増え続ける核廃棄物と処理費用
2011/12/01 6月から導入された仏アレバ社の浄化装置が9月以降使われなくなっているとの東電の発表。60億もかけた装置がたった3ヶ月で休止とはますます先が思いやられます。休止の理由は装置から出る「スラッジ」と呼ばれる高濃度廃液の扱いが難しいからとのこと。表面の放射線量は「毎時1シーベルト」ですから当然人は近づけず移動も容易ではありません。すでに580立方メートルの高濃度廃棄物が貯留槽内に仮おきされている状態で、最終処分法は決まっておらず危うさいっぱいです。アレバ社が処理を東電に持ちかけているとの事ですが、原発に関しては何もかもが巨額で、積み重なる原発関連経費を追って行くだけで現在まで出されている原発コストがいかに現実を反映していないかが分かります。ここまでの事態が起こっている中、電力労組が「脱原発は困る」と民主議員に組織的な陳情活動を行った「政治活動費」が7億5千万と新聞にありましたが、呆れ果てます。被曝補償、食品など生産者への汚染補償、内部、外部被曝への対策費、広範囲な除染、原発の廃炉にかかる費用、処理方法もないのに増やし続けて来た大量の核廃棄物の処理費。一過性でない放射能にまつわる経費は長く大きく続いて行く事は明らかです。それでも原発を再稼働させるのは現状認知も未来を想像する事もできない、病的な精神構造だとしか思えません。京大などの調査によると福島県の阿武隈川から宮城県を通って海に出るセシウムの総量は1日当たり少なくとも500億ベクレルにのぼると言います。これで川や海の生物が異変を受けないはずはありません。河川や海にも必ずホットスポットのような場所ができていて高濃度に汚染された場所があるはずです。克明な調査ときめ細かな食品検査は不必要な内部被曝を避けるためにも徹底的に行う必要があります。
脱原発へのそれぞれの思いと方法
2011/12/02 福島原発事故で原発の危険性にあらためて気づき、4月に脱原発を表明した城南信用金庫。社会性のあるいろいろな企業や個人が「脱原発」をさまざまな形で表明していますが、金融機関が明確に原発反対を表明したことには驚きがありました。テレビ出演での城南信用金庫理事長の脱原発への思いには一企業として、人間としての責任感がにじみ出ていて、とても爽やかな印象でした。その城南信用金庫が2日、本店など大半の店舗で来年1月以降、東京電力から電力を買うのを止める事が発表されました。天然ガスなどを中心に発電する別の事業者から電気を買うとのことです。取引先などにも「東電の負担が減れば原発なしで電力供給できるようになる」と「脱東電」を呼びかけているとのことで、脱原発へ向けての賢明な方策だとあらためて城南信用金庫の姿勢に感心します。電気は特定規模電気事業者(PPS)から買うとの事ですが、電気料金は従来より5.5%安くなるとも新聞には書かれていました。人道問題としての反対、経済問題としての反対、環境問題としての反対、それぞれの立場、それぞれの考えで個人や企業が明確な「脱原発」への意識を表明して行くこととその持続ができれば原発のないもっといきいきとした社会が実現出来ることは十分に想像出来ますし、それは近い将来に可能だと思います。
すべての人がノーと言わなければ。
