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秘密保護法案、宗教界も反対(2013/11/30朝日新聞) (記者有論)秘密保護法案 自由の「外堀」埋めさせぬ 駒野剛(2013/11/29朝日新聞) このころの大学生は軍事教練を履修すると軍隊での在営服務が短縮される恩典があった。一般の兵ではなく、幹部候補生にもなれた。陸軍はこうした効用を見越していたのだろう。在校生から不安の声が上がり、入学志願者が確保できなくなる恐れが生じるなど、学校経営上、著しい不都合が懸念される状況に陥った。更に、新聞が事態を混迷させる。参拝拒否から5カ月後、報知新聞が学校名を匿名にしながら、この問題を報道。他の新聞も批判的論調の記事を掲載して、上智大やカトリック教会を批判する世論が強まっていく。結局、上智大側が陸軍に「皇軍は仁義の師」「中外欽慕する」対象であり「学長既に悔い、既に改め、荊を負うて潔く軍門にまつ」との陳情書を提出するなど屈服する形で配属将校が復帰した。大日本帝国憲法も「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と、限定付きながら信仰の自由を認めていた。陸軍は配属将校の派遣という裁量を脅し道具に使い、自由を破壊したのだ。 政府は特定秘密保護法案を、多くの国民が反対し、疑問を抱く中、成立させようとしている。いったん「自由」を縛ることができる手段を、権力を持つものに与えてしまうと、後は彼らの裁量、さじ加減で何とでもなることを、参拝拒否事件は示している。上智大は、事態のさなか、国内初の新聞学科を開設した。健全なジャーナリズムが権力を監視し、暴政を防ぐ道具になると願ったからだ。「自由」を縛る秘密保護法は戦前への逆戻りであり、廃案しかあり得ない。 (認知症とわたしたち)ひとりの時代に:1 「助けて」疎遠のおばからSOS(2013/11/27朝日新聞) すぐにおばの団地を担当する地域包括支援センターに電話した。「感謝します」と言われた。おばはセンターを何度も訪れ、「施設に入りたい」と訴えていたが、要領を得なかった。きょうだいや親族に連絡を取ると、「もう何年も会っていないので」などと協力を得られず、行き詰まっていたという。センターは判断能力が衰えた本人に代わり入所契約や財産管理をする成年後見制度を検討していた。数日後、車を飛ばし、おばの部屋を訪ねた。冷蔵庫は満杯。台所は食べ物があふれかえり、異臭を放っていた。納豆が洋服だんすにあった。同行した母は当初「あなたの重荷になるから」と支援に反対したが、部屋の様子を見ると何も言わなくなった。ホームヘルパーを頼み、連絡先を電話の近くに書いて帰った。 それから泣きながらの電話が1日に何度もかかるようになった。「通帳がない」などと電話口で訴える。自宅にも携帯電話にも朝晩問わず。「どうしたらいいんだろう」。心が折れそうだった。地域包括支援センターと連絡を取り、図書館やインターネットで情報を集めた。友人にも相談した。日々の金銭管理を頼みたいと思い、社会福祉協議会に電話し、日常生活自立支援事業の問い合わせをしたが、後見人が必要で事業の内容が理解できないようなら利用できないと説明された。主婦自らが後見人になることも考えた。だが重さに耐えきれないと思った。家族にも反対された。無料法律相談も利用し、法定後見を4月末に東京家裁に申し立てた。 ■後見人立てる おばの部屋には墓関連の業者の連絡先が残っていた。「ひとりの最期」を考えていたようだった。居間のカレンダーには、自分に言い聞かせる言葉がマジックで書いてあった。 「よく考えて下さい。ボケては困ります」 「老人ホームに入りたい」 「金使ったら大変なこと」 ひとりで怖かったろうと思った。施設の希望や貯金の使い道を尋ねると、「好きでいい」と任せられた。 司法書士(35)が後見人に決まったのは5月末。施設探しの条件は「年金で暮らせる」に、後見人の助言で「私物を持ち込める」「みとりができる」を加えた。