もっと知るべきだった
2011/08/01 女優の吉永小百合さんが広島での原爆詩の朗読会のあいさつで「原子力の平和利用」と言う言葉を今まであいまいに受け止めてしまっていた。「もんじゅ」が恐ろしい事は聞き、廃炉に向けた運動はしていたが、普通の原子力についてもっともっと知っておくべきだったとして「世の中から核兵器が無くなってほしい、そして原子力発電所が無くなってほしい」と述べたそうです。(8月1日朝日新聞朝刊)「もっと知るべきだった」と言う言葉は多くの人の気持ちを代弁しているのではないでしょうか。地震大国日本で54基もの原発をつくってしまった現実は変えようもないけれど「原発は核兵器と同じ危険性を秘めている。原発はなくすしかないと認識すべきだ」と言った第五福竜丸事件の際の乗組員だった大石又七さんの思いを未来に向けて国民全員が持つべき時が今だと思うのです。
想像力の欠如と破壊
2011/08/03 1997年の4月に断行された諫早湾の締め切り。海外でも反環境的蛮行だと非難された干拓事業です。当時テレビ、新聞でもかなり問題にはなったのですが日本の世論は蛮行を阻止する事は出来ませんでした。利権にまみれた推進派の政治家、役人、企業、御用学者の言い分はひどいものでちょっと想像力のある人間なら「それは嘘だろう」と見破れるものでしたが、強欲と厚顔の前に有明の美しい自然と命の多くが奪われました。あのギロチンのような水門が落とされて行く光景には多くの人が眉をひそめたはずです。その後の有明海異変はあまり報道されていませんが年々ひどくなると言う現状です。一度*検証「諫早湾干拓事業」と言うホームページをご覧下さい。
今回の原発事故後に報道された幾つもの事実、そして現在進行形の深刻な放射能汚染問題に対して今だ事実を直視せず「電力不足」だとか「原発の安全性さえ確保できれば」と言う学者や評論家が後を絶ちませんが、彼らの頭の構造はどうなっているのでしょう。無知なのか頭が悪いのか利権構造に組み込まれているのか解りませんが、どちらにせよあまりにも非人道的な感覚です。友人の1人が怒って「そんなに原発を守りたいなら福島原発で文字通り命がけで作業する人々に混じって作業しろ」と言った言葉はもっともです。自然環境を破壊し人の命のみならずあらゆる命を危険におとしめるような行為はどんな理由があっても許されるものではありません。それ以上の優先順位はないからです。
北海道から沖縄まで、日本列島はほんとうに変化に富み美しい環境です。山があり平野があり幾多の川の流れがあり、そして四方に海が広がっています。自然エネルギーを利用できる条件は揃っています。そして優秀な日本の科学力、技術力があります。未だ自然エネルギーの実用化は所詮無理などと言う想像力の欠如した人間がいますが、そんな想像力の欠落した人間が諫早湾を始めとする環境破壊とこの地震多発国日本に原発を作り続けて来たのです。そしてこの未曾有の原発事故の現実を目の当たりにしてまだ原発を擁護し、自然エネルギーへのシフトを妨害するような行為言動には呆れ果てます。そこにある事実を直視し、想像力を働かせば未来に向けて何をしなければならないかは明らかな事です。
広島に原爆投下から66年
2011/08/06 2度とあってはならない核兵器の使用。核の恐ろしさを目の当たりにした日本人の誰もが持ち続ける願いです。今年の広島平和記念公園に集まった5万人の人々は核兵器廃絶と同時に脱原発への思いを強くもって平和記念式に臨んだのではないでしょうか。原爆の悲惨さと被爆の時を超えた被害に今なお苦しみ続けている人たちにとって福島原発の事故は「放射能の恐怖を知った広島、長崎の教訓が生かされていない」との憤りがわき起こるのは当然です。
原爆は兵器で原発は核の平和利用だと言う解釈のもとに科学技術を信用して来た側面は多くの日本人にあると思いますが、どちらも核分裂のエネルギーを使うと言う面では同じもので放射能の脅威に関しても同じものです。被曝に関しては広島、長崎、チェルノブイリなどの追跡調査でこれ以下なら安全だと言う量がないのも分かっている事実です。国会で東大の児玉龍彦教授が言った「福島からは広島型原爆20個分(ウラン換算)の放射性物質が飛散し、残存量もはるかに多く、影響の広さ長さは計り知れない」との説明を聞くまでもなくその深刻さはテレビや新聞の抑え気味の報道によっても分かるはずです。
日本が地震国だと言うのも脱原発への大きな要素ですが「原発は制御出来ない」と言う事実と「核と人類は共存出来ない」と言う事実、そしてほんとうに先進的な科学とは自然エネルギーをいかに活用し、平和と地球環境そのものを守る事にあると言う事を強く認識しないと広島、長崎の決してあってはならない人類の体験を生かす事にはならないと思うのです。
知らない危険
2011/08/09 ジャマイカ、ハイチなどカリブ海諸国でつくるカリブ共同体は英仏から日本に返却される原発の高レベル廃棄物を積んだ船のカリブ海航行を止めるよう日英仏政府に要請しました。原発の使用済燃料の再処理を英仏に委託して来た日本に向けて1995年から高レベル放射性廃棄物(ガラス固化体)が海上輸送で返還されて来たことに対する反応です。福島原発事故を受けての不安や反発です。パナマ運河を通って輸送されている高レベル廃棄物ですが、観光など美しい自然環境を誇っているパナマ諸国にとっては万が一の事故やテロ攻撃などへの不安は看過出来ないものだと思います。
去年の11月にフランスの再処理施設からドイツの貯蔵施設に向かう放射性廃棄物の輸送列車の行く手を、原発反対派の数千人が座り込み運行を阻止した事件がありましたが、高レベルの放射性廃棄物がどこをどのようにして運ばれているのかを考えると不安がよぎります。放射性廃棄物の処理方法も見つからない中、原発が動く限り廃棄物は増え続けます。日本に戻される核廃棄物と日本で増え続ける「高レベル廃棄物」と「原発のゴミ」。低レベル廃棄物であるゴミは1969年頃までは廃棄物業者がドラム缶に入った廃棄物を沖合に捨てていたそうですが、そんな無茶苦茶な行為も今は出来なくなり、ドラム缶はすでに青森の六ヶ所村に数十万本もたまっているそうで、先が思いやられます。日常の生活ゴミにさえ処理に困っている現実なのですから。
処理方法さえ見つからない「高レベル廃棄物」に関しては想像するだけで恐ろしいものです。原発が動く限りこのどうしようもない現実は確実に悪くなります。行き場を失った放射性廃棄物が日本のそこかしこにある世界など誰ものぞまないはずです。ある程度危険は想像出来ても「明らかな危険」は事実を知らされていない以上感知出来ないところもあります。この未来へと長くつづく放射能の蓄積は国民1人1人が真実を知る努力を続けて意識改革しないと未来の子供たちがあまりにも危険です。
震災から5ヶ月
2011/08/11 5ヶ月前、大きな揺れで飛び起きてあわててテレビをつけたら東北地方でとてつもない大地震が起こったと知り後は食い入るようにニュースを見つづけていました。近畿地方がこれだけ揺れるのだから現地の衝撃はかなりだと想像はつきましたがその後の津波の映像を見て言葉を失いました。車や大きな船までもが軽々と波に運ばれ、黒い波が家屋と田畠を次々と飲み込んで行く様は今も脳裏から消えません。その中に多くの人が飲み込まれ命を奪われました。