2011/12/05 ニューカレドニア、ラグーンの目のさめるような青い海の写真を見て、この素晴らしい地球環境を守る事は人類すべての義務だなとあらためて思います。あれこれ考えながら新聞に目を通すと、東電は4日福島第一原発にたまる高濃度放射能汚染水が漏れ、最大220トンと見積もられる汚染水の一部が海に流出した可能性があると発表・・・などとまたいやな記事。漏れた水のセシウム濃度は1リットル当たり4万5千ベクレルで法規制の濃度基準の約300倍でストロンチウムの濃度は基準の100万倍あるとのこと。事故後8ヶ月以上経っても大小様々なトラブルが連日のように起こっています。事故当初から情報は明らかに小出しで、それでこれだけの惨事が続くのだから当初から今にいたるまでの実態はもっとひどいのではないだろうかとは誰でも思う事です。福島第一原発の所長だった吉田昌郎さんが先日入院した記事がありましたが、本社の命令に逆らって原子炉への海水注入を続けた吉田さんの決断がなければもっと恐ろしい事態が起こっていたに違いありません。人命を守るための犠牲的な行為には頭が下がりますが、それにひきかえいまだに自己弁護と自己保身しかない東電の姿勢には人間性のかけらさえ見当たりません。吉田さんの病気が何なのか発表されませんが、たとえ被曝が原因でないとしても強い責任感と極限の恐怖からくるストレスが体を蝕んだのだと思います。原発にまつわる話はどれをとっても不気味で非人間的な要素が強くて怒りと情けなさがどっとあふれて来ます。今多くの人たちが同じ思いでもう原発は要らないと意思表示していますが、傍観する人、無関心な人もまだ多くいて不安感は拭えません。原発の問題は今を生きるすべての人とすべての子供たちの未来に暗雲をもたらす事は明白な事実ですし、無関係な人など存在しません。国民すべてがノーと言わなければならない問題です。未来ある子供たちの健康、美しい海や山に放射能をまき散らす事が取りかえしのつかない事だとすべての人が認識して正しい決断をしなければならないと思うのです。
報道写真家、福島菊次郎さんの最後の思い
2011/12/07 半世紀使い込んだニコンFを手にする老人。病に冒され体重37キロ、90歳になる福島菊次郎さんのエネルギーは何だろう?朝日新聞に紹介された年老いた報道写真家の記事を読んであらためて考えこみます。人間はその責任感と誇りで限界を超越する事もできるんだと感じさせる福島さんの生き様です。65年前に広島を撮った写真家は福島を「最後の仕事」として選びました。震災前から「原発と原爆は同義語。事故が起これば核戦争に匹敵する被害が出る恐れがある」と警鐘を鳴らしてきた菊次郎さんは9月に福島に入り何度も転びながら惨状を撮影したと言います。原発事故の後、牛を殺処分し仲間を自殺で失った飯館村の酪農家、長谷川健一さんも訪ねました。福島を取材したのは「日本は安全、安心だとうそを重ねて原発をつくり事故を起こした。広島の原爆慰霊碑に『過ちは繰り返しませぬから』と刻みながら朝鮮戦争やベトナム戦争に加担したことと僕の中で重なる。ぜひ取材したいと思った」からだと。61年に被爆者の闘病や貧苦を追った写真集「ピカドン」を出版。自衛隊や兵器産業の内部に入り込み、その実態を雑誌に発表し、暴漢に襲われたり家が不審火で焼ける経験をしても「あったことを隠してはいけない」とより深く取材し「不正を告発する」道を選んだと言う菊次郎さん。今回の福島での取材を「写らなかった戦後4 ヒロシマからフクシマへ」にまとめ、逝きたいと言う90歳の思いは多くの人の心に響くだろうと思います。新聞には福島さんの姿を2年間余り追ったドキュメンタリー映画も来年1月完成するとの記事ものっていました。
宇宙から見た地球はほんとうに美しかった
2011/12/09 「宇宙から見た地球は、青く輝きほんとうに美しかった。その地球の汚染が急速に進みました。私たちの文明、暮らしのあり方を見直したいと思ったのが『農のある暮らし』を決意した1つの動機でした」と語る秋山豊寛さん。TBSでロンドン支局などの外信畑を歩んで来たジャーナリストの秋山さんは1990年にソ連の宇宙船ソユーズに搭乗し初めて宇宙へ行った日本人です。その後1995年にTBSを退社し福島県の自然が美しい阿武隈高地で有機農業を営んでいましたが、原発事故でその全てを奪われ「原発難民」となって群馬県の知人の家に身を寄せています。