グループホーム7カ所を選び、おばと足を運び一覧表にして熟慮した。「できる範囲で」と思っていたのに、いつの間にかすべてを決める立場になっていた。入居は6月。鏡台と座椅子は団地の部屋から運んだ。「これでいいんですよ」。後見人のひとことで救われた気がした。 ■「家族いいね」 10月末、おばのグループホームを訪ねた。おばは話す。「年取ると怖いよ、だれがだれかわからなくなるから。これから先、私どうなっちゃうんだろう」「ハズバンド(夫)は? 私はだれもいないからね。家族いるんだもんね。ごはんは一緒? いいね」団地から運んだ紙箱の中の写真や書類をおばと整理した。基地勤務の時の感謝状、不動産関係の資格の書類、日本舞踊の写真――。おばが懸命に生きてきた証しだ。日舞の話になると、おばの背筋がしゃんと伸びた。「このポーズが一番好き」。舞台で右手を差し出す和服姿の写真を、まっすぐに指さした。(佐藤実千秋)一人暮らしで認知症になる、1人で介護する。家族のかたちが変わり、「ひとり」で認知症に向き合わねばならない人が増えています。自分は無関係と言い切れる人はどれほどいるでしょうか。「認知症とわたしたち」第6部は「ひとりの時代に」。4回連載します。 ◆地域包括支援センター 介護保険法にもとづき、06年度から市区町村に設置。高齢者が住み慣れた地域で生活を続けられるように介護・保健医療・福祉の幅広い相談に応じ、助言や支援を行う総合相談窓口。12年4月現在4328カ所。 ◆成年後見制度 認知症などで判断能力が不十分になった時、財産の管理や施設入所の契約などを後見人が支援する制度。判断能力があるうちに自分で後見人を選んでおく任意後見と、判断能力が不十分になってから本人・配偶者・親族が家庭裁判所に申し立てる法定後見がある。身寄りがない場合、市区町村長が申し立てることもできる。12年12月末時点の利用者は16万6289人。 ◆日常生活自立支援事業(地域福祉権利擁護事業) 福祉サービスの利用や預金の出し入れ、日常生活上の契約などを手助けするサービスで社会福祉協議会が担う。判断能力が不十分だが、この事業の内容を理解できる人が対象。12年度の新規契約数は1万885件、利用者は4万720人。 (認知症とわたしたち)ひとりの時代に:2 自分しか…退職し介護(2013/11/28朝日新聞) 朝食と昼食は冨井さんがつくる。母が食べやすいよう、サンドイッチは2センチほどの幅に切って皿に盛る。栄養バランスを考えて、夕食は1食550円の配食サービスを利用する。ベッドから落ちていないか深夜まで見守り、それから自分は床につく。「学校の先生に言うてんやからね」「イノシシがいる」。理解できない独り言を繰り返す母。もう「ありがとう」も「ごめんなさい」も言わなくなった。フリージャーナリストとして製薬会社の発行する冊子などに執筆、収入を得る。母がデイサービスに通う間が貴重な仕事の時間だ。ショートステイで施設に泊まる夜だけは、街に出て友人らと飲む。唯一のストレス発散だ。こんな暮らしが6年間、続いている。「認知症はこういうものという割り切りがないと厳しい。徘徊(はいかい)と暴力が無いから何とかやっているのかな」 最近、母が食事を受けつけないことが増えた。在宅介護の限界を感じ、10カ所を超す特別養護老人ホームに申し込んでいる。空きがでたという連絡は、まだない。若い頃の母はしつけに厳しく、きれい好きだった。幼かった冨井さんが玄関に靴を脱ぎ散らかしたら、「並べなさい」と、ぴしりとやられた。いま、介護に追われる自宅を見回せば、あちこちにほこりがたまり、飼い猫のエサの食べこぼしが転がる。「掃除は2週間に1度ぐらい。手が回らない。昔の母がこんな部屋を見たら、『片付けなさい』って怒るでしょうね」 ■母選び離婚「支え合う」 東京都江戸川区の西小岩幼稚園で9月末に開かれた「江戸川認知症の人と家族の会 りんどうの会」の例会。始まって25年目になる。「お母さん、よく笑う人だったよね」。