死者、不明の方が2万人以上の計り知れない悲劇をもたらした東日本大震災。尽きない悲しみと不安の中お盆を向かえた福島県内の墓地では放射線の線量計を手にして墓参りする人の姿もあったそうですが、自然災害に重なって起こった原発事故の深刻さはあまりにも大き過ぎる不幸です。今月中旬からは福島県民200万人の総被爆量を推計する作業が本格化するとの事ですが予備調査が始まったのが6月下旬と遅れたため半減期の短い放射性ヨウ素はすでに消え半減期30年のセシウム137なども体から排出された分もある事から事故当時どれくらい被曝したのかは判じきれないというのが実態のようで本格的調査と言っても歯がゆいものです。
さらに深刻な問題ですが、厚労省によると福島第一原発の復旧に当たった作業員は7月末で1万7000人、下請け作業員は入れ替わりが激しく「最終的に数万人に膨らむだろう」との予測。調査によると内部被曝だけで100ミリシーベルトを超したのは12人との事ですが、連絡すら取れない作業員が150人もいる曖昧な管理で作業員の方々の被曝量はほんとうに大丈夫なのかと疑いたくもなります。テレビ新聞に登場する無責任な学者や関係者が安全を口にするのを聞くと「そんなに安全だと言うのならあなたたちが先頭に立って原発の復旧作業に当たるべきだ」と言いたくなります。生活に追い込まれてお金のために被曝を覚悟で作業する人たちの事を思うとやはり原発は非人道的なものです。
原子力行政に関する小出裕章氏の真摯で分かりやすい言葉
2011/08/16 原発関連のマスコミ報道が少なくなってはいますが、この先長くつづく問題だからであればいいのですが、権力側の圧力がかかっている雰囲気も感じられて心配です。放射能汚染の問題は深刻で原発施設で被曝覚悟で作業しておられる方々には何と言っていいかも分かりませんが、あらゆる事実が知らされない限り社会的被害は増大するばかりです。ネットで闇の多い原子力行政に対して2011年5月23日参議院行政監視委員会における小出裕章氏の発言を文字起こししてくれたブログを見つけたので紹介したいと思います。ブログ「ざまあみやがれい!」http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65737210.html
小出氏の発言は非常に分かりやすくヒューマニズムに満ちたものです。
一部を引用します。「今日はこれまで原子力をすすめてきた行政に一言いいたいと思ってうかがいました。私は原子力に夢を持って原子核工学科に入った人間です。なぜそうなったかというと原子力こそ未来のエネルギー源だと思ったからです。原子力は無尽蔵にあるが、石炭や石油は枯渇してしまうから将来は原子力だと信じて入ったのです。」「しかし、入ってみて分かったのは原子力は大変貧弱なエネルギーだと気が付きました。今このスライドに再生不能エネルギーというものの量を順番にあげていこうとおもいます。」・・・・「日本はもんじゅという高速増殖炉の原型炉だけでも、既に1兆円以上のカネを捨ててしまい、ました。現在の裁判制度で行くと1億円の詐欺をすると1年実刑になるんだそうです。では1兆円の詐欺をしたら何年の実刑を喰らわなければいけない、でしょうか。1万年、です。原子力委員会、原子力安全委員会、あるいは経産省、通産省、等々、行政に関わった人のなかでもんじゅに責任のある人はいったいなんにんいるのか、私はよく知りません。でも仮に100人だとすれば一人ひとり100年間実刑を処さなければいけないという、それほどのことをやってきて、結局誰も未だに何の責任もとらないままいるという、そういう事になっている、わけです。」
長きに渡って原発の危険性、理不尽性を説いて来た小出氏の発言は科学者として、人間としての責任感に満ちています。テレビ新聞で大きく取り上げてくれれば、多くの国民がこの問題に関して理解しやすいと思うのですが。
自然が汚されると言う事
2011/08/17 自然が汚れを清めると言う神道の自然観や仏教の不変常住のものはないと言う無常観。放射性物質が大地や海にまき散らされた今回の原発事故は日本に定着してきた宗教観をも打ち砕くような出来事です。放射性物質の1つであるプルトニウム239や244は無常ではなく半減期が数万年数千万年もの長きに渡って放射線を出し続け、人間の寿命や文明の長さを考えれば次元の違う恐怖感に襲われます。このようなものは人間が扱っては行けないと思うのは宗教家のみならず、誰でも思う事です。今月12日に福島県の農民や漁民が東京の東電本店や銀座でデモを行ったと言う記事を見ましたが、震災後5ヶ月経った今事態は改善どころか深刻さをましているようです。
土壌の除染、収穫期の米の放射能検査、肉牛の前頭検査などを国が責任を持って行うのは当たり前の事ですし、東電が賠償金を速やかに支払うのも当たり前の事なのに、それが行われないからデモしなくてはならないと言うのはあんまりです。福島に残る人たち、避難した人たち、どちらも現状の不安や苦痛は計り知れないものがあると思います。しかも将来においてどれだけの健康被害が出るかも分からないような大惨事を起こして原発を推進して来た東電を筆頭とする関係者の反省や懺悔の気持ちは余りにも薄いような気がします。ガンジーの戒めの言葉「理念なき政治家」「人格なき学識」「道徳なき商業」はそのまま原子力村を構成して来た、政治家と学者、電力会社に当てはまるものですが、こんなにぴたりと当てはまっていいものかと考えてしまいます。
隠蔽してすむ問題ではなく
2011/08/20 島根県は19日福島第1原発事故による福島県の計画的避難区域と緊急時避難準備区域から5、6月に購入した牛の堆肥(たいひ)から、最高で暫定許容値(1キロ当たり400ベクレル)を超す2700ベクレルの放射性セシウムを検出したと発表した。農林水産省は今月11日、島根県にこれらの牛の大半について移動と出荷を認める通知をしたが、県が念のため独自調査していた。(毎日新聞)この記事を読んだだけでもさまざまな食品の放射性物質の検知と流通判断は安全と呼べる状態ではない事が解ります。
近年問題が拡大しつつあった食品添加物や農薬の問題に加えて今回の放射性物質の拡散は消費者にとって「どうしようもないあきらめ」に近い感情をもたらしつつあるようで、それはスーパーなどで買い物をすれば誰でも同じ思いになるはずです。「健康に問題ありません」とか「基準値以下だから大丈夫です」とかの無責任な政府発表や御用学者の意見をまともに取る人は少ないとは思う現状ですが、マスコミなどがこれだけ事実報道に消極的になれば今回のような事故でもっとも大事だと思われる「国民の監視の目」が薄れる事が心配です。
多くの被爆者を出し、海や土地を汚染し続ける原発事故。将来に渡ってどれだけの被害が出るか予測も出来ないような未曾有の事故は明らかに防げた部分が多くあってその意味では原子力村と呼ばれる人たち共同の犯罪だと言えるのではないでしょうか。犯罪なら処罰されなければおかしいのですが、このような現実の事態を無視するかのような安全発言が出るのは一体どんな神経なのか、もともとそんな神経だからこのような事態を招いたと言う方が当たっているのでしょうが、人間性の喪失と言うのは恐ろしいものです。
5年後、20年後に多くの健康被害が出る事は分かっていて今に目をそらせばその被害は間違いなく拡大する事も分かっています。その時が来て、今マスコミなどで無責任な安全発言を繰り返している人間はまたこう言うでしょう。「これだけの被害者が出るとは想定外だった」想定も何も正しい心も知識も想像力も何もないのですから。そもそも電力会社が巨額の広告費を使ってマスコミを操作して来た歴史は長いですが、それでもここまで深刻な事故の中でまたしてもマスコミを操作して原発の存続をはかろうとする体質はまさに闇と言うか病的な気さえします。
