流させるような政治家はすぐに立ち去れと思いますが現状は薄っぺらな顔に笑みさえ浮かべて空恐ろしくなります。安倍氏、石原氏、橋下氏の口から福島原発事故で苦難を強いられている人々への心配の言葉も聞いた事がありませんし、社会的弱者への思いやりも聞いた事がありません。しかもアフリカや中東、ヨーロッパなどへの世界的な視野、関心もなく、芸術性も哲学的素養も科学的見識も何もありません。彼らがつくろうとする社会は一体どんな社会なのだろう?彼らに低次元の権力欲以外何もないと感じる人は僕の周りには多いし、みんな危険な感じを抱いています。とにかく彼らを注意深く見続けなければなりません。原発事故も戦争も絶対に起こしてはならないもの、起こってはならないものです。そして賢くさえあればどちらも完全に防げるものなのですから。
ワイン農家と大学生
2012/12/18 1975年に撤回されたドイツフライブルグ近郊に計画された原発建設計画。ワイン農家からフライブルグ大学生まで幅広い市民が反対運動を戦いました。86年にはミュンヘンのヴァッカースドルフ核燃料再処理工場建設に反対するデモに10万人が参加し、建設は中止に追い込まれました。そしてチェルノブイリの事故、福島原発事故を受けて原発全廃を決定したのは周知のことです。日本では、1971年から1979年の間に福井県に8基、福島県に6基、静岡県に2基、島根、愛媛、佐賀、茨城県にそれぞれ1基、<計20基>もの原発が稼働しました。1975年と言えばベトナム戦争が集結し、三億円事件の時効が成立し、プッシュ式の公衆電話が登場した時期。沢田研二「時の過ぎゆくままに」がヒットした年です。1981年から89年にかけては福島県4基、福井県3基、鹿児島県2基、静岡、佐賀、愛媛、新潟、島根、北海道にそれぞれ1基の<計16基>。呆れ返る数です。1986年はスペースシャトルのチャレンジャー号の爆発事故や伊豆大島の三原山が噴火した年、テレサテンの「時の流れに身をまかせ」が流行っていた年です。その間、1973年3月に関西電力美浜発電所燃料棒破損事故があり、1974年の原子力船「むつ」の放射線漏れ事故、1978年には東京電力福島第一原子力発電所3号機事故などがあり、原子力の危険性は認識されてはいましたが、ドイツのような大きな反対運動もなく信じられないような数の原発が造り続けられました。
1990年以降も執拗に造り続け総数は51基に上ります。原発が動けば必ず出る使用済み核燃料。その安全な処理法が無い中でのことですから無謀で無責任な政策であった事は否定しようもありません。しかも日本はドイツやフランスと違って、大きな地震が多発する国です。津波の被害もあります。なおかつ原発は複雑な装置です。装置である以上設計ミス、製造ミス、チェックミス、操作ミス、故障などが起こり得るのは避けられません。そして他の機械や装置と決定的に違うのがいったん事故が起これば制御不能で致命的な放射能汚染をもたらす事です。チェルノブイリや福島原発事故のその後を見れば明らかな事です。世界で唯一恐ろしい原爆の被害を受け、非核三原則を国是として再生を誓った日本が、原爆と本質的に同じ危険性を持つ原発で国を衰退させたなら、それはあまりにも愚かすぎる事ではないでしょうか。「時の過ぎゆくままに」も「時の流れに身をまかせ」も好きな歌ですが、原発や戦争だけは「時の流れにまかせてはいけない」ものです。ドイツのように農家の人と学生が力を合わせ、さまざまなジャンルの人が手を携え、声を上げすべての原発を即時廃止するような国にならなければ、原爆や原発事故で犠牲になった人たちが浮かばれないと思うのです。
日本を劣化させた自民党政権に逆戻りだけれど
2012/12/17 選挙はマスコミの事前の予想通りの結果に終わって危機感を募らせている人も多いのではないかと思います。長年にわたる自民党の悪政から出た社会的歪みを短時間に正すのは民主党でなくとも無理な事ですが、官僚の言いなりになった野田政権の失墜が大きくリベラル派の足を引っ張ったのは事実です。実際に国を動かしている官僚がアメリカの国策に左右されているのも周知の事で自民党はもともと官僚の指示で動いて来た政党ですから、その意味では野田政権と大差はありません。今後原発を固持しようとする勢力に拍車がかかることも明らかですが、これからが主権在民である民主国家の真価が問われる事になります。大きな問題が山積する現在の日本の状況を考えれば今回の投票率の低さは異様な感じがありますが、政治不信が極限にまで達した結果だとも感じ取れます。日頃から社会や政治に対する意識が低い日本でこつこつと真実を伝えるために日々努力している人々も少なからず存在する現実に希望の光は見えますが、市民一人一人がその光の大切さ、未来の子供たちや若者を守る光だと言う事に気づいて欲しいものです。
経済のキャパを増やしたり、競争社会を煽る事で国がゆたかになるような時代ではないのは世界を見渡せば分かる事です。急伸するアジア諸国との連携を深め、ヨーロッパの賢明な国々の優れた施策をいかに学び取り入れて行くかがこれからの政治の鍵になるのは明白です。そして国民一人一人の意識を少しでも高めて行く事、福島原発事故を受けてドイツの国民の2/3が原発廃止に声を上げたのも、長い時間の中での成熟したディスカッションのたまものです。一人一人がこの社会のあり方を対岸の火事ではなく自らの生存に照らして考えるようになれば自ずからおかしな政治家も政治も霧消するに違いありません。とにかく原発を動かして次の事故が起こったら、どうなるかだけは全ての人が想像力を働かせて判断すべきだと思います。今日であれ、明日であれ数年後であれそれは起こる可能性がある事です。天災であれ人為ミスであれそれは絶対に起こってはならない事です。福島原発事故で未だ30万人以上の人が苦しんでいる現実に対して加害者がまだ誰も責任を取っていないと言う異常な国のあり方にストップをかけなければ国家そのものが崩壊すると言うのは決して大げさな言い方ではないと思うのです。
未来のために、一人一人の理性と想像力を発揮しなければ