話しかけられた女性(66)はうなずきながら「母一人、子一人の介護が10年続くとは思わなかった」と答えた。50代で父と死別した母、ひとりっ子の女性、夫の3人で同居していた。きっかけは1997年3月、頸椎(けいつい)を痛めた母の手術だった。84歳で入院した母は、3カ月後に自宅に戻ると、手術も見舞客のことも覚えていなかった。認知症の症状だった。「多発性脳梗塞(こうそく)」と診断を受けた。夫とはうまくいっていなかった。スナックから電話をかけてきて迎えに来させ、家に帰ると暴れた。母の介護に手がかかるようになると、「老人ホームに入れろ」「親をとるのか自分をとるのか」と迫られた。和裁の仕事をし、女性が高校生の頃から一人で育ててくれた母。施設入所は考えもしなかった。離婚を決めた。まとまったお金を夫に渡し、出て行ってもらった。楽になったと思った。 母の部屋に介護ベッドとポータブルトイレを置いた。毎日2時間ホームヘルパーに来てもらい、郵便局勤務を続けた。しかしある晩、勤めから帰ると、母がベッドの横に落ち、うつぶせのまま起き上がれなくなっていた。「もう無理だ」。24年間勤めた仕事を49歳で退職。母の年金などで生活費をまかない、不足分は貯金を取り崩した。介護保険が始まった当初は要介護3。間もなく要介護5になり、認知症も悪化した。故郷の福島にパジャマを忘れてきたと大声を上げる。「違うよ」と言っても、「絶対置いてきた」「電話をかける」と聞かない。ベッドわきの乳液を飲もうとする。ポータブルトイレに枝豆の皮を詰め込む。少しでも姿が見えないと繰り返し女性の名を呼ぶ。疲れ果て、自室にこもり缶ビールを飲んだ夜もあった。 介護で外出すらままならなかった50代。同じ境遇の親戚や友に支えられた。りんどうの月1回の例会ではメンバーが車いすで母を散歩に連れ出してくれた。その間に仲間に悩みや苦しみをはき出した。高校生の頃から母と2人で支え合ってきた。離婚でまた2人になった。母の介護は大変なのに、どこかで母がいなくなったら、独りになったらどうしよう、と思う自分がいた。「心の中では母に頼っていたんです」07年9月20日、94歳で母は亡くなった。むくんだ母の顔に語りかけた。「もういいよ」。もうひとりで生きていける、10年間ひとりで介護ができたのだから――。「10年かかった親離れでした」(伊豆丸展代、佐藤実千秋) ■離職、年間10万人以上 総務省の就業構造基本調査によると、2011年10月からの1年間に、介護や看護を理由に職を離れた人(15歳以上)は全国で10万1100人にのぼる。うち男性は1万9900人、女性は8万1200人で、女性が多い。育児・介護休業法は対象家族1人につき通算93日までの介護休業を認める。厚生労働省によると、この日数で介護を終えるという趣旨ではなく、介護方針を家族が決める期間などとして設定されているという。介護休業の取得率は全労働者の0.06%にとどまる(同省12年度調査)。 ◆ご意見や体験をお寄せ下さい。お名前、住所、電話番号、年齢を書いて〒104・8011(所在地不要)朝日新聞文化くらし報道部「認知症とわたしたち」係へ。FAXは03・5540・7354、メールはseikatsu@asahi.com 慰安婦問題、インドネシアの女性証言 「日本軍のテントに連行された」(2013/11/28朝日新聞) 赤道直下に浮かぶインドネシア・スラウェシ島には元慰安婦の支援団体がある。これまで団体が聞き取りをしていない人を紹介してほしいと依頼した。最初に会ったのは島南西部のシンジャイ県に住むベッチェさん。築数十年の高床式の家を訪ねた。80代半ばで曲がった腰にサロンと呼ばれる布を巻いている。未婚で親戚一家の元に身を寄せている。記者は「当時、日本兵に何か怖いことをされたのですか」と切り出した。インドネシアは地域によって言語が異なる。日本語からインドネシア語、そして地域語へ、2回の通訳を経て質問は届く。彼女はつぶやくように話し始めた。「あの時、私は10代半ばでした。