自然の恵みに満ちた暮らしを突然断ち切られ、夢と生活を破壊した原発。田畑や家畜を汚染された農民の怒り。事故後自殺した有機農業者や酪農家の絶望は想像を絶します。秋山さんは「原発は広大な阿武隈の森を汚染し、地球の大気と海に放射性物質をまき散らしている」。全てを失った今、原発事故への恨みと怒りの気持ちが生きる原動力になっていると言いますが、宇宙から地球の美しさを見て人間としての生き方を考え直し、会社を辞め阿武隈山地の雄大な自然にほれ込んで自給自足の生活に飛び込んだ秋山さんにとって、怒りを通り越した感情が湧くのは当たり前だと思います。原発事故でまき散らされた放射能は絶望で人を死に追いやり、自然を汚染し、多くの人々の未来に癌や後遺症の不安を投げかける最悪の状況を作り出しました。秋山さんは語ります。「原発はなくさなければなりません。そのためには1人1人の政治家を見極めなければなりません。何を言っているかではなく、何をしているかがポイントです」と。原発事故から9ヶ月が経ってこれだけの事態が明るみに出ても東電からは真摯な反省と被災者への償いの姿勢が伝わって来ません。これはどう考えても許しがたい大掛かりなしかも取りかえしのつかない犯罪です。廃炉にする事すら数十年もかかる原発ですが、とにかく一刻も早く全原発を廃炉にするスケジュールだけは国民の総意で実現させたいものです。
東北大震災から9ヶ月
2011/12/11 2011年3月11日ただならぬ大きな揺れに驚きました。どこか遠くでとてつもない地震が起こったと直感してテレビをつけると、とても現実とは思えない津波の光景が映し出されました。大きな船が岸壁をこえ車やコンテナが木の葉のように水面に浮かびます。家屋はあっという間に波に飲み込まれ、真っ黒な水が町と田畑を覆って行く光景はいまだ脳裏から消えません。死者は15,841人、重軽傷者は5,890人、警察に届出があった行方不明者は3,490人。全壊12万1,691戸、半壊19万8,816戸。この数字だけを見ても想像を絶する悲しみですが、肉親を失い住み慣れた家屋を失い土地を失った人々が厳しい現実の中で暮らしを取り戻し、精神的に立ち直るにはどれだけの時間がかかるのだろうと考えてしまいます。しかも追い打ちをかけるような原発事故。自然災害の爪痕は時間の経過とともにたとえわずかでも消えて行きますが、原発事故の爪痕は時間の経過とともに広がり深刻度は増して行きます。9ヶ月経った今も、放射能汚染の情報は小出しにされ、防げる内部被曝さえ手をこまねいている現実があります。将来に渡って若者、特に子供たちがどれだけの被害を受けるのかを想像すれば、打てる手は全部打たなければならないと思うのですが、被曝と病気や後遺症の因果関係を証明する医学的見地がまだ確立されていないのをいいことに、いまだに無責任な言い訳や犯罪的な安全デマを流布する輩もいて、人間としての資質を疑います。3月の震災と事故以来、ヒューマニズムに目覚めた人は多くいて、少しずつその輪は広がりつつありますが、子供たちの未来に向けて、地球環境の未来に向けて、1人1人の意識変化が連鎖していい流れができる事を願うばかりです。
馬鹿馬鹿し過ぎる判断
2011/12/15 以下朝日新聞より引用。「東京電力福島第一原発の事故後、避難基準の健康への影響を判断したのは初めて。細野豪志原発相は会議後、記者団に「20ミリシーベルトで人が住めるようになるということだ」と述べた。野田政権はこれを踏まえ、原発事故による避難区域を縮小する準備に入る。年間20ミリシーベルトを被曝した場合の影響は、「健康リスクは他の発がん要因と比べても低い」と明記。「単純に比較することは必ずしも適切ではない」とことわりながら、「喫煙は(年間)1千〜2千ミリシーベルト、肥満は200〜500ミリシーベルト、野菜不足や受動喫煙は100〜200ミリシーベルトのリスクと同等」などといった目安を例示した。また、一度の被曝より長期間にわたって累積で同じ線量を浴びた方が「発がんリスクはより小さい」との考えを示した」