2012/12/13 社会のあり方、政治のあり方を見ていると教育こそが全ての根もとだなとつくづく思います。国民の多数がリベラルで博愛的な感性を身につけるような教育がなされたら、日本は一変するだろうにと思うけれど現実は逆。それにしてもこの国を一体どうしようというのだろう?と首を傾げざる得ないような口先だけの政治家や企業が自分たちの都合のいいように世論をリードします。片棒を担ぎ偏った報道に終始するマスメディアの姿勢、体質も大きな罪だとは思いますが、テレビや体制的な新聞の情報を鵜呑みにする人が多いのには空恐ろしくもなります。ほとんど報道されない福島の現状や避難した人々の生活。収束どころか深刻度を増す放射能汚染の実情。稼働中の大飯原発に不測の事態が起こったらと思うとぞっとします。原発に安全と言う事は絶対にない事。自然災害や原発以外の事故とは全く違うものだと言う事は福島原発の現状とこれからを見れば誰にでも分かる事です。平和憲法を絶対に変えては行けない事。戦争への可能性を生むような流れなど望む人間はいないはずです。自民党やそれに追随する公明や維新が政権を担ったら間違いなく日本は下降します。今の日本が直面している問題(社会的歪み)はもともと自民党が長期にわたって作り上げてしまったものです。官僚やアメリカ主導の計略にそのまま引きずられて来た結果です。時間はかかってもリベラルな政党と政治家が本当の民主主義を目指さなければならないのが今だと思います。自民党に政権が戻るような事になれば、まさに悪夢です。短絡的な景気対策と威勢のいい言葉が消えた時、日本は取り返しのつかないほどダメージを受けるでしょう。ダメージはすでにもう十分受けているのですから。
「立ち止まりなさい」
2012/12/11 レイチェル・カーソンの読書会続ける上遠恵子さん(83)。レイチェル・カーソンの「沈黙の春」は化学物質の危険性を説き、環境問題を世界に伝え、原発事故への警鐘にもつながる人間の未来へ向けての書です。上遠さんはもしカーソンが生きていた「立ち止まりなさい」きっとこう言うだろうとおっしゃっています。これだけの事が明らかになって、立ち止まらなければ人間は愚かすぎます。ドイツやイタリアが立ち止まったように日本が立ち止まれない理由はありません。原発が動く限り作業員が被爆し続けるという事実。疲弊した原発立地の人々をお金で買収し、地域の自然と人々のコミュニケーションを壊して来た事実。交付金がもたらしたものは原発への麻薬のような依存症です。間違っています。もっと健全な産業を国策として地方へ誘致する必要があります。誰も原発のそばで暮らしたくはないのですから。電力不足の嘘も目にあまります。2012年5月5日に全国の原発50基がすべて止まった時の安堵感こそが真実です。代替エネルギーの火力発電の燃料コストであたふたするのも盲目的な原発依存の結果ですから、当然国と電力会社の責任です。他国と比べて高い燃料を買わされている事実も報道されています。原発以外のエネルギー整備と開発を怠って来た先見の無さに呆れるばかりです。短絡的な利権と核兵器への野望だけで次々と原発を造りつづけてきた自民党政治は国民の生活を下降させただけではなく、国民の意識を劣化させた罪もあります。科学的に安全などと言う事が絶対にない原発をもう二度と動かさない事が、これからの日本を再建する上で最も簡単で、最も効果的な方法です。原発を二度と動かさずに明日の日本を考える事こそ、日本にはびこるあらゆる病巣への治療であり、ゆたかで人間的な日本をつくるための真の構造改革になると思うのです。レイチェル・カーソンは「立ち止まりなさい」に続けて「目を覚ましなさい」とも言うに違いありません。
戦争の語り部、時代を伝える者
2012/12/10 「恨みのない人同士が殺し合い、子供が親より先に死ぬ。戦争ほど理屈にあわんものはない」と真珠湾攻撃に参加し旧日本海軍の航空整備兵だった瀧本邦慶(91)さんは語ります。戦争の悲惨な実態については書物や記録映画など何度読み返しても、観ても、心が震撼します。知人、親戚縁者の幾人かの老人が思い出したくない記憶を重い口調で話してくれた事もあります。想像しただけで体に震えがくるような恐ろしい戦争。その真実を知れば何があっても、どんな事があっても戦争だけは嫌だと人間ならば誰でも思うはずです。5年前から戦争の語り部として10代の学生たちに向き合う瀧本さんは「国民が賢くなって行動しなければ、また若者が戦場に送られる日が来てしまう」と危惧します。そして「無関心はダメ」と学生たちに静かに語りかけます。憲法改正、国防軍、核のシュミレーションなどと言う言葉が軽々しく口をついて出るような政治家。今の日本に戦争など起こりえないと思っている人もいるかも知れませんが、いつの時代も国民の無関心や愚かさを戦争へと誘導する政治家や資本家はいます。戦争ではありませんが、多くの人が家と土地を奪われ、被爆までさせられている原発事故も原発ありきを誘導して来たものたちの仕業です。彼らが今なお反省も罪の意識もないのには絶句しかありませんが、戦争犯罪と同じ要素があります。それぞれの時代、自分の20歳の時の出来事、市民の反応、そして社会風潮など一人一人が時代を伝えることはとても大切な事だと思います。身近な子供たち、若者に記憶をつなげなければ同じ過ちは繰り返されます。「国防軍」とか「お国のため」とナショナリズムを煽るような政治家は決して愛国者ではありません。国を愛する人は穏やかでなければなりません。人を愛する人は戦争に向かう一筋の予兆さえ見逃してはいけないと思うのです。
競争社会から共助、共存の社会へ