ある暑い日の夕方、2人の男が家で料理をしていた私を無理やり外に引っ張り出しました」男たちはインドネシア語ではない言葉を話し、銃を持っていた。それを見てベッチェさんは日本兵だと思ったという。10分ほどで彼女の目は涙であふれた。「娘を連れて行かないでくれ」と叫ぶ父親の目前でベッチェさんはトラックの荷台に押し込まれた。他にも同年代の女性が乗っていたという。着いた場所には「日本軍のテントが張ってあった」。そのうちの一つに連れて行かれ、複数の男に犯されたと語った。 当時、その場所に出入りしていたというインドネシア人男性・ハムザさんに話を聞くことができた。「日本軍が三つテントを張って7人の女性を閉じ込めていた。そこで彼女(ベッチェさん)を見た。連行したのは地域を管理していた日本兵だ」。当時、若い女性が日本兵の慰安婦にされることが地域で恐れられていたという。ベッチェさんは約3カ月後に解放された。だが、家族から「汚い人間は必要ない」と家を追われた。裸足で丸2日歩いた末、知人の住む村で畑仕事を手伝いながら生き延びたという。「これまで何もしてくれなかったインドネシア政府に腹が立つ」。取材を終えた時、紅潮した顔が涙でくしゃくしゃになっていた。 ■「大きな建物 たくさんの小部屋」 取材班は、女性たちが被害を受けたと証言する現場を探した。島南西部のピンラン県に住むイパティマンさんの証言は詳細だ。当時、働いていた製糸工場内で小銃を持つ男に腕をつかまれた。インドネシア人の顔つきではなく日本兵だと思った。トラックで15分ほど走った所にあるマリンプン地区に連れていかれたという。「大きな木造の建物に入れられました。廊下を隔ててたくさんの小さな部屋がありました」。そこに日本兵が次々にやって来て辱めたという。「大声で叫びました。怖くて涙が止まりませんでした」。3カ月後に解放されて間もなく、戦争は終わったという。取材班は彼女の家から10キロほどのマリンプン地区に入った。古くから近くに住むタヒルさんという男性が広大な牧草地に案内し、「昔、ここにはたくさんの日本兵がいた。大きな基地だった」と話した。建物跡は見つからなかったが、日本軍がいたという裏付けになる証言だ。イパティマンさんは自らが働いていた工場を営む日本企業を正確に覚えていた。今もある大手企業だ。 取材班は彼女の証言を頼りに、工場があったとみられるピンラン県パチョゲン地区の住宅街の一角に向かった。民家ばかりで工場を思わせる痕跡はない。近くに住むイカラウさんという女性に出会った。イカラウさんは、こちらが教えていないのに、イパティマンさんの証言と同じ日本の企業名を言い、「日本軍がいた当時、ここに工場があった」と話した。さらに「母親からは『工場に近づいてはいけない。日本人の嫁にさせられる』と言われた。みんな恐れていた」と続けた。取材班は当時の資料にもあたった。スラウェシ島は当時、「セレベス島」と呼ばれた。終戦後、旧日本軍がオランダ軍の求めに応じて作成した「南部セレベス売淫施設(慰安所)調書」には「ピンラン分県ピンラン町」に慰安所があったとある。それがイパティマンさんの言う場所かは不明だ。大手企業に取材すると、スラウェシ島に工場があったとの記録は残っているが、それがパチョゲン地区なのかは「確認のしようがない」とのことだった。 ■「全土300人以上」の記録も 日本はインドネシアとの個別の平和条約(58年発効)に基づき約2億2千万ドル(約803億円)を賠償し、戦後処理の一環として約1億8千万ドル(約637億円)の経済協力などを実施した。慰安婦問題の償い事業のため、日本政府の主導で95年に設立された「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)も償い金として3億7千万円を支援。インドネシア社会省は高齢者福祉施設69カ所の建設や修繕費に充てた。基金の記録によると、スラウェシ島の21カ所を含め、インドネシア全土には少なくとも40カ所弱の慰安所があり、300人以上の慰安婦がいた。