大口スポンサーだからと言って真実報道を躊躇するテレビ局の姿勢は国民に対する裏切りですし、今回の原発事故の問題は隠蔽してすむようなものではありません。数少ない心ある学識者やジャーナリストの情報から国民は1人1人知識を得て自分の判断で行動せざる得ないとしたらそれは一体どんな国なのでしょう。
ノンフィクション「原発死」の復刊
2011/08/26 富山県の地方紙記者によるノンフィクション「原発死」が30年ぶりに復刊されたと新聞のコラムに出ていました。運転を始めて間もない頃の原子力発電所に勤めていた1人息子の勝信さんが原発作業で被爆して31才の若さで亡くなった悲しみと怒りから書かれた本で「原発の安全神話」がいかにいい加減なものであるかに強い警鐘を鳴らしています。
亡くなった勝信さんからの手紙に「下請けの労働者は最前線で、原子炉の心部で作業をする。安全教育といっても僕らと違って1週間ぐらいちょっと受け、すぐ現場に出るのだから、もっと気をつけないと汚染される危険が多分にあります」北陸電力の社員で下請けの作業員を指導する立場にいた勝信さんが自ら被爆死するほど危険な現場で見て感じた事ですから説得力があります。79年に初版が出され、チェルノブイリ原発事故のあった86年に増刷されその後絶版になったこの本が今蘇るのは必然ですが、「原発死」の序文を執筆依頼した井伏鱒二さんと筆者、松本直治さんとの書簡の1つに「貴稿、うまく纏めてあると思ひました。
反響が行き渡ればよいのですが。あらためてご子息の冥福を祈ります」井伏鱒二の望み通り反響が行き渡って原発行政や電力会社の姿勢が少しでも変わっていたら今回の福島原発事故へつづく道は変わったであろうことは間違いないと思います。原発ありきの時代から原発の危険性を検証し警鐘を鳴らして来た心ある原発関係者と学者。嫌がらせや脅迫にめげず、原発反対を訴え続けて来た地元の人々。多くのそのような人々がいて今もこの実態ですから、もしも彼らがいなかったらと考えると震撼とするばかりです。
社会悪と絶対悪
2011/08/28 世の中には社会悪が蔓延しています。よくもまあこれだけと言うぐらいの悪が次から次へと表面に出ては埋没します。水面下にどれだけの悪が巣くっているのか想像するだけで気分が悪くなりますが、人権を利用した悪、弱者につけ込んだ悪、権力を傘に着た悪、無知に付け込んだ悪、およそ民主主義や自由主義とはかけ離れたさまざまな悪が闊歩して人々を苦しめています。
かって悪に対して一端の役割を担って来た宗教や芸術もその影響力を失い、未来ある若者の世界さえ厭世観、諦観、現実逃避的なバーチャル世界への傾倒が進んでいるようにも見える世の中です。若者らしい純粋な気持ちが「どうせ何をやっても無駄だ」と言うくすんだ重圧に負けてある種の思考停止状態に追い込まれている部分は確かにあると思います。そう言う流れを作ってしまった社会が、大人が悪いのは確かですがそれでもそれを跳ね返して変革して行くのも若者の魅力だし値打ちだとも思います。
人間的な哲学や道徳感のない金権社会がもたらしたもの、一言でいえばエゴイズムですが、つまるところそれは自身に跳ね返って来て面白くもおかしくもない魅力のない人生に繋がるだけです。混沌とした時代、混迷した社会、こんな時代だからこそそれぞれの「小さな哲学」を見つける事はとても重要ではないかと思うのです。そして今起こっている原発事故の背景、それは明らかに巨大な社会悪がもたらしたものですが、それが他の悪と一緒に出来ないのは放射能汚染の永続性とこれ以上放置してまた同じ事が起これば、生命そのものが根本的に存在出来なくなる危険性を帯びた究極の問題だからです。一過性でもなく再発を防げるものではない問題。これからの人生「それぞれの小さな哲学の中に原子力の問題」だけは誰もが含めなくてはいけないと思うのです。
鳩山、菅、野田、民主党代表選
2011/08/29 この非常時になぜ菅氏を降ろさなければならないのか、いまだによく分かりませんが野田氏が新代表になりました。一国の総理大臣がこれだけころころ変わって大丈夫なのか問題山積の重席を一年やそこらで果たせるのだろうかと単純に思ってしまいます。とにかく被災地の人々の救済といまだ全容が把握出来ない原発事故と放射能汚染のきちっとした対策と方法をまず確立してほしいものです。
代表選記事の横に「経済産業省原子力安全・保安院は26日、東京電力福島第一原子力発電所事故と、広島に投下された原子爆弾で大気中に放出された放射性物質の種類別の量をまとめた資料を公表した。単純計算すると、原発事故の放出量はセシウム137が原爆の168.5倍、ヨウ素131が2.5倍にあたる。この他ストロンチウム90は140テラベクレルで広島原爆の2.4個分としている。ストロンチウムは人体に入ると骨に蓄積される。
2000年に国連科学委員会がまとめた広島原爆の試算値を放射性物質ごとに一覧にした。半減期が約30年と長いセシウム137で比べると、原発事故が1万5千テラベクレル(テラは1兆)、原爆が89テラベクレル。放射能汚染がそれだけ長期化する可能性を示している」とあります。
原発関連メモランダム02/2011年9月から
しのいだ「節電の夏」ではなくもともと過分にある電力
2011/09/01 しのいだ「節電の夏」と言う記事が新聞に出ていました。原発への危険意識が高まる中、テレビ新聞のメディアを利用して電力不足の不安をかきたて暗に原子力発電の必要性を唱えて来た電力会社。放射能の安全デマを平気で宣伝する御用学者と同じく根拠のない電力不足をあおるマスコミには「もういいかげんにしろ」と言う思いです。人道的な学者やジャーナリストが地道な努力で真実を伝え続けていなければ、原発利権集団が過去にやりつづけて来た「やらせ報道」にまたしてもだまされてしまうかも知れません。今回の事故は多くの心ある人々の意識を目覚めさせました。欧米に暮らす日本人が海外の意識や情報を流したり、小さなメディアや出版社が表に出ない情報を開示してくれたおかげで、テレビ新聞しか見ない人々にもある程度の真実と危機感は伝わっている気がします。欲得だけの原発関係者が起こした福島原発の現場では何の罪もない作業員の方達が毎日被曝しながら作業を続けている現状。30日の新聞にも「福島第一原発の作業員3人が計画外のベータ被曝をした」との記事があり、隠蔽体質の強い東電の発表ですから実際はもっと悲惨な事が起こっているのではないかと疑ってしまうのは致し方ありません。とにかくあらゆる断面をどう切り取っても科学的にも人道的にも経済的にも認められる要素が1つもない原発はとにかく全廃するしかありません。
もう戻れない、過去と現実と未来をも奪った責任
2011/09/02 朝日新聞に福島第一原発の3キロ圏内に自宅がある住民が1日始めて一時帰宅したとあります。同行した記者によれば20キロ圏内の警戒区域内は「コンビニエンスストアには商品が並び、ラーメン店のカウンターに割りばしやしょうゆ差しが置かれたまま。廃虚ではないのに人がいない異様さが原子力災害の恐ろしさを物語る」とありましたが、住民の方々の無念が身にしみます。2時間の一時帰宅の中で何人もの人が「もう戻れないでしょう」と口にしたそうですが、家が残っているから帰れると思っている人もいる中「なんで国も県も町も、もっと早く(住めない)と言わねえんだ」「こんな放射能じゃ無理だ」と言った住民の言葉が重いです。明らかに予測出来る事があるのに曖昧にして時間稼ぎをすれば実際の放射能被害も精神的ダメージも深くなるばかりです。原発事故の責任は国と東電と原発を推進して来た関係者全員にあります。被害は想像を絶するものですが、被害者を補償すべき責任がある組織、人間も五万といます。故郷を奪った罪、高濃度の放射能をまき散らしてしまった罪、せめて早急に(住めない)事実を公表し、関係者は全ての私財をなげうって、全面的救済に向かわなければ、人間ではありません。2時間あまりで同行した記者が浴びた線量は84マイクロシーベルトとありました。ドイツのTV局ZDFの取材で明らかになりましたが、市民放射能測定所の検査では原発から60キロ離れた伊達市のシイタケから7000ベクレルのセシウムが検出され検査技師が「これはもはや食べ物ではなく放射性廃棄物です」と答えました。行政はなぜきちんとした調査をしないのか、何故子供たちを避難させないのか、海外メディアに「これはもう文明国のする事ではない」と非難されている事実を国民全員が自覚しなければなりません。