2012/12/08 高度成長期を経て、低成長時代、人口減少社会へと向かう日本。やみくもに拡大成長社会を目指して来た今までの国のあり方を見直すのは必然的なことだと思います。日本の一都市ぐらいの人口しかないノルウェー、デンマーク、フィンランド、スウェーデンなどの北欧諸国ですが、その先進性も国家としての存在感も強くあります。そして世界をリードするイギリスやドイツ、フランスも人口は日本の半分ほど。リベラルな政策で存在感を誇るオランダは1632万人で東京都は1316万人。文化や伝統を大事にするのはヨーロッパの共通点ですが、文化や伝統を守る事をプライオリティーの重要項としてやって来たからこそ、今の各国の存在感があるのだとも言えます。美術や音楽などの芸術、科学や哲学においても創造的な人材が次々と育つ土壌。環境、教育、人権、エネルギー問題などに対してそれぞれ独自の創意工夫があります。これからの時代。これからの日本。文化伝統の歴史の乏しいアメリカならいざ知らず、そのアメリカに追随して多くの文化、環境を壊してしまった日本。経済大国にも関わらず色々な部分で貧しさが漂う社会を作り出してしまった結果は大いに反省しなければならないと思います。一部の思慮に欠ける人たちが提唱する競争とかグローバルだとかの発想はあまりに貧困で、逆行でもあります。「それをやったから、こんな社会になったのです」ブラック企業も、経済格差もうんざりです。これからはもっと質の高い、文化の香りのする人間性あふれる社会を目指さなくてはなりません。十分な科学技術があります。経済力もあります。無駄な公共事業に費やした巨費、そして想像するもおぞましい超巨額の原発事業に費やしたお金を考えれば、国をゆたかにするほとんどの計画は実現できたでしょう。本当に馬鹿げた事をやってしまったけれど、もう同じ繰り返しをしてはなりません。ヨーロッパ諸国のいい部分を賢く見習って、新しい日本をつくるために一人一人が毎日の生活を含めて目覚めなければならないと思うのです。競争ではなく一人一人が気高い目標を持って生きれるような社会を目指さなければ、「理念ある政治家」も「人格ある学者」も「まともな企業家」も生まれようがありません。
若者を蝕むブラック企業
2012/12/07 朝日新聞に「使い捨て、俺は奴隷か」、何とも胸の悪い見出しがありました。ブラック企業、英語ではSweatshop、中国語圏では血汗工場と呼ばれる企業体質の事ですが、記事では25歳の若者が東京のアパレル商社の実態を語っていました。若者は命の危険さえ感じNPO法人のPOSSEに援助を求めて悪徳企業と戦っているそうですが、一人で落ち込んで病んでいる若者も多くいるはずです。長時間労働、暴言、暴行、パワハラ、賃金未払い、何でもありのブラック企業。業種を超えた企業のブラック化の広がりのもとはあの小泉政権がやらかした行き過ぎた規制緩和の結果です。自由化とか自由競争とかの「自由」と言う言葉に騙されますが、市場を無規則に解放すれば資本の力学が働いて弱肉強食、人と物の区別すらつかない非人間的な世界が生まれるのは当然です。もともと競争にはルールと公正なスタートラインが要ります。長年の自民党政権がじわじわ広げた不公正と憤懣やるかたない現状にメスを入れるがごとく煽って人気を取る橋下氏は小泉流を自認しているのですから、問題外としてその他の政治家にも小泉政権がもたらしたこの恐ろしい現状を認識できていない人間がまだいます。短絡的な小手先主義がもたらした結果が今です。原発しかり、個人や中小の企業、店舗の消滅しかり、教育の劣化もしかり、ブラック企業が広がって社会がブラック化しているのもしかりです。スイスのある若者が言ってましたが「日本人は政治や社会に無関心すぎる」。確かにその通りですが、日本は政府と企業が一体となって、テレビを始め強力なマスコミを使って「物事の本質を考えない人間」を意図的につくって来た事実があります。意識の低いお笑い番組、歌謡番組、スポーツ番組でテレビは埋め尽くされ、まさに無意識を生み出すブラックボックスと化しています。ヨーロッパや優れた国の情報もほとんどなく、何かを考える時に「比べる物が無い」状態に置かれているのも事実です。自民党の安倍氏がテレビ広告で「日本を取り戻す」と真顔で言ってますが、もう少しきちんと言うべきです「大企業と多国籍企業、そしてアメリカ政府と自分の私欲のために日本を取り戻す」と。日本も国民も「モノ」ではありません。取り戻したり投げつけたりできるようなものではなく、ビジョンを持って育て、愛を持っていたわらなければならないものだと思うのです。
情けない発言、日本維新の会代表の石原氏の街頭演説
2012/12/05 日本維新の会代表の石原氏が横浜市の街頭演説で「原発は高いところに作らなきゃダメ」、、と言ったそうですが、貧困な言葉です。これだけの事が起こって原発の危険性はあらゆる角度から検証され、「安全など皆無」と言う事が常識になっているのに本当に情けない発言です。原発がダメだと言う理由が地震とか津波の問題ではない事がここに至って分からないような人が、一体この日本をどうしようと言うのでしょう。13年間の都知事の仕事で一体何をやったのか?圧倒的な税収と商業力が集中する東京都ならば出来る事は限りなくあると思うのだけれど・・・13年間ですから!財政難の他県の知事が苦戦するのは分かりますが、富が集中する東京都ですから考えてしまいます。以前首相だった小泉氏もそうだけど役人とか既成権力を攻撃するふりをして市民の共感を得る手法はもう通用しないと思います。小泉氏が結果役人の思うままに政権を運用した実績で明らかなように、それは詭弁です。本当にこの国の役人体質を否定し変革しようとするなら、まず原発を止めるべきです。アメリカ一辺倒の立ち位置を変えるべきです。東電とか役人とかと密接に結託しておいて、それを攻撃するふりをして市民を騙す。当選すれば結果多くの市民がひどい目に遭う。役人も大企業もダメージが無いどころかまたしても私欲を肥やすと言う馬鹿みたいなパターンを繰り返すのはあまりにも情けないと思います。市民一人一人が政治家の口先の言葉ではなく、その人間性と今までの生き様ぐらいはチェックして、想像力を働かせて「果たしてこの人間は本当に国民の事を思っているのか」「もしかして自らの我欲や権力欲だけが目的ではないのか」などを判断したいものです。
世界が注目する今回の選挙