これらの数字は「南部セレベス売淫施設(慰安所)調書」などに基づくものだ。基金は調査報告書でインドネシアには中国、朝鮮、台湾出身の慰安婦もいたが、「多くは村落社会から募集された」と指摘。軍が管理した慰安所以外に「特定の部隊が独自に女性を集めて自分たちだけが利用した私設の慰安所のようなところ」もあったとした。93年に現地調査した日本弁護士連合会は女性8人から「慰安婦にされた」との証言を得た。その報告書に「慰安所が各地に設けられ、若い女性が性的関係を強要された」とまとめた。 ■内容は克明、答えに矛盾なし 取材班は今年7月、スラウェシ島に約2週間滞在し、元慰安婦や目撃者と名乗る約20人と会った。インドネシアには多様な地域語があり、多くの場合、日本語からインドネシア語、そして地域語に2度の通訳を介して話を聞いた。取材を拒む人や、記事にしない条件で話す人もいた。彼女たちの証言を完全に裏付ける資料は見つからなかったが、内容は克明で信用できた。連行の様子や閉じ込められた部屋の特徴、どんな辱めを受けたか、解放後どうやって帰宅したか、どれも具体的だった。金銭を受け取ったか、どうして逃げなかったのかという話しづらいことも聞いた。金銭を受けたという人はおらず、見張りや仕返しが怖くて逃げられなかったという答えが相次いだ。同じことを角度を変えて何度か聞き直しても答えに矛盾はなかった。70年たった今も彼女たちは苦しみ続けていた。(鬼原民幸、板橋洋佳) <報道の経緯> 朝日新聞は90年代の慰安婦問題に関する数千枚の外交文書を情報公開で入手し、当時の政府高官らの証言とあわせ、慰安婦問題の拡大を防ごうとした日本外交の裏側を10月13日付朝刊で詳報した。日本政府が当時、韓国で大きくなった慰安婦問題が他国に波及するのを恐れ、東南アジアで聞き取り調査をしなくて済むよう動いていたという内容。
【名前】 証言内容 * 【テンバ】 自宅から連行。昼は紡績工場で強制労働、夜は宿舎から出られず。特定の日本兵が毎週のように部屋へ。4カ月後に解放。家族に打ち明けてこなかった。 【イタン】 市場から複数の女性とともに連行。3畳ほどの部屋で3カ月間、何人もの日本兵の相手に。自殺も考えた。今も寝る前や食事の時に記憶がよみがえる。 【チェンボ】 道端で物売り中、常連の日本兵によって連行。3カ月の監禁後、その日本兵と結婚し妊娠。終戦で離別してから連絡が取れず、1人で子どもを育てる。 【ミナ】 畑の帰りに父親の目の前で連行。1年以上、毎日複数の日本兵に辱められる。誰も避妊せず2回妊娠し、流産した。銃で殴られ右目を失明した。 【ミナサ】 自宅近くの森に連行。草を布団代わりにして犯される。終われば帰宅できたが、3人の日本兵がほぼ毎日やって来た。今も日本人が怖く、憎んでいる。 【アティ】 自宅から日本軍管理の石灰工場へ連行。朝から働き、午後は部屋に複数の日本兵が。数カ月後に隙を見て逃亡。心が壊れた体験で、詳しく話したくない。 【サニアガ】 村長に命令され日本軍の施設に。強制労働中に何度も「バッキャロー」と言われた。自分の経験は話せないが、日本兵の子を妊娠して殺された女性もいた。 (敬称略。すべて取材班への証言。現在の年齢はいずれも80〜90代) http://digital.asahi.com/articles/TKY201311270675.html?iref=comkiji_redirect 日本軍の性暴力、ロラは語った 札幌で証言集会(2013/08/08朝日新聞) 橋下氏慰安婦発言:ノーベル平和賞受賞の女性5人が非難(毎日新聞 2013年05月31日) そのうえで「性暴力は紛争後も被害者や社会に、長期間にわたって深い傷を残す。慰安婦への罪は個人や家族に大きな痛みを与えるだけでなく、東アジアの緊張を高め不信を増大させることになっている」として橋下市長に発言の撤回と十分な謝罪を求めている。また声明は、日本政府に対し、戦時におけるレイプや性暴力を停止させるための政策推進を求めるとともに、日本の市民に対し、性暴力に反対する声を結集するよう呼びかけている。