これを読んで怒りと恥ずかしさで顔が赤くなりました。いくらなんでもこんな馬鹿な見解をまともな人間が言えるのだろうかと、呆れ返りました。煙草がどうで、肥満がどうと言うなら、夜更かしも、飲酒も、チョコレート好きも、アンパン好きもみな同じではありませんか。被曝の恐ろしさはまだ人体に関して未知な部分があると言う事、それよりも誰も好んで被曝したいと思っている人間など皆無と言う事です。本当に頭がどうかしているとしか思えません。当時まだ被曝のリスクが今ほど分からなかったチェルノブイリ事故の後さえ、今の日本政府と比べたらもっと厳しくやっていましたし、現在のウクライナやベラルーシの内部被曝に対する対応を見ても、今の日本の基準は恥ずかしくなるほどお粗末です。本当に国民の命、特に子供たちの未来に対してどう思っているのか馬鹿過ぎる事を国政の責任者がのうのうと喋るところに恐ろしさがあります。
そこまで無責任で非人道的な見解を述べるなら、馬鹿な論拠を与えた学者や、経団連の人間、東電の幹部など揃って原発施設のそばに住めばいいと思います。現実すでに放射能で苦しんでいる人がいっぱいいるではないですか。世界中の多くの科学者が警告を発しているではないですか。どれだけ神経を使っても使いすぎると言う事はないのが被曝に対する心構えです。何故ならチェルノブイリの後も多くの健康被害は認識されていますし、科学が進んだ分、低線量被曝もその危険性が分かりつつある現状です。新聞に書かれている見解から察すれば、外部被曝でばたばた人間が死ぬ現実がなければ、何も察しないと言う事でしょうか。想像力がなさすぎるにもほどがあります。発癌リスクは今明らかになっている被曝リスクのごく一部に過ぎません。遺伝子の損傷を含め、生命にかかわる未知の危険性がどれだけあるか分からないから心ある人間は慎重に、神経質になっているのです。特に被爆国である日本においては被曝が時間軸の長いとても厄介なものだと言うのは今や誰でも分かるだけの経過があります。国民がこれだけ目を醒しているのですから、政府はもっと科学的に人道的にはっきりと現実を見つめ、未来を予測しなくてどうするのですか。すでに多くの人が不必要な被曝を受けて来た経過を考えると、上記のような政府の見解を聞いて怒り心頭に来るのは僕だけではないと思います。
ステルスと被災者
2011/12/16 防衛省が進める航空自衛隊の次期主力戦闘機に採用される見込みのF35Aステルス戦闘機。「1機」100億とも200億とも言われる高額の買い物です。その一方であれだけの物理的被害と計り知れない精神的不安を負った原発事故の被災者への賠償は「一律8万円」18歳以下の子どもと妊婦については40万円と言う事ですが、率直に何かおかしいと感じます。これで今回の事故を招いた原発村の学者や東電の人間そして推進して来た政府や企業関係の人間が通常の給料をもらうとしたならあまりにも理不尽で無茶苦茶です。平時で何もない生活の中でも8万円ぐらいもらって何の足しになるでしょう。この未曾有の非常時にそのような半端な補償しかできないのならステルス代は被災者にまわすべきです。未知の危機に対する国防費より今苦しむ国民を全力で救わなければ国防の意味さえ稀薄です。宮城県が放射能対策費として東電に損害賠償請求する金額も県として1億7千万、市町として2億円。農産物の放射性物質の検査にまつわる費用や汚泥管理費などと言う事ですがその合計「3億7千万」とステルス1機「100億円」の対比はこの時期に聞くと極めてアンバランスな気がします。総工費10兆円と試算されるリニア中央新幹線の計画。東京と大阪間を1時間で結ぶと言いますが、現在の新幹線で十分だと思いますし、そんなお金は今日本が必要としている多くの問題に投入してその後の話でいいはずです。医療、福祉、教育、危機管理、原発の廃炉とエネルギー対策などお金が必要な分野は幾つもあります。そして何よりもまず現状の原発被害救済と内部被害拡大阻止のためにもっと大きな予算を投入すべきです。国と東電はまだ国民に対してまだその責務のほんの一部しか果たしていません。まだまだこれからです。