楽観出来る要素はどこにもなくて
2011/09/08 福島第一原発から30キロ離れた浪江町赤宇木地区の住民の被爆量が事故から2ヶ月間に50ミリシーベルト被曝し避難後を含めた年間被爆量は最大68ミリシーベルトにのぼると推計される。(弘前大学などの研究、9月8日の朝日朝刊)一般の人が人工的に浴びる放射線量の上限は年間1ミリシーベルト、原発作業員の上限が50ミリシーベルト(ドイツは20ミリシーベルト)などを考えると極めて危険な数値です。浪江町のような高い数値の場所は他にもあるでしょうし、外部被曝に加えて粉塵や食物などからの内部被曝がこれに加算されますから、「周囲何キロ」ではなく決めの細かい調査と総合的判断で危険な区域からはせめて子供たちだけは全員避難させるだけの国策は早急に取るべきです。東電が賠償支援機構に24億円を出資するとの話がありますが、額が少な過ぎる事と行動が遅すぎます。明らかな「人災」である原発事故当事者の責任感の希薄さには呆れ果てますが、そんな体質が直らない限り被害は増え続け、新たなる事故がまた起こります。除染作業が各地で行われていますが、行き場のない汚染土砂を東電本社ビルの中にでも押し込みたい衝動に駆られます。いまだ安全を繰り返している御用学者や政治家、経団連の連中の家の庭に除染で行き場のない土砂を積み上げれば彼らも少しは目が覚めるかも知れませんが、加害者であるに関わらず被害者の苦しみを感じもせずのうのうと生きている無神経な人間。原発問題は原発の危険性とともに、そのような無神経な人間の危険性も同時に問われなければなりません。
何を信じればいいのか、でもとにかく真実を知る努力はつづけよう
2011/09/09 福島第一原発から海に放出された放射能の総量は3月21日から4月30日の間で1.5京ベクレル(1京は兆の1万倍)を超えるとの試算が日本原子力研究開発機構などがまとめた。東電発表の「3倍」である。陸上と同じように海にも大気からの降下分があるのは誰が考えても分かることですが、東電はこれを加えず、さらに汚染水の流出分も低く見積もられていて、相変わらずの体質です。それにしても陸や海をこれだけ汚染した責任は取りようもないほど大きなものですが、事故から半年もたった今でさえ反省の色が見えない連中が多くいて、エゴイズムの極地が思考停止をもたらすと言う証拠ではないかと思うぐらいです。停止すべきは「原発」であって人間の思考が停止してはどうにもなりません。長期にわたって既得権益にまみれる中で人間があらねばならない姿を完全に見失った心理構造は極めて偏狭で強固なものだとあらためて思いますが、何としてもそのような人間を排除しないと結果苦しむのは一般国民です。今回露呈した原発をめぐるさまざまな問題は明らかに悪で、道義的責任は当然の事、推進に関わって来た主たる関係者は刑事告訴されるべきです。福島の人々のやるせない怒りと全国のこころある人たちはとにかくこのような事態を招いてまだ反省のない国と東電を糾弾しなければ民主主義でも法治国家でもありません。不安一杯の中何とか漁を再開しようと必死の努力をしている漁師の人の言葉「国はちゃんと汚染の説明をしない。何を信じていいか分からないけどやんなきゃいけないんだ」1.5京ベクレルの放射能に汚染された海が何ともないわけがありません。国は海水とあらゆる魚介類の調査を克明にし、現状と今後の見通しをちゃんと漁師さんに説明しなければならないのは責務であって、曖昧にして責任を先延ばしにするような姿勢は更なる被害をもたらす事は明らかです。
未知数の除染費用と中間貯蔵施設建設費80兆円
2011/09/16 森口東大教授(環境システム工学)の試算によると除染対象になる地域は福島全土の17%、約2000平方キロに及び除去した汚染土は約1億立方メートル(東京ドーム80杯分)になるそうです。これを青森県六ヶ所村の低レベル放射線廃棄物埋設センターような中間貯蔵施設を作って保管するとなると、六ヶ所村の施設の場合の建設費は20万立方メートル分で約1600億円かかっているので、500倍の80兆円と言うとてつもない建設費がかかります。仮に試算の半分だとしても40兆円ですから、その費用は誰がどのように負担するのだろうと考えてしまいます。当然政府と東電、関係企業が負担すべきですが、国民の税金に跳ね返って来るなら道理の通らない話です。政府は福島県内に中間貯蔵施設をつくる方針ですが、現状の汚染土の仮置き場にさえ困っている福島の現状を考えればどうするのかと言う疑問は大きくなるばかりです。巨額のお金と解消しない危険性を伴う原発。除染の問題1つ見ても、原発を続けるのはまともな神経ではあり得ないはずなのに現実に目を背け反省もなく原発を動かそうとする人たちの神経はどうなっているのでしょうか。原発の発電経費が破格に高くつくと言う事実はある程度露呈しましたが、現実日本経済の病理は原発の負の要素がかなりの部分占めていると思われます。日本経済を失速させて来た元凶である可能性が高い原発。福島の復興、日本経済の活性化と地域や企業の健全化のためにも電力会社の原発にまつわる闇の部分をもっと明るみに出さないと行けないのではないでしょうか。経済被害や健康被害はもとより人間の心を疲弊させるような発電方法から一日も早く脱却したいものです。
核の抑止力と言うけれど
2011/09/18 自民党の石破政調会長が原発推進の理由としてプルトニウムを持つ事は潜在的な核の抑止力になると言っていますが、その考え方そのものが非核三原則に背くもので浅はかな理由だと思います。冷戦が終わり、核が分散され核の脅威はテロリストが核を使ったらと言う問題に対して世界は憂慮しています。国境を持たないテロリストに対して報復が出来ない以上自国が核を持つ事が抑止力にはなり得ないからです。かって核兵器開発を進めて来たアメリカやロシアの高官さえ核の抑止力の時代は終わったと認め、いかにして核廃絶を進めるかに焦点は移っています。石破政調会長の発言は原発の欠点と過去の嘘が次々と発覚して、原発を擁護する理由がほとんど見つからない中、こんな浅はかな事を出して来たのだと思いますが、正直に言えばいいと思います。「俺たちの利権構造を維持するためには原発は必要なんだと」もう原発を存続しなければならない正当な理由はありません。ましてやプルトニウムを持っているからと言って核抑止力どころか単に大きな危険を抱えているだけです。これだけの事があって、正しく認識出来るだけの事実が表面化して、いろいろな角度からの検証で、原発は無くすしかないと言う結論がでているのに、今さら推進も反対もありません。日本の未来を思うなら、子供たちの明日を思うなら一刻も早く廃炉への道筋を立てるべきです。一基を廃炉にするだけでも数十年と言う時間がかかり、費用も膨大です。それでも続けるリスクを考えれば決断出来るはずです。他のエネルギー政策を本格的に始動させれば原発が生み出して来た雇用や産業への寄与がいかに小さくて逆に経済の足をどれだけ引っ張って来たかがまた明るみに出るでしょう。