2012/12/04 英国の作家クリストファー・ロイドさんが想像力を駆使して自然と人類の進化をたどった「137億年の物語」。そのロイドさんが3.11の原発事故後の福島を訪れ確信したといいます。「自然と人間、資源と消費の新たなあり方を考えて世界に示すチャンスが今の日本にはあるのです」・・・経済一辺倒で今日まで来た日本がこれだけの大惨事を受けてどう軌道修正するか、世界は注目しています。主張の明確な「日本未来の党」の出現のおかげで、不明瞭な第三極の構図が見極めやすくなったことは有権者にとってとてもいいことだと思います。世間受けのためだけではないかと思われるぐらいコロコロ変わる日本維新の会の政策。脱原発への意思も偽りだと言う事がよく分かります。ガンジーがいうところの「理念なき政治」そのままの自民党と日本維新の会。福島の人たちの現状と長く続く苦しみを目のあたりにしながら、原発に対して真摯な姿勢で向き合わないような党はもともと今回の選挙に参加する資格さえないと思うのですが、「道徳なき商業」の先棒担ぎはとどまる事を知りません。原発は単なるエネルギー政策の問題ではなく、日本の経済構造と精神構造を正すべき大問題です。ひとたび事故が起こればあらゆる分野に影響を及ぼす事も重々分かったはずです。憲法問題や沖縄の基地問題もすべて「命」の問題です。それぞれ重く大きな問題です。日本未来の党が掲げる未来に投票率の低い若い世代がこぞって関心を示して欲しいなと心から思います。巨大権力が根を張るこの日本で本当の改革をするのは至難だとは思いますが、嘉田由紀子滋賀県知事の勇気ある行動を国民一人一人が応援しなければと思います。世界の注目にこたえられるかどうかは一人一人の真偽を見抜く力とヒューマニズムにかかっていると思うのです。
グローバル時代に求められる人間性
2012/12/03 民俗学者の石毛直道さんは言います「・・・国家や民族など関係なく民衆同士が直接触れ合っている。環境は整っているのだから、若いうちに海外へ出て、どしどし異文化を体験して欲しい」「これからは国家の単位で物事を考えず、人類という発想に立って欲しい」・・・本当にその通りです。拡大主義でも保護主義でもない人類共存主義こそグローバリズムの本質です。石毛さんのいうように特に若い人はどんどん海外へ出て国家とか文化とかがなんであるかを体験して欲しいものです。渦中の政治騒動、矮小な政治家がグローバリズムとか国益云々をテレビなどで語っているのを聞くと寒々しくなります。民衆をリードし啓蒙するのが政治家の役目ならまず自ら海外の文化を肌で感じ、そこから日本が進むべき道を考えて欲しいものです。石毛さんは将来に対してこうも言っています「資源をあまり使わず、人々が生きがいを感じ、楽しくなるためにはどうしたらいいのか。心の中に植えつけられる豊かな文化やスポーツ、芸能などを考えるべきでしょう」人類という発想に立てば、核兵器や原発がいかにおろかな選択であるかは明らかです。自民党や維新の会の主張は戦後日本の間違った部分の政策を反省すること無く、失敗の上塗りをするだけだと言うことに気づかないほうがおかしいと思うのです。同じ過ちを繰り返すのはあまりにも理性と感性が無さすぎます。
imagine 想像しよう
2012/12/02 これさえあればと思うぐらいいい言葉です。過去のことも未来のことも何かを感じ取れるのは想像力があってのこと。過去からの教訓も未来への啓示も想像力をなくした心や頭には意味もなさなくて無力です。人の痛みを感じ取れる心。明日の危険を察知する感性。身近な暴力は想像力が無くても問答無用だけれど、もっと恐ろしい戦争を事前に防止するためには想像力が要ります。40年も前から想像力のある人は原発が危険だと感じて廃止を求めて来たけれど、福島の原発事故が起こった今は想像力がなくとも危険は分かります。ものごとを正しく判断するには科学的な知識も大切だけれど人を愛する心と想像力が知識に融合しなければいけないと思うのだけれどそれは知識を得ることよりもはるかに難しいことかも知れません。使えばこの地球上の全ての生命が死滅する絶望的な「核」さえ想像力の無い人は核武装などと言う馬鹿げたことを口にします。想像力は何よりも大切です。政治家の善し悪しは言動や人相、指向性、生き様、などを見ればある程度判断がつきますが、やはりそれも想像力がなければ判断を誤ることもあります。口先のパフォーマンス、マスコミの煽動もあります。未来のために、愛する子供たちのために大人は想像力を全開にして悪しき芽は何としてでも摘み取らなければなりません。権力や威圧は行動力とは無縁のものです。何かを「良き方向」へと変えようとするなら根気がいります。それは静かにゆるやかにしか進行しないものです。一人一人の精神の伝播です。原発の絶対的危険性、沖縄の人たちの長きに渡る苦痛に想像力が働かないような政治家は問題外です。たとえ実際に政治を動かしているのが官僚だとしても、その背後にアメリカがあるとしても、政治家一人一人の人間性を国民が精査して選べば、ことは緩やかではあってもいい方向へと向わざる得ないと思うのです。
善きことは、カタツムリの速度で動く-マハトマ・ガンジー
2012/11/29 1989年から1990年にかけて、民間人では初めて商業宇宙飛行を利用するとともに、ジャーナリストでは初めて宇宙空間から宇宙を報道した秋山豊寛さんは地上に戻り、宇宙から見た地球の美しさに圧倒され自分はこれからどう生きるか考えて、母なる大地と向き合う「農」を目指した。しかしその場所は福島第一原発から32キロ。震災翌日から16万人の原発難民の一人となった。秋山さんは語ります。「生活基盤を失って始めて紛争地帯やチェルノブイリ原発などで接した難民たちへの想像力が足りなかった」「私自身が他人の不安や悲しみに共感せずにいた。特に若い世代に、きちんと向き合ってこなかった自分に気づいた」・・・「私は今、東京電力と、それにつながる者への怒りと恨みをエネルギーに生きている。たとえ怒りが原動力でも次世代に伝えるべきことを伝える仕事をしたい。おかしいと感じた時に声を上げる想像力が少しでも教え子らの身につけば、と思う」昨年11月から京都造形大学で教える秋山さんは言います。
科学や政治の専門家と名乗るものたちの口先三寸にあまりにも無批判であった結果が福島第一原発の事故です。愛情の反対語は憎悪ではなく「無関心」だと秋山さんが言う通り、無関心は憎悪にも増して始末の悪いものです。もし政治家と言われる職業に就いているなら、放射能汚染で故郷を追われた被災者、今なお汚染地域で暮らす子供たちの事が心配で脳裏から離れないはずです。浅薄な権力闘争としか見えない選挙運動などやる気も起こらないはずです。ガンジーの言葉に「国の偉大さ、道徳的発展は、その国における動物の扱い方で判る」とありますが、環境省ウェブサイトによれば2008年の犬猫の殺処分数は27万6,212頭。ドイツが殺処分ゼロと言うのはよく知られていますが、差がありすぎます。脱原発に対する意識の差も同じですが、結局は人間とは何であるのかと言う「哲学の差」ではないのかと思うのです。そして善き方向に進むための速度はカタツムリで十分だとも思います。