収束ではなく始まり
2011/12/17-2 全貌はまだはっきりしないけれど原発施設近隣の人はもとより多くの国民が被曝し、被曝の累積は外部被曝、内部被曝ともに進行中です。愛情込めて培って来た土地と作物を汚染され、大切な家畜を失って怒りと絶望の中で自ら命を絶った農家や畜産家の無念。未だ多くの方が避難生活を強いられ、政府や東電の補償はとても十分とは言えず、原発現場を命がけで守っている作業員の方々も被曝とストレスで忸怩たる思いの中、日本国中の子どもを思う大人たちの悪戦苦闘が続く中、何が収束なんだろうと思います。東電と野田首相の頭が終息しているだけではないかと思わざる得ませんが、炉心に近づく事さえできない状況で安易な判断をするのは「今現実に苦しんでいる人たち」の心を二重に苦しめる事になる事がどうして分からないのでしょうか。過去において情報を隠蔽し時間稼ぎをして多くの過ちをうやむやに葬ってきた実績が数々あっても、今回も同じように処理できると思っているとしたら日本国民を余りにもなめすぎています。多くの国民はもう政府や東電の発表を頭ごなしに信じるなどあり得ないですし、未来に渡って放射能被害に対する政府や東電の対応を多くの国民が監視して行くでしょう。すでに多く被曝してしまった人々、特に子どもや幼児の今後の健康問題。これから長く検査体制をとらなければならない食品の問題、海の汚染の問題。陸上の除染の問題もそんな簡単でない事は誰にでも分かります。そして膨大な汚染土や核廃棄物のやり場の問題。廃炉まで30年〜40年と言う長い道のり。原発事故の被害は収束ではなく刻一刻拡大していますし、まさに始まったばかりだと言わなければなりません。心が冷温停止してどうするのですか。
22年前の警鐘、映画「あしたが消える」
2011/12/19 映画「あしたが消える-どうして原発?」を見て来ました。今から22年前につくられた映画です。チェルノブイリの原発事故から3年後の1989年に福島第一原発の関係者を取材したドキュメンタリー映画です。原発で技師として長年働いていた父親が52歳で急死し、その死因に疑問を持った娘さんの心を通して語りかける部分と、被曝しながら作業にあたる労働者、医師、設計者の証言をもとにつくられた映画です。見ていて、それが22年前の事だとはどうしても思えないほど今の現実と重なるのです。この映画が原発がどれだけ非人間的で危険なものかをまさに予言のように言っているのです。この映画を観て今の現実を見ると、今回の福島原発の事故は当然人災ではありますが、ある種の危険を分かっていてやって来た国や東電の犯罪だとあらためて思います。取りかえしのつかない暴挙だとしか言えません。お父さんを亡くした葛西真紀子さんがやるせない思いで朝日新聞に投稿した記事からつくられたと言ってもいいようなこの映画が訴え検証しているのはまさに今回の福島原発の事故を防ぐためのものです。にも関わらずこの映画は地域のホールなどで細々と上映されて来ただけでほとんどの人は見る機会もなく今日に至っているのです。僕が見たのも生駒市の市民集会での上映です。22年前から今日までこの映画がテレビ放送され大きな映画館で上映されていればと思いますが、現実は圧力で封印され、映画とは逆の嘘で固められたプロパガンダが行われて来たのです。取りかえしのつかない事故が起こってしまった後ですが、いくら何でも全ての人がもう目が覚めないとあまりにも悲惨です。原発は福島だけでなく全国にあるのですから。そして原発は地震や津波によらなくとも極めて危険な要素をはらむ事をあらためて1人1人が強く認識しないといけないと思うのです。