脱原発への小さな波、明治公園での5万人集会
2011/09/19 東京の明治公園で「さよなら原発5万人集会」が行われ、思いが重なる多くの人が集まり海外メディアはきちっと情報を伝えました。日本のメディアは相変わらずの姿勢でこれだけの民意をほとんど報道せず、本当に民主国家なのかとあらためて疑いを持ちます。東電や関連企業から多額のスポンサー料を受け取るメディアではありますが、お金で報道姿勢が変わるならそれはもう基本であるジャーナリズムとはかけ離れています。我が国で起こっている事を海外メディアを通して見なければならない国なら、報道規制が強制的に行われている独裁国家や強権国家とどこが違うのかと思ってしまいます。それでも原発の問題は闇に葬れるようなものではありませんから、1人1人の小さな意志が必ず正しい道に民意を収束させていくだろうと思います。脱原発の集会を呼びかけた1人、大江健三郎さんの訴え「原子力によるエネルギーは必ず、荒廃と犠牲を伴う。私たちはそれに抵抗する意志を持っていることを、政党の幹部や経団連に、デモで思い知らさねばならない」と言う言葉はその通りだと思いますし、全国で意を同じくする多くの人があらためて意を強くしたのではないでしょうか。原発の問題は人道的な問題だけではなく、経済や社会構造そのものを歪めて来た超巨大な「悪」です。人間が命を大切に思うなら、幸せを望むなら、愛する人の事を思うなら、全ての人が自分の生き方の優先順位のまっ先に置かざる得ないような問題です。これは政治の問題でも環境の問題でもエネルギーの問題でもなく、人間としてのヒューマニズムの問題です。生と死を見つめる宗教家も、心を説く哲学者も、子供たちを導く教育者も、病気と闘う医者も、子供を大切に思う親も、妻や恋人を愛する人も、芸術や動物を愛する人も、おもしろおかしく生きている人も、人間であるならば無関心でいれるような問題ではなく、傍観出来るような問題ではない事は分かるはずです。今意識ある人たちが懸命にやっている脱原発への思いが小さな波から静かな海のごとく共通の思いに満たされた時、日本は本当に豊かで人間らしい社会への道を歩みだした時だと思います。
悪代官と御用商人
2011/09/29 農民町民を苦しめ自らの欲のためになりふり構わない悪代官や御用商人が時代劇にはよく出て来ます。大名やら旗本やら強力な権力構造もあって、悪はなかなか退治出来ないのですが、そこは映画やドラマの事、大抵はより強力な正義の味方や必殺仕置き人が登場して溜飲は下がります。でも悪を突出させるために罪も無い人が幾人も殺されていくらドラマと言え理不尽感はありますが、そこはフィクションゆえ許されるメリハリです。今回の原発事故に絡む悪は時代劇と構図が似た部分があります。強力な権力(金力)と国民の無知を利用している部分、大名、商人、学者が連携して利権構造を作っている部分など今は江戸時代か、と言うほど似ています。マスコミをプロパガンダに利用するなど新しい手口はありますが、封建主義、軍国主義の時代ならともかく一応、近代国家と民主国家を自認する現代の日本において同じような事が起こる事自体恥ずかしい気がします。危険な原発施設を疲弊した地域を狙って地域ごとお金で買収するようなやり方は、暴力をお金に置き換えただけで本質は一緒です。住民に十分な知識を与えず、都合のいい情報で洗脳し、お金の力でとどめを刺すようなやり方はどう考えても民主国家のやり方ではありません。
福島原発事故から半年以上がたって相変わらずのプロパガンダや事実隠蔽が巨費を投じて現在もなされていますが、原発事故終息へのめどはほとんど立っていない事実を見ても、原発事故がもたらす被害はあまりにも広範囲で予測がつかないものだと言う事ははっきりしています。過去に分からなかった被曝から起こる病気との因果関係も徐々に分かりつつある時代にあって、時間を稼いでごまかそうなどと言う魂胆は浅はかと同時に被害を大きくする意味で犯罪的行為です。原発の御用学者が「放射能なんて大した事ありません」とか「基準値以下だから大丈夫です」とか無責任な事を真顔で言う神経はさっぱり分かりませんが、本当に確信があるのなら、自ら福島原発に家族を連れて行けばいいと思います。しかし実際は自分たちは安全な場所で安全なものを食べてのうのうと暮らしているのだから、腹立ちは倍増します。本当に東電や政治家、学者の中には刑事告訴するだけの理由がある人間が幾人もいます。放射能被害についてはすぐに結果や因果関係が露呈しないからとタカをくくっているのでしょうが、罪もない子供たちの先々の健康被害を考えると、あなたたちそれでも人間かと怒りと情けなさの混じった気持ちになります。
原発関連メモランダム02/2011年10月から
尽きない悪事
2011/10/02 電力会社の歪んだ体質は福島原発事故以来、新聞や週刊誌などで次々と暴かれてきましたが、今朝の新聞を見て本当に腐りきった体質にならないと原発は維持出来ないと言う事がまた1つ証明された気がします。長年に渡り自民党を中心とした国会議員のパーティー券を少なくとも年間5000万以上購入していた事が分かったと言う記事ですが、議員ごとに東電の業務への協力度を査定し、原発が立地する県や建設中の県から選出された議員や電力会社を所管する経産省の大臣、副大臣、政務官の経験者などは購入額が高い議員にランク付けされた、・・・。読んでいてうんざりするような内容ですが、これはどう考えても買収です。政治資金規正法などの裏をかいて表面化しないようにやって来たのでしょうが、こんな議員がどれだけいるのか実態を公表するべきだと思います。先般のやらせメールと言い人間としての最低限のモラルすら消え失せたような体質で、安全も人命もあったものではありません。東電から資金をもらっている政治家も情けないけれど、こんな事が平然と許されるような国はどうかしています。道徳的に考えれば完全に犯罪的行為だと思われるような出来事が次々に明るみに出ても、反省も内省もしない腐りきった人たち。彼らの悪事を訴追する力がこれだけ弱ければ、民主国家そのものも名ばかりになっているのではないかと不安になります。実際、福島の地震、津波の恐ろしい天災にかぶさるように起きた原発事故と言う人災。被災者の置かれた現状に対する国や東電の言動を見ていると、国として、事故責任企業としてまず被災者の救済ありきでやっているようにはとても思えません。現状においても未来においても多くの被災者が経済的にも健康被害に対しても泣き寝入りになってしまうのではないかと思えるような事の運びです。国民1人1人が国や東電の動きを監視しなければ彼らはまた大きな災厄を作り出してしまうのは情けない事ですが、腐った体質が直らない限り必然的にそうなってしまうのも事実です。
原子力は過去のエネルギー