「オリーブの木」構想
2012/11/27 脱原発の旗印のもとに。滋賀県の嘉田知事が呼びかける「オリーブの木」構想は混迷する総選挙に対する大きな明示です。原発ゼロを目指す政党がゆるやかに集まると言う趣旨も素晴らしいし、何よりも維新の会のように脱原発を世論の趨勢を見ながらの票取り駆け引きに使うような集団との一線を画す意味でも重要な意味があることです。原発はあらゆる意味で日本の今も、将来に大しても悪影響しかない事が分かっているのに「脱原発」を信念を持って明確に意思表示しないような党や人間に賛同する事はあまりにも愚かです。今現在も原発事故にともなう責任は果たされていず、それでも補償や除染に投じられている費用は巨大なものです。原発は人の生活や心のみでなく、国家財政をも危うくする「最悪最大の不良債権」です。多くの人が原発の真実に気づき、反対の風潮は育ちつつありますが、どうしても原発を維持したい強大な権力はあらゆる手を使って延命を計っています。
お金にものを言わせ新聞、テレビを使ったプロパガンダ、反省のない御用学者も思慮の足りない知識人の言動も後を絶たず、一人一人がしっかりと事実を見極める作業はまだまだ必要です。今回の選挙の重要な3つのテーマ。1.真摯に原発を廃止するという意思。2.格差社会の是正。3.TPPへの反対。これだけはチェックしたいものです。経済大国日本がなぜ今のような殺伐とした社会、ゆとりのない社会になったのかの原因は、国民一人一人のある種の無関心、自分の身の回りのことしか考えない、考えれない人間が増えた事にあると思います。「オリーブの木」は平和の象徴で英知を意味する木です。政党だけでなく国民一人一人がオリーブの木のもとにゆるやかに集結するような時が来るよう一人一人が思いと行動を続けて行きたいものです。
電力社員と兼業99議員
2012/11/25 朝日新聞の一面に大きな見出しです。サブタイトルは「地方議会、大半は二重報酬」記事の要約は「原発を持つ全国の電力会社9社に、現役社員のまま地方議員になっている『社員議員』が99人いることが朝日新聞の取材でわかった。うち91人は議員報酬とは別に会社から給与を受け、さらに関西電力や東北電力など6社の52人は議会活動で会社を休んでも有給となる『特例』を受けていた。議員への給与は電気料金に含まれており、市民が活動を支える構図になっている」記事を読んでいて一体どこまでいい加減な国だろうと情けなくなりますが、原発にまつわる権力のやりたい放題はとても民主主義国家だとは思えません。二重報酬の議員の所得は2千万円前後だそうですが、呆れます。「この99人の社員議員のうち90人の資金管理団体や後援会が、労組のつくる政治団体から10年までの3年間で総額6億円の献金を受けていた」原発が生み出すエネルギーの源はウランとお金です。ウランが燃えて放射能を出し、お金が燃えて人の心を汚染する最悪の装置だとあらためて思います。原発を止めればこの日本の悪の大元はダメージを受けます。原発に真摯に反対する党と候補者に一票、脱原発のパフォーマンスに騙されない一票が大切だと心から思います。
原発も政治家選びも同じ過ちを繰り返さないために
2012/11/23 1955年から2009年まで政権与党として国策を担って来た自民党。1991年にバブルがはじけ自民党政権が取って来た政策の歪みがじわじわと社会に露出し、国民が自民党政治の負の部分にメスを入れるべく新しい日本を模索し始めた2001年、「自民党をぶっ壊す」「聖域なき構造改革」を掲げた小泉純一郎が登場し多くの国民はマスコミを利用したポピュリズム的手法にすっかり騙されました。自民党は延命し、聖域なき構造改革は大企業を潤わせ、社会的弱者はますます追いやられる結果となったのはその後で明らかです。小泉劇場の後始末に安倍、福田、麻生の三氏は対応できず民主党への政権交代となったのですが、長年の自民党支配と小泉政権のもたらした社会的歪みは大きく深く、民主党がどれだけ踏ん張ろうが2年や3年では回復する事はとても無理です。日本の命取りになるような原発を54基もつくって来たのも自民党なら大企業ありきの規制緩和で膨大な数の小規模企業や店舗を倒産、閉店に追い込んだのも自民党です。
地方を無力化したのも、非正規雇用を蔓延させ都市に働く若者を追い込んだのも自民党です。日本社会の根底を危うくしている教育や福祉の問題を先見の明なく進めて来たのも自民党です。そんな自民党に追随して来た公明党。自民党ではないけれど同じ穴のムジナの石原氏や橋下氏の言動には胸が悪くなりますが、彼らは大企業、あるいはアメリカの権力象徴である巨大な多国籍企業の戦略に対して国民を守る意識があるとはとても思えません。多くの国民が危惧し懸命に訴え続けている脱原発すら彼らは上の空で、状況を見て口先だけで合わせている姿勢は本当に下劣です。民主党がいいとは言えませんが、少なくとも今回の選挙は、1.真剣に原発を止める意思のある人間、2.真剣に格差社会を無くそうとする人間、3.TPPの危険性を熟知している人間の3つの条件を持たない人間には絶対投票しない決意が必要です。国政と言う舞台を我欲や個人的願望で使われては迷惑すぎますし、短絡的な思考は必ず巨大権力に悪用されます。同じ過ちを繰り返さないために、一人一人がこの国の過去をおさらいする必要があると思うのです。
日本の政治と国の行方
2012/11/21 今年始めに朝日新聞に掲載された「再生、日本政治」と題されたコラムに書かれていた記事を読み返してまさにその通りだとあらためて思いました。「貧困」「うっぷん晴らし政治」「TPP」「エネルギー」「介護」など日本が社会的歪みを深刻化させる要因がこの記事を読めばある程度理解できます。以下記事全文<貧困の多数派、歯止めを。経済評論家 内橋克人>
現代日本の問題点はどこにありますか?