大きな変化
2011/12/21 あれだけの事故があって原発の脆弱さと虚構が次々と明らかになっても、事故後のテレビでは無責任な学者や専門家と名のる人が原発の必要性を唱えたり放射能に対する曖昧な見解で往生際の悪いプロパガンダを続けていた時期があります。当時のテレビでの発言を今もう一度流して欲しいものです。いくらお金をもらったのか知りませんが、真顔で馬鹿な事を言っていた人たちは恥ずかしさで街を歩けないでしょう。その後多くの心ある知識人や著名人が原発に対する正しい見解を表明するようになって、やっと国民全体にも変化が現れて来たように感じます。6月頃にいろいろな業種の人や年齢の人と原発について話しても、関心の無い人や間違った知識をもとに原発は必要だと言うような人もまだ多くいてできる限りの説明をして来ました。数十年に渡る長い時間と巨額のお金をかけて行われて来た原発の安全神話と必要性を信じ込ませるためのプロパガンダの結果ですからある種致し方ありません。それでももう隠しようもごまかしようもないところまで来て、多くの人が真実に気づき「これは今までの政治的悪」のみならず「全ての人間の命の問題」だと認識を新たにし、1人1人が個人の考えとして「原発はダメだ」と表明する風潮が出来つつあります。仕事や年齢の垣根を超えて「何としても原発を止めましょう」があいさつ代わりになればいいと思います。まだまだ偏狭な人、自分の損得しか考えない人もいて、原発なんか自分には関係ないと言う人もいるけれど、それだけエゴイスティックに生きるなら、自分を守るために放射能汚染にもっと神経質にならなくてはおかしいです。原発の危険性、放射能の影響から逃れられる人間などいないのですから。
クリスマスの夜にあらためて思う事
2011/12/24 大気を汚染し、大地を汚染し、海洋を汚染し、命あるもの全てを浸蝕し、人間の心をも汚染するのが原発です。現在の世界は行き過ぎた物質主義故の歪みがどんどん大きくなってもともと人類全体に行き渡るべき科学進歩の恩恵が逆に争いや貧困や格差を生むと言う皮肉な結果になっています。物質的貧困は十分に脱し得るだけの経済社会があり、受けるべき教育環境がこれだけ整っているにも関わらず、現代日本が本当にゆたかなのかと考え込んでしまう状況があります。競争社会、合理社会・・・経済を最優先すればそうなってしまうのですが、あまりにも経済に偏りすぎて、人間として大切なもう1つの要素である精神性を見失ってしまっているのではないかと思えるのです。美しい環境を大切にする心、弱者をいたわる心、他者に対する配慮や愛が稀薄になり過ぎているのではないかと思われるのです。今回の原発事故で原発と言うシステムそのものの決して拭えない不完全さと取りかえしのつかない放射能汚染と言う事実を認識した人は多くいらっしゃると思いますが、それとともに原発を推進して来た背景の目に余る非人間性に気づいて怒りとやるせなさに1人の人間としての思いを新たにした人たちも多いのではないでしょうか。原発は経済的に見ても極めて不経済なものですが、それがこれだけの犠牲と未来に渡っての不安と被害をまき散らしているにも関わらず、未だ稼働させようと言う人たちがいるのは目先の己だけの利権か核弾頭のためにプルトニウムを作り出すと言う悪魔的な動機以外考えられません。原発はあらゆる角度から見て絶対悪です。原発がなくとも電力が十分足りている日本で、近い将来自然エネルギーの活用も間違いなくできる日本で、これだけ地震が多発する日本で、原発はすぐにでも廃止、廃炉にしなくてはなりません。廃炉にするだけでも数十年。すでに出されてしまった核廃棄物をどう安全に処理するかに全力を投じるだけでも大変な事です。