2011/10/03 人類が火を発見してから1万年ぐらい経つと言われます。生命と文明を飛躍的に伸ばした火の発見と応用は同時に多くのものを破壊して来ました。食と同じぐらい身近で重要となった火の存在。確かになくてはならない火ではありますが、1つ間違えば危険きわまりないものでもあって、まさに「マッチ一本火事のもと」の標語が示す通り多くのものを灰塵に化しても来ました。便利さ快適さの追求は年間数十億トンと言う石炭や石油の消費を生み、一昔前に夢のエネルギーと期待された原子力の火をも現実のものとしてしまいましたが、それは石炭や石油と次元の違う危険性をはらんでいる事実を先見性と人間性のある科学者はこぞって指摘して来た事です。しかし自制のないエネルギー消費は原発稼働の口実を推進派の人間に与えてしまい、原発は安全で安くてクリーンなエネルギーなどと言うある側面を捉えただけの虚言と言ってもいいプロパガンダを大々的に続けて国民を欺いて来ました。原発がスタートした時点では科学技術がまだ太陽光など自然エネルギーを操作出来るレベルでなかった事もあります。しかし実際は20年ぐらい前には日本の科学技術は世界でもトップクラスのレベルに達していて、もし自然エネルギー利用にシフトを切っていたなら、現在のエネルギー世界の風景は随分違っていたはずです。「核」と言う戦略的な政治背景と「利権」と言う経済と権力を絡める巨悪が自然エネルギーの開発を押さえ込んで来たのも事実です。現在、原発が建っている場所に自然エネルギーの基地が出来ていたら、現地の雇用や活性化はもちろん産業界全体が原子力とは比較にならないぐらい活気と安定感を持っていた事も確実です。本当に馬鹿な政策を続けて来たものだと呆れ果てますが、長きに渡りほとんど真実を知らされず、洗脳とも言える施策をとって来た政府や電力会社の傲慢な姿勢はいくら反省しても償えるものではありません。科学レベルが上がり自然エネルギーの可能性は大きく広がっている今、もう原子力は「過去の誤った火」であったと認識すべき時ではないかと思うのです。
1人1人の感受性
2011/10/05 映画「ミツバチのささやき」で知られるビクトル・エリセ監督が東日本大震災を受けて製作された短編映画のために「アナ、3分」と言う作品を発表しました。楽屋で出番を待つ舞台女優が開幕までの僅かな時間をパソコンを通して誰かに語りかける映画です。女優は語りかけます。「広島に原爆が落ちて66年目。震災とは全くの別物だけれど同じ国の惨事なの」「今も新しい原発が建設されている。これでは地球が疲弊してしまうわ」「私は感じるの。私たちを見つめる死者たちの問いかけを・・・」映画についてエリセ監督は語ります。「地球の隅々にまでメッセージを届けるには、私のこれまでの映画と違って、シンプルで直接的な発信をしなければいけないと思ったんです」と。そして「1960年代、映画が社会を変革出来ると信じた人が大勢いた。でも結局社会は変わらなかった。ただし『1人1人の感受性を高める事はできる』『映画に限らず、芸術の持つ意味はやはり大きい』と語っています」まさにその通りで社会全体にかかわる事は結局1人1人の感受性を高める事がもっとも基本的で効果的な事なのではないかと思うからです。ヒューマニズムとは感受性のゆたかさから湧き起こる必然的な感情であると思うからです。映画に限らずあらゆる芸術が1人1人の感受性を高める可能性を持つものなら、その存在意義は確かに大きいですし、逆に言えば芸術の衰退はそのまま社会の危機にかかわる事ではないでしょうか。
オーストリアの心
2011/10/06 今も昔も芸術の香り高い首都ウィーンは国連や国際原子力機関など国際機関本部が集まっている国際都市です。そんな文化大国オーストリアは原発禁止を憲法に明記する反原発の国でもあります。1978年、国内唯一のツベンテンドルフの原発が完成した直後の国民投票で原発は稼働中止に追い込まれ今に至っています。数百人の原発専門家を訓練し燃料棒も施設内に搬入された後の事と言うのですから、当時の国民の意識の高さが推察できます。原発の持つリスクの大きさを当時どれだけ分かっていたのだろうか?と今の日本の現状を見ていると思ってしまいます。どんな原発にも地震などの自然災害以外に人為的なミスやテロ、軍事攻撃のような防ぎきれない危険がつきまとっていて、いったん破綻すると福島原発事故が証明しているように広範囲の被害と半永久的に立ち入れない地域が出来てしまうと言うリスクはあまりにも高すぎてまともな神経なら反原発を唱えるのは当然の事ではありますが、日本のように官民一体で安全神話なるものを信じ込まされて来た場合は事が起こってから意識が目覚めるのはいたしかたない部分があります。日本が1970年代にオーストリアのような選択をしていたなら、今頃は原発に変わるエネルギーを開発し、世界のエネルギーモデル国になっていただろうと思うと残念な気がします。日本の技術力、経済力、そしてオーストリアやドイツにはない自然エネルギーに有利な国土を持ってすれば可能性はかなり高かったはずです。中央、地方に大小のエネルギー産業が出来、雇用の面でも地域の活性化の面でも不安と隣り合わせの原発などとは比較にならないメリットが出ていたのはちょっと想像すれば分かります。かなりの遅れをとってしまったけれど、今から脱原発を実現し、新たなエネルギー開発に官民連携で乗り出せば、まだこれから原発を作ろうとしている後進国に対して手本となるに違いありません。危険な原発技術ではなく自然エネルギーの技術を輸出するのなら世界中誰もが賛成することなのですから。
作家の野澤夏樹さん「小さな子犬をしつけるように」
201/10/15 作家の野澤夏樹さんが、こんな事を書いていました。「子犬が室内で粗相をしたらその場へ連れて行って、鼻面を押付け、自分が出したものの匂いを嗅がせて頭を叩く。お仕置きをしてそれはいけない事だと教える。そうやって躾けない限り室内で犬を飼う事は出来ない。我々はこの国の電力業界と経済産業省、ならびに少なからぬ数の政界人からななる原発グループの首根っこを捕まえてフクシマに連れて行き、壊れた原子炉に鼻面を押付けて頭を叩かなければならない」猫が大好きで犬が大好きな僕にはよく分かる言葉です。ただし、原発ムラの人間は子供でもなくいたいけのない犬や猫のような生き物ではありませんから、鼻面を押付けて頭を叩いたとしても躾は出来ないような気がします。彼らの手足の一本でもねじとって、痛みとは何か、命とは何かを教え込まなければならない気がします。池澤さんの怒りは全く僕もそう思いますが、犬や猫の子のような純粋な部分は一切ない化け物のような連中ですから、恐ろしい放射能すら自身が細胞を侵され死に至る恐怖を味わった時にしか反省はないと思われます。犬や猫のようにすぐれた生き物ではない、同じ人間ですからそう言うのはしんどいですが、人間はすぐれた生き物にでも、全く下劣でどうしようもない生き物にでもなれるあまりにも危うい生命体です。だからこそ人間は諸刃の剣としての存在価値をこの大宇宙から試されているのではないかと思うのです。でもとりあえず放射能が安全だと言う卑怯な学者や政治家は池澤さんが言うように、壊れた原発の施設に一週間ほどくくりつけてその自ら大丈夫だと言っている放射能と向き合う時間を作ったらいいと思います。原発の作業員の人たちは、企業側の人たちは責任感から、雇われ側の人たちは生活苦からあるいは無知からその現場で放射能を浴びているのですから。
危険の集積