「日本社会でも新たな階層が生まれてきている。国民皆年金など基礎的な社会保障からさえ排除された人たちが多数派となる『貧困マジョリティー』だ。グローバル化やマネー資本主義が進み、非正規雇用が増えて中間層が崩壊する社会の到来は、危険な時代への予兆ではないか」
貧困マジョリティーの特徴とは?
「米国はじめ国内外の最強の秩序形成者に抵抗する力もなく、生活に追われて政治的な難題に真正面から対峙するゆとりもない。同時に精神のバランスを維持するために『うっぷん晴らし政治』を渇望する。政治の混乱を面白がり、自虐的に、極めて反射的に、表面的に評価して、選挙権を行使する。大阪市の橋下徹市長の『ハシズム現象』も貧困マジョリティーの心情的瞬発力に支えられている面が大きい。『地方公務員は特別待遇を受けている』とバッシングし、閉塞状況下の欲求不満に答えていくやり方だ」・・・
政治に対する閉塞感が国民の方向性を誤らせるということですか?
「『政治のリーダーシップ不足』と言われるが、民主政治を基盤とする国でのヒーロー待望論ほど異常なものはない。日本古来の『頂点同調主義』に加え、異議を唱えるものを排除する『熱狂的等質化現象』が一体となる。『うっぷん晴らし政治』の渇望を満たそうとすれば、1930年代の政治が繰り返される。グローバリズムが生み出した『貧困ファシズム』の培地となりかねない」
政治問題は山積しています。
「いまの政党政治は一挙に崩れる瀬戸際にある。今年は多くの国で政権交代が起き、政治的に極めて流動化する。グローバル化の流れは変わらず、市場原理主義のもとで、貧困マジョリティーを生み出す『貧困の装置化』が進んでいる。消費増税によって、零細企業や地域経済を支えてきた地場産業は、価格転嫁できずにコスト引き下げを迫られる。所得税なら稼いだ人がたくさん納めるが、日本型消費税は貧困マジョリティーを増殖させる『貧困の装置化』の手段になる」
環太平洋経済連携協定(TPP)についてはどうですか?
「これも同じ。米国の政権が変わっても、米シンクタンクは一貫して『投資の絶対的自由の保証』を求めてきた。日本がTPPに入れば、外資は日本政府を米国の経済法廷に訴えることができる。米企業はオーストラリアでの医薬品への公的補助でさえ『自由市場に反する』と問題視している。日本の国民皆保険制度も目の敵にしているが、これは豊かな人も貧しい人も、ひとたび体を害せば医師にかかることができる制度で、国民的財産、社会的共通資本だ。それが毀損され、一部企業のビジネスチャンスになる。弱いところに社会的変動の影響が収斂する」
日本の政治は何を目指せばいいですか?
「私は新たな基幹産業として『EEC自給圏』を提唱してきた。FはFoods(食料)。日本の穀物自給率は世界で124番目だが、食料自給は国の自立条件で新たな産業も形成する。EはEnergy(エネルギー)。再生可能エネルギーとしてデンマークでは風力発電、太陽熱発電を促進し、エネルギー自給率が今では200%近い。日本は国策として原発に集中し、ほかの選択肢を排除した。CはCare(介護)。市場に任せるのではなく、社会による介護自給圏を形成すれば北欧諸国のように強力な産業になる」
「『うっぷん晴らし政治』ではなく、世界のモデルに目を向け、食料、介護、エネルギーの自給圏を志向すべきだ。地味でもいいから、グローバル化の中で、それに対抗できる『新たな経済』をつくることが本当の政治の役割だと思う」
神隠しされた街、政治家なら想像力と心を持て
2012/11/19 福島県南相馬市在住の詩人、若松丈太郎さんはチェルノブイリ原発事故から8年後の1994年に現地を訪れ事故現場4号炉を覆う巨大なコンクリートの「石棺」から120メートルの場所に立った時の思いを「まるで熱いフライパンの上に立っているようだ。一刻も早くこの場から立ち去りたい」放射能の怖さを始めて体感した瞬間だった。持参した放射線量測定器は高濃度の放射線で「測定不能」になっていた。帰国後、強制疎開させられたプリピチャ市の惨状を「神隠しされた街」と題した詩にした。
多くの人は三日たてば帰れると思って
小さな手提げ袋をもって
なかには仔猫だけをだした老婆も
入院加療中の病人も・・・
4万5千の人びとが2時間のあいだに消えた・・・
ストロンチウム90 半減期 29年
セシウム137 半減期 30年
プルトニウム239 半減期 2万4000年
セシウムの放射線量が8分の1に減るまでに90年
致死量8倍のセシウムは90年後も生きものを
殺しつづける
人は100年後のことに自分の手を下せないという
ことであれば
人がプルトニウムを扱うのは不遜というべきか
捨てられた幼稚園の広場を歩く
雑草に踏み入れる
雑草に付着していた核種が舞いあがったにちがいない
肺は核種のまじった空気をとりこんだにちがいない
神隠しの街は地上にいっそうふえるにちがいない・・・・
私たちの神隠しはきょうかもしれない
うしろで子どもの声がした気がする
ふりむいてもだれもいない
なにかが背筋をぞくっと襲う
広場にひとり立ちつくす・・・
長い詩からの抜粋ですが、原発の持つ怖さを強烈に言い表しています。福島の原発事故はまだ何も終わっていません、心ない政治家が夏場だけだと黙認し、再稼働させた大飯原発もまだ止まっていません。もし人間としての想像力があるなら、とても出来る事ではないでしょう。口先だけの脱原発を選挙目当てに掲げる党もありますが、恥ずべき事です。せめて18年前に若松さんの詩の意味を理解し感じ取れていたなら、「福島原発事故」は起こらなかった!のです。
原発事故。残された動物たちの無念
2012/11/15 朝日新聞に掲載されていた写真家太田康介さんの言葉です「ここが地獄でないなら、どこが地獄なのか。昨年四月福島県浪江町の牛舎で、私の心は破裂しそうでした」太田さんは水も餌もなく汚物にまみれ仲間の死体に囲まれて餓死していく牛たちの姿を見ながらチクショー、チクショウーとうめきながらシャッターを切ったそうです。ブログを見て協力を申し出てくれた人たちと一ヶ月あまり牛の救助に奮闘した結果助ける事が出来なかった牛たち。絶望する太田さんにしばらくして3頭の牛が近所の牧場に紛れ込んで生き延びていたとの知らせがありました。その牧場は警戒区域の全家畜を殺処分すると言う国の指示に逆らって飼育を続けている牧場だと言う事です。