原発廃炉、突き進む・・・
2011/12/26 朝日新聞の見出しに喜んで、よく見たら「原発廃炉、突き進む欧州」とあって日本の事ではありません。記事を読んでみるとバルト海沿岸にあるドイツのグライフスバルト原発の廃炉作業が大詰めを迎え、新エネルギーの拠点にしようとしているとのこと。廃炉作業は1995年に始まり2009年にはタービン建屋の器機を撤去し海上風力発電のパイプ製造工場に再生、原発資材の工場はバイオディーゼル燃料を生産する会社に様変わりし、原発からの送電線を転用し天然ガス発電所を造る計画もあるとか。さらに原子炉を冷やした水の排水口は港に転化して新たに入居した企業の海の玄関口になっているそうです。世界中から原発の跡地利用の方策を考える関連業者が訪れ今年は1万3千人が視察。この中に日本の政府や企業関係者がいたのかどうか分かりませんが、いてほしいものです。そしてスペインの放射性廃棄物管理公社(Enresa) は国内最古のホセカブレラ原発の廃炉を閉鎖から10年で完了さすと発表し、解体を急ぐ理由は「施設が劣化することと、原発内を知る技術者がいなくなるため」とのことですが、日本は真剣に耳を傾けねばならない話です。日本国内の原発50基の3割が10年以内に40年超となり廃炉時代を迎えるにあたっての準備不足は明らかです。ドイツの元原発作業員たちは廃炉のために再雇用され、原発を知る立場から廃炉の手順や除染、放射線測定システムを自分たちでつくったといいます。本来ならこれだけの事故が起こり、この地震多発国に54基もの原発をつくってしまった日本が先陣を切らねばならない話です。
未曾有のできごとがあって
2011/12/28 大きな地震があって、信じられないような津波があって、その上に防げたかも知れなかった人災、原発事故があって、やるせない思いで年の瀬を向かえている人がどれだけいるのだろうと考えてしまいます。警察庁がまとめた東日本大震災(余震を含む)の死者は29日現在、1万5844人。警察に届け出があった行方不明者は3451人となっていますが、放射能汚染で土地を奪われてしまった人、丹精込めて育てた家畜や作物を見捨てなければならなかった人、壁に「原発さえなかったら」と書いて自殺した人も報道されました。何とも非人間的な出来事です。亡くなられた人たちにはそれぞれ家族がいて、友人がいて、知人がいて悲しみの総数は計り知れません。放射能汚染で隔離された立ち入り禁止区域をさまよう犬や猫や牛たちの姿さえ放心して見てしまうほどの悲惨な状況がありました。現在も自らの被曝を覚悟して餌を与え続けている人もいると聞きましたが、目に見えないけれどこれだけ生き物と環境を痛めつけるのが放射能です。いまだに安全デマを繰り返す人も多くいますが、本当に彼らに言いたいです。「安全だと言うなら放置されてさまよう動物達に混じってあなたたちも暮らしてみろと」心を無くすのも、想像力を失うのもいいかげんにしなければなりません。心ない人たちとは反対に人間としての責任感と科学者として、人間としての良心から原発の怖さと原発の不要性を訴え続けている人たちもいます。同じ人間であってどうしてこれだけ差異があるのだろうかと悩んでしまいます。それでも2011年、あらゆる生き方、立場を超えてヒューマニズムと言う事をあらためて見つめ直した人も多くいらっしゃると思います。日本が経済性ばかりを優先して見落としてきたもの、見失ってしまったもの、置き忘れて来たもの、その1つ1つが人間が人間らしく生きるための貴重なものばかりではなかったかと思うのです。