2011/10/25 日本各地で検出される放射能汚染。汚染された廃棄物、土壌、食品の拡散管理が真剣に行われているのだろうかと疑いを持つほど、方策は曖昧で後手後手に回っているような気がします。3.11の原発事故直後から放射能汚染に危機感を持つ研究者や所員は少なからずいて、危険区域の住民にいち早く情報を伝えようと言う動きがあったそうです。しかしそれを阻止する箝口令のような構造的仕組みが出来ていて、職場に辞表を叩き付けて個人的に動くしかないような状況がある事も想像がつきます。ヒューマニズムからそのような行動をとった人たちには頭が下がる思いですが、硬直した思考と保身から住民に不必要な被曝をさせた人間には怒りが収まりません。不確定要素の多い、放射能被害ですが、チェルノブイリなどの過去の事故が示すはっきりしたデータもあって、被曝の危険性と後遺症が徐々に明らかになっている現在です。そんな状況下での意識としてはあまりにも非人道的です。文科省が今頃になって汚染マップなどを公表していますが、多量の放射性物質が放出された3月当時の情報を今知らされても何とも言いようのない空白感と不信感がよぎるのは致し方ない事です。24日の朝日新聞で「高線量の中古車流通」と言う記事がありましたが、内容は「放射線量が高く輸出を認められなかった中古車が全国で流通している。規制がない国内市場に紛れ込むとチェックは難しい・・・」輸出業者の1人は「高い線量が出ると除染が大変なので規制のない国内オークションに出す」これが法治国家と呼べるでしょうか。中古車でこの状態だったら、無数とも言える海や陸の産物の安全検査なんかとても出来ているとは思えず、微量とは言え特に幼い子供たちへの内部被曝の蓄積が恐ろしいこのごろです。
原発関連メモランダム02/2011年11月から
消えた村の悲しみ
2011/11/01 1986年4月に起こったウクライナのチェルノブイリ原発事故。放射線モニタリングなどに従事する3000人以上の人が仮住まいを続けるチェルノブイリ市の中央広場に放射能の影響によって住む事が出来ず消えた村の名前が記された立て札が立てられています。168の村の名前が墓標のように立ち並ぶ写真は通常の墓地の光景とは違って奇異な感じがします。放射能と言う得体の知れないものの脅威。25年経った今が過去にならない原発事故の恐ろしさをあらためて感じます。福島第1原発では今日も放射性キセノンが検出され核分裂反応が止まっていない事が報告されましたが、あまりにも不確定要素が多い原発です。あれだけの事故があって原子炉の冷温停止もままならず、土壌汚染の問題や食品など内部被曝の現状の把握も出来ない中、原発の再稼働や輸出などあり得ない事ですが、それが現実に起こっている事にこの国の危うさを感じる人は多いのではないでしょうか。福島原発を廃炉にするだけでも30年以上かかると言う現実を考えれば、未来を見据えた正しい決断を一刻も早く実行に移さなければならないと思います。チェルノブイリの原発を覆う「石棺」が老朽化し現在新たな「石棺」の建設が行われています。25年、50年、原発事故は一過性ではなく危険は延々と続きます。
決して乏しくはない日本の資源
2011/11/08 日本は資源に乏しい国だと学校で教わって来た記憶があります。化石燃料、鉱山などその通りの部分はありますが、豊かな海や四季や文化伝統など資源の解釈を広げれば日本は資源に恵まれた豊かな国です。資源エネルギー問題研究所所長の和泉武さんによると「地熱資源は世界3位であり、メタンハイドレードは天然ガス消費量の100年分を超す埋蔵量があり、使用済み家電など「都市鉱山」から採取出来るレアメタルも世界有数、沖縄、伊豆、小笠原及び南鳥島周辺では非鉄金属鉱床が発見されている」と言う事ですし、科学技術力の進んでいる日本には新たな資源を開発出来る土壌があります。科学技術やアイデアそのものもその国の強力な資源ですから国をあげてきちんとした資源対策、開発を進めれば不安定な原油や危険な原発に依存する度合いを減らして行く事は可能に思えます。さまざまな国の思惑、要因が大きく影響する化石燃料や原発に依存している限り安定した経済基盤が出来るはずもありません。福島原発の大き過ぎる教訓を糧にして、自然エネルギーを中心に自給自足のエネルギー国家を未来に向けた指針として日本の舵を切れば、経済も文化も向上するだろう事は明らかだと思うのです。
少し遅いけど仏教界にも原発を問い直す動き
2011/11/09 仏教界の主要宗派でこの秋原子力に依存した社会との決別を求める宣言や催しが相次いでいます。命を尊び心のあり方を説く宗教のまさに逆と言える原発に対しては当然の動きです。臨済宗妙心寺派の大本山妙心寺のホームページのトップに「・・・たとえ平和利用とはいえ、原子力による発電が人類の制御できない危険な領域であると露呈した今、私たちは将来ある子供たちのために一刻も早く原発依存から脱却し、これに代わる安全なエネルギーへの転換に向け社会に働きかけなければなりません。・・・」と宣言が述べられていますが、仏教のみならず全ての宗教、全ての教育者、科学者、芸術家、そして全ての人間は「脱原発」に対して不退転の意志を持ち1歩1歩、安定した未来ある社会に向けて思いと行動をつなげなければなりません。「原発を選ばないと言う生き方」と題された永平寺のシンポジウムでは松原徹心副監院が、1970年前後に「もんじゅ」や「ふげん」と菩薩の名を付けられた原子炉についても当時の原子力に対する知識では致し方なかったけれど今は「原子力は地球上の生命の理論に合わないことを知らされた」と語りました。ローマ法王を始め人道的な指導者であるなら異口同音に同じメッセージを発して欲しいものです。
知らない事は罪だけれど
2011/11/11 指揮者の小沢征爾さんが、世界文化賞の受賞者会見で、「僕は原発は地球を汚さないし安いし人間が考えた素晴らしいものだと言われそう信じていた。それは、知らなかったわけです。前にも事故があったけどピンとこなくてまた起こるとは思っていなかった。要するに本当に知らなかった」と語りつづけて「だから僕にとって今年は非常に恥ずかしい年。その年に賞をもらう事は運命だと思っています」と話していますが、福島原発事故の後、大勢の人が同じ思いを持ったはずです。知らない事の罪。それは確かな事だと思います。でも、原発に関しては国や電力会社の情報操作は明らかでマスコミを通してきちんとした情報を得られなかった事は「知らせなかった罪」であり、これは犯罪的です。同時に知らなかったと言うより「知ろうとしなかった罪」もあるのではないかと思います。原発事故以後さまざまな業種、年齢の人たちと話して思ったのですが「知っても感じない罪」と言う人もいます。少数ですがちょっとショックを覚えます。これだけはっきりした事実を分からないはずはないと思いますが、どこか思考停止しているような人も案外多くいるのかも知れないと不安を覚えます。影響力の大きい小沢征爾さんのような各界の著名人がもっと声を大きくして「原発はなくすしかない」「知らない事は罪」だと言い続けて欲しいものです。
自国民が苦しんでいる時に同じ原発を他国に売り込もうなんて・・・
2011/11/15 (15日朝日新聞記事から要約)2004年にインド洋津波が襲ったインド南部に完成した原発は住民の反対運動で運転のめどが立たなくなっている。インド亜大陸最南端のコモリン岬に近いタミルナド州クダンクラムの海岸沿いに450棟の平屋住宅が整然と並ぶ。04年の津波で家を流された人たちが住むツナミ村だ。家々の屋根からは2キロ先の原発の巨大なドームが間近に見える。同原発はロシアの支援で01年に着工。建設中の2基のうち1基はほぼ完成し12月に商業運転を始める予定だった。着工時からあった反対運動に一気に火がついたのは福島原発の事故後。8月に入り一部の住民が稼働中止を求めてハンガーストライキを開始。9月には約4万人が3日間原発の入口を封鎖した。マハラシュトラ州ジャイタプールでは反対運動の1人が警官隊との衝突で死亡しているが政府の原発推進策に従い州政府は反対派を力ずくで押さえ込んでいる。米ロ仏などの先進国は原発の売り込みに躍起で、原発事故を起こした日本も売り込みに参加している。クダンクラムの反対派住民は米ロ仏に対して「インドに原発を売るな」と訴える公開書簡を提出。住民の先頭に立つ元大学教授のウダヤ・クマールさんはこの夏訪日し、福島も訪れた。クマールさんは「自国民が苦しんでいる時に、同じ原発を他国に売り込もうなんて、日本はそんな非人道的な国なのか」と問いかけていますが、それは日本の多くの国民も思っていることです。