記事の最後に太田さんは「個人の力はちいさいけれど、何もできないわけではない。命をいただきながら生きている私たちだからこそ、餓死という最もつらい死に方をさせてはいけないと思うのです」と語っています。原発事故は多くの人の暮らしを奪い絶望から自殺した人まで出してしまったけれど、この牛舎の牛たちや他の多くの家畜をも無惨な死へと追いやりました。全ての国民が「チクショー」と思わなければならない事故ですし、危険な原発を嘘と権力でまかり通して来た国や電力会社に「チクショー」と怒りをぶつけなければいけないと思います。
自然エネルギーの圧倒的な可能性
2012/11/11 各国が開発を進める自然エネルギー分野。先行する太陽光発電や風力発電にもまだまだ新しい技術とアイデアが生まれる可能性は大きくあります。原子力発電と言う将来性のないエネルギーに巨額すぎるお金を投じて来た日本ですが、福島原発事故の取り返しのつかない過失を教訓に未来に向けてのエネルギー政策を根本から変革しなければ、人間としてあまりにもお粗末です。日本が位置する地理的環境から得られる恵まれた自然エネルギー資源はまさにエネルギーの宝庫と言ってもいいほどのものです。光、風、水、地熱のエネルギーに加えて、潮流が走る海があります。原発建設に投じた資金を自然エネルギー開発にまわしていれば今頃は国内の豊かさだけではなく、世界の貧しい国に多大な援助と先進国のあり方を明示することが出来たはずです。
黒潮を利用した発電実用化に邁進する沖縄科学技術大学教授の新竹さんは「直径80メートルのプロペラ300台で原発1基分」の発電を試算していますが、自然エネルギーの多岐に渡る分野で研究開発費さえ国が援助すればすでに実用化されていたものは少なくないと感じます。国はむしろ原発を推進するためにそれらを無視したり、あるいは妨害さえしてきた感があります。本当に馬鹿げた事です。恵まれた自然と日本の経済力、科学力を合致させれば世界随一の自然エネルギー大国になる事は確実です。40年前に、せめて10年前にでも原発の本質に気づき方向転換していたならと忸怩たる思いはあります。それでも未来のために過去の反省、清算をし国策を転換しなければ未来は暗澹たるものになります。
身につまされる詩
2012/11/09 詩人・金時鐘さん(83)の詩「夜の深さを 共に」。
「私は見ました。/消えていった言葉の/風にしなるもがきを見ました。/神々がひそめてきた天外の火を/利便さに代えた人智の驕(おご)りを、/昼をもあざむく不夜城の/いつ果てるともない虚飾の浪費を、/その文明の 畏れを知らぬ退廃を」・・・金さんは言います。「詩とは一番美しいことを表現するのにこだわる創造行為なのだから、阻害するものには反対しないといけない」だが、原発と原発を生んだ社会システムに立ち向かう言葉は、日本の現代詩に見当たらなかった・・・
「詩」とは生き方だ。「詩を書かなくても、存在そのものが詩である人はいっぱいいる」。米国が核実験をする度に雨が降ろうが座り込みをする広島の市民。京都大で原発の反対運動に力を注ぎ、ずっと出世しなかった研究者。「のどもとまで突き上がってくる思いを抱えて人々は生きている。その思いに共鳴して、言葉にできるのが詩人なのです」・・・本当に共感できる言葉です。京都大学の小出さんのように科学者ではあるけれど、その生き方、心根は詩人であり、音楽家であり、画家そのものだと思う人もいます。存在することの意義。現代日本の「畏れを知らぬ退廃」に対してどれだけの人が目覚めるか。一人一人の自覚と連鎖以外にこの退廃は止めれないと思うのです。
暴力と非暴力、政治家や企業を見抜く目
2012/11/07 子供の頃から暴力は大嫌いで、それはずっと変わらないし多くの人が同じだろうと思います。暴力とは無知で無感性の人間だけが行える特殊な行為、本当に恥ずかしいしまだ人間に至っていない生物の行為ではないかと思えるのです。そんな暴力を利用する人たち。巨大な権力にものを言わせ、自らとの関係を露呈されないよう間接的に暴力を使う悪者たち。江戸時代の悪代官や庄屋ではありませんが、その構図はずっと続いています。原発のような最新科学技術の結晶(実際は不完全な湯沸かし装置ですが)のような世界でも原発立地の人々の分断や買収のために暴力は使われていて、原発に反対する人間は当然ですが非暴力です。正しい事をすれば暴力やいやがらせにさらされ、悪い連中は変な言い方ですが、暴力に守られている。暴力とはお金でやり取りされる次元の低いものです。それを無関係を装いながら下請けや孫請けを通して使う資本家や政治家がいるとしたら当然彼らは低次元の人間よりさらに野蛮な人間です。そしてそのような構図がなければ成立しないものは明らかにその本質において間違ったものなのだと思います。
真実を知れば誰も望まないもの、誰もが危惧するもの、逆にそれが分かっていて一部の人間、一部の権力者があらゆる矛盾を踏み倒してでも利用したいもの。原発とはそういうものだと思います。民主的な人々、人間的な人々は暴力を否定します。当然、独断や強権も否定します。愚かで凡庸な人間が権力を握った結果起こった過去の惨憺たる歴史を分かっているからです。もともとそのような人間が権力を握れるのはその社会を動かす巨大なバックボーンである資本家の手先になっているからに他なりません。それをあたかも権力と戦っているように見せる小手先はすぐに看破できるはずです。社会の多数を占めるはずの民主的な人々の側に立つなら、大企業を優先したり、原発再稼働を容認したり、弱者に対して圧力をかける事など到底出来ないはずです。権力者側に組する限り、暴言、失言もまかり通ると言うスタンス、民主的な勢力からは決して暴力は受けないと言う計算。逆を考えればすぐに分かりますが、正しい声を民主的にあげている人がいやがらせや暴力にさらされた例はいくつもあります。
政治家を選ぶための指針。その政治家に独断性はないか?権力側か民衆側か?文化的なものを経済の犠牲にしないか?グローバルな世界を浸食する多国籍企業に動かされていないか?常に平和と社会的弱者への救済を心に持っているか?現実的な計算力や駆け引きの能力を是正する精神性、科学性や芸術性を兼ね備えているか?などなど政治家を判断する材料は無数にあります。そしてそれは企業の姿勢に対しても当てはまる事です。誰でも戦争は否定します。どんな小さな暴力も否定したいはずです。平和とすべての人が共存できる世界のための、民主主義の小さな第一歩が政治家を選ぶ民衆の眼力です。
全てはつながっていて・・・動物をいたわる心と人間をいたわる心
2012/11/06 町中でリードをつけない大きな犬が飼い主と並んで散歩しています。電車の中にも、オフィスにも、レストランにもよく躾けられた賢そうな犬が飼い主とともにいます。先日テレビで観たドイツの首都ベルリンの風景。大阪や東京の現実に比べると信じがたいような話ですが本当です。動物の殺処分「ゼロ」と言うドイツらしい政策です。日本での動物の殺処分はNPO法人 地球生物会議 ALIVE「全国動物行政アンケート結果報告書」(平成22年度版)によると21万3,607匹に上ると言います。恐ろしい数です。行政の意識、市民の意識の両方が悪い方に相まってこのような残酷な数字になっているのでしょうが、同じ先進国を自認するならとても恥ずかしい話です。人口350万人、153の博物館、50を超える劇場、1,000を超える映画やテレビ番組製作関連の企業と270を超える映画館、135,327人の学生が31の大学やカレッジで学ぶ街。市域の3分の1は森林、公園、庭園、河川や湖で構成されている大都市ベルリン。文化的なエッセンスをことごとく無くしつつある大阪や東京とはあまりの違いです。ドイツには殺処分場は1つもありません。その代わりに里親探しのための「動物の家」というシェルターが、500を超えて作られていると言います。犬猫に限らず、馬や鳥、豚、ウサギ、蛇など沢山の種類がいて動物の家に保護され暮らしている動物たちに「滞在の期限」もないとのこと。700もの動物保護団体、活動する会員は80万人。世界で最も多い残飯、世界一ではないかもしれないけど、20万匹以上の動物を殺処分する日本。いじめ、自殺、原発、無関心、虐待などの無慈悲な事件・・・全てはつながっているような気がします。
太陽にあふれているのだから、それを使うのは当然です
2012/11/04 シャープとエネル・グリーン・パワー社(EGP)が2010年7月に設立した太陽光独立発電事業の合弁会社「Enel Green Power & Sharp Solar Energy S.r.l.(ESSE)のリカルド・アモローゾさんは「イタリアは太陽光にあふれているのだから、それを使うのは当然です」と語ります。国の再生可能エネルギー支援を背景に2007年には約8.7万キロワットだった太陽光発電の総発電量が2012年には1400万キロワットにまで急増したイタリア。欧州では10年前に導入された再生エネルギーの固定価格買い取り制度は日本では今年始まったばかりです。自然エネルギーの利用環境においてはイタリアにひけを取らない日本が、原発ありきの政策の中で、自然エネルギーの普及を妨害して来た事実には情けない思いが募ります。世界の有識者へのアンケートにより1992年から毎年発表されている「環境危機時計」の針は昨年から22分進んで9時23分で、人類が危ないとされる12時まで刻々と近づいています。
同時に行われたアンケートで原子力政策に対しては「見直すべき」32%「依存度を減らすべき」32%「廃絶すべき」23%で原発に距離を置く意見が80%に達し、地球環境問題の取り組みの障害になっているものは?の質問には82%が人間の欲望による「経済利益の追求」との回答です。これは88カ国、1096人の有識者の意見ですが、環境や原発問題に関しては事実を知った多くの人が危機意識を持っているのですが、正確な情報がテレビ、新聞など、影響力の強いメディアではかなり消極的にしか流されないのが残念です。ニュースに限りませんが、世界の情報をゴールデンタイムにもし流せたら、国民意識は相当変わると思うのですが、日本のテレビ番組の実態はほど遠いものです。日本の先を見るためにも世界の国の現状を知る事はとても大切な事だと思うのですが。
施政者には品性、品格、正義がなければならない
2012/11/02 福島の原発立地の町長、井戸川克隆町長は原発事故の後、この国の正体に気づき「フタバから遠く離れて(舩橋淳著)」の本の中でインタビューに答え、こんな事態に陥ったのは物事の隠蔽を可能にさせている国民性であると述べた後、「民主主義とは何か?」と言う問いに「代務者、代議員に全てを任せるのとは違うものと考えます。・・・任せられる者と任せる者との信頼関係の下に隠蔽や偽りがない代務を行うことを原則として、任せられた者は任せた者の意向を勝手にできない約束ができていることが大切です。・・・『信頼』に大きな権限を与え、代務者に資格基準を求め、品性、品格、正義がなければならない」*明治学院大教授の高橋源一郎さんが、朝日新聞の論壇時評に「方舟の針路人任せにしない」と題したコラムの中の文章です。原発事故後のこの国のあり方、故郷を失った悲しみと怒りから井戸川町長の中に目覚めたヒューマニズムが言わしめた言葉で、まさに民主主義とはなんであるかの答えだと思います。野田氏、阿部氏、石原氏、橋下氏・・・マスコミへの露出度が高い政治家ですが、品性、品格、正義などとはほど遠い感じがします。
この小さな日本に、この不安定な地震多発国に、54基もの原発を造ってしまった現実が隠蔽や偽りの中で行われて来たことに対する怒りと隠蔽を可能にさせてきた反省を国民一人一人が行い、もう政治家や企業家の勝手にはさせないと言う強い意思をそれぞれが自覚して発揮して行かなければ、更なる過ちや危険にこの国が陥るのは目に見えています。原発問題はまさに民主主義復活の第一歩だと思います。他に矛盾や理不尽に満ちた社会問題が山とあります。誰の身の回りにも小さな理不尽はあると思います。会社、家庭、地域、公共の場などあらゆるところに矛盾や不公平はあって、そのほとんどが無関心や見て見ぬふりでやり過ごすことが習い性のようになっている人も多いのではないでしょうか。たまに立ち止まり、たまには考え、たまには手を差し伸べる努力。世の中の大きな問題を解決するためには一人一人が出来ることを自覚し自分自身に「正しい負荷」をかける事が不可欠ではないかと井戸川町長の言葉に接してあらためて思うのです。