次のシーンを想像しよう2
2011/11/21 原発問題について正確な検証はできないけれど、ある程度の想像はできます。原発建設に使われて来たお金の膨大さ、異常さは小出しに出される情報をかいま見ているだけでも吐き気がするほど大きなものです。用地買収、地域住民の生活買収、村長、町長、市長、土地の権力者、原子力に関する学者の買収、テレビ、新聞、雑誌などありとあらゆるメディアへの圧力とメディアを使ってのプロパガンダの費用。ちょっと想像するだけでも巨大な経費が浮かんできます。原発施設の物理的な建設費、運行、管理費も巨額ですが、原発に関しては「それが余りにも危険なもののため」リスクを覆い隠す経費が次から次へと生まれます。54基もの原発が立地する場所はいずれも自然環境に恵まれた素晴らしいのどかな土地です。しかしこれも国策のまずさ故ですが、原発立地の場所はどこも疲弊衰退した地域でのどから手が出るほどお金が欲しい経済状況です。お金が欲しいのはやまやまの住民ですがそれでも原発の余りの危険の大きさに建設反対を叫んで来た人たちも大勢います。推進派のありとあらゆる工作と嫌がらせにも屈する事なく反対し続けて来た人々はお金よりも命と地域の自然を守り子孫に残したい人々です。それでも阻止出来ずにこの地震列島に54基もの原発ができてしまった現実。
福島原発の悲惨な事故が起こらなかったら何の検証もなされる事なく破滅に近い事故が起こるまで原発は運用されていたでしょう。原発が動くと言う事は処理さえできない核廃棄物が増え続けると言う事です。原発が動くと言う事は現場に作業する人々が被曝し続けると言う事です。低濃度であれ原発からは放射性物質が出続けます。今回の事故による汚染された土地を削った汚染土だけでも行き場も処理方法もまだ確定していません。その費用は一体?想像するだけでまたしても巨額です。まして原発周辺の家を土地を故郷を失った人たちへの補償は十分できるのでしょうか。物理的被害、精神的被害、被曝した人々の未来への不安。補償額はまたまた巨額です。そして現実に放射能に汚染された食品は全国に出回っています。検査体制すら確立しない中、安全レベルがどうこう言う問題ではありません。想像力が止まってしまいそうな原発の理不尽です。これだけの事実が明らかになって国民は何故もっと怒らないのでしょうか。政治はドイツのようになんで原発を全廃する決定を下さないのでしょうか。
ドイツが2022年までに全廃すると言うのなら、日本も同じようにまず意思決定をすべきだと思います。開発に1兆円以上がつぎ込まれ実用化のめどさえ立たない高速増殖原型炉「もんじゅ」にまだお金をつぎ込もうと言う気違いのような輩がまだいます。即廃炉にして、推進して来た人たちから国民の税金を取りかえすべきです。「もんじゅ」建設にかこつけて私欲を肥やした人たちが大勢いる事は想像がつきます。福島原発のような事故がもう一度起こればどうなるか、想像するだけで恐ろしい事です。原発施設の専門技術者、原子力の科学者、地震工学の研究者、そして多くの見識ある人々が「原発は絶対廃止すべき」と声を揃えているのですから、短期未来を現状の火力、水力などの既成エネルギーでまかないながら、一刻も早く太陽光発電を始めとする代替エネルギーの整備を急ぐべき時ではないでしょうか。
月ともんじゅ
2011/11/27 ケネディ大統領の声明で始まったアポロ計画は1961年から1972年にかけて計6回の有人月面着陸に成功したと言われています。1969年に宇宙飛行士アームストロングとオルドリンがアポロ11号で月面着陸に成功し1972年まで5回の月面着陸が行われ計画は終了。今から42年前に月面着陸が報じられたときには「この流れなら近い将来月面に基地ができるだろう」と思ったものです。その後の飛躍的な技術進歩を考えれば現在ならもっと簡単に月へは行けるのではないだろうかと単純に考えてしまいますが、現実は何か違うようです。何かは分からないけれど現代科学は大きな壁に突き当たっているような気がします。さまざまなトラブルの中で巨額の経費と不安材料だけを抱える高速増殖原型炉「もんじゅ」に対して細野原発相は廃炉を含めて検討して行くとの意向を示しました。福島原発の事故で多くの作業員や地域の人が被曝し、放射能汚染はじわじわと全国に広がっている現状があります。原発の安全神話は完全に崩れ、いかにして原発を無くして行くかを検討し総力を挙げて原発のない日本にするかが未来に向けての絶対課題だと思います。「もんじゅ」を継続するなどは「問題外」で、廃炉は即時決定して欲しいものです。手のとどくような距離にある「お月さん」。太古から地球を見守って来た人間にとって縁の深い天体です。その月にさえ自由に飛行出来ない現代の科学力。危険きわまりない原子の火を扱うには科学力も精神力もまだまだではないでしょうか。
生きてる限り、個人の思いは持続可能なエネルギー
2011/11/30 永き未来に渡る危険物、核廃棄物の処理方法も確立出来ない中、原発を稼働させるのは人類として余りに無責任です。チェルノブイリや福島原発事故が起こり原発の安全に対する脆弱さと放射能汚染の恐ろしさが身にしみた日本で原発を再稼働させたり、他国へ輸出するなどと言うのは想像力の欠如した野蛮人のような行為だと思います。今を生きる大人たちは1人1人が原発の動向を注視し、無知や無関心から判断能力を失った人たちに原発問題の真実を知らせ続け国民の総力を持って原発全廃の決定がなされるよう努力し続ける義務があります。原発は核への危機意識の問題でもありますが、民主主義の根幹の問題をもはらんでいて、正しく原発をストップさせる事は、今の社会が病み持つ多くの問題に正しい変化をもたらす事は大いに想像出来ます。施政者や資本家が管理しやすい人間をつくるための幾つかの施策。競争、短絡、利害、偏狭、他者への無関心などが教育の世界でも家庭内でも知ってか知らずしてか行われて来た現実があります。これからの社会が目指さなければならないのは、1人1人が個性を持ち、想像力を持ち、お金とか地位とかではなく、人と人が調和しのびのびと楽しい社会がいちばんだと言う価値観を持つような人間を育てる環境を作り上げる事です。遊び心いっぱいの子供たちを育てる事。自分で楽しみを見つけ、自分で興味あるモノを見つけ自分で遊び勉強する好奇心と想像力のある子供を育てる事です。競争原理や規律や管理でまともな人間が育たないのはこの数十年の日本の現状を見れば誰にでも分かるはずです。賢く豊かで想像力のある人間は、学校の成績や学歴や地位などを気にしなくてはいけないような教育現場からは絶対に生まれません。過去やって来たように企業や施政者に都合のいいロボット人間を育てるならともかく、教育は「自由である」にこしたことはありません。原発問題は「幸せとはなにか」「生きるとはなにか」「人間とは何か」を1人1人が問い直す契機となりつつあります。個人の思いは生きてる限り持続可能なエネルギーであり、それは繋がり、広がり、バトンしていけるエネルギーでもあります。社会一般の価値観に影響されない「自分独自の価値観」を持った人間が1人でも多く育ち、それぞれ異なった価値観の中で、ヒューマニズムと言う一点でつながるような社会が実現した時、初めて本当の民主主義が生まれたと言えるのではないでしょうか。