声明発表後、ジョディ・ウィリアムズさんは、「性暴力は戦時においても、必要ではなく容認もできるものではない。日本政府は、紛争時の性暴力を禁止する主要8カ国(G8)宣言を支持している。私たちは(橋下)市長が、この動きを支持することを期待する」とコメントした。【小倉孝保】 (声)橋下氏の「慰安婦必要」に絶句 団体職員 佐藤敦子(東京都新宿区 35)(2013/05/13朝日新聞) (社説)慰安婦発言 橋下氏の責任なお重い(2013/06/11朝日新聞) 【琉球弧北端から】生物多様性を脅かすネオニコチノイド系農薬(2013/10/21朝日新聞WEBRONZA) スロベニアでの蜂の大量死(2011年)――J・V・スラウス「ハチの障害と大型無脊椎動物の減少に果たすネオニコチノイドの役割についての新しい科学的洞察」(浸透性農薬に関するIUCN東京シンポジウム2013発表資料より)日本でも各地でミツバチ大量死の発生が見られる他、「夏なのに街灯に虫が集まらない」「スズメなど鳥の姿が消えた」といった声を聞くが、行政当局はネオニコチノイド系農薬の規制に後ろ向きで、EUと比べて最高2桁も緩い残留基準のまま野放しの使用が続く。私はここ3年ほど、このネオニコチノイド系と呼ばれる新しい農薬の問題に関わっている。その名のとおり、タバコに含まれるニコチンと同じように脳・神経組織に作用して標的の昆虫だけを防除すると謳われ、少量で効き目も長持ちするため世界中で急速にシェアを伸ばしつつある殺虫剤だ。 日本でも過去15年間に出荷量が3倍に増え、農業者の高齢化に対応しながら「減農薬」の「環境に優しい」農業が実現できるエースと期待されてきた。農薬だけでなく、ゴキブリやシロアリなどの屋内防除剤、ペットのダニ除け、防虫剤入り建材など、身近なところまで広がっていることは意外と知る人が少ない。 特徴は、1) シナプスのアセチルコリン受容体に結合して人工的な興奮状態を作り出すことで昆虫を死なせたり、行動を狂わせたりする「神経毒性」と、2) 主に植物の根から取り込まれて茎・葉・実など組織の内部全体に行きわたる「浸透性」(そこで浸透性農薬=systemic pesticidesとも)、3) 長いもので半減期が数ヶ月から数年もあるため作物の一生を通じ、場合によっては土壌や水系を介して後作(あとさく)・裏作まで影響が続く「残留性」の3つが挙げられる。 これら主要特徴に付随して、植物組織の内部から作用するせいで既存の農薬と異なり洗っても成分が落ちないこと、もともとの成分より代謝物のほうが高い毒性を表わす場合があることなども特記に値する。本稿でいう「ネオニコチノイド系」には、アセタミプリド、イミダクロプリド、クロチアニジン、ジノテフラン、チアクロプリド、チアメトキサム、ニテンピラムのネオニコチノイド7種と、同様の浸透性をもつフィプロニルの計8種を含める。各種の悪影響が指摘された有機リン系農薬に替わるものとして1990年代に登場したネオニコチノイド系農薬は、その便利さからいまや120ヶ国で認可され、使用量世界一とも言われるが、新たな問題も指摘されるようになった。最初に注目を浴びるきっかけはミツバチの大量死だ。突然、巣箱の前におびただしい数の死骸が積み重なったり、女王や幼虫や蜜を残したまま働きバチだけ謎の失踪を遂げたりする蜂群崩壊症候群(Colony Collapse Disorder=CCD)が2000年代半ばから世界各地で頻発し始めた。 原因については病気、ダニ、気候変動、電磁波から遺伝的衰弱まで諸説挙げられるものの、シェア拡大とCCD急増との符合、現場の養蜂家たちが訴える農薬使用時期とCCD発生の符合などが否定しきれないことから、ネオニコチノイド系農薬を主因とする見方が強まっている。高濃度の場合は急性で致死的な影響を及ぼす一方、低濃度の摂取でも慢性の亜致死的影響が表われる。後者では、ミツバチの特徴である社会的行動が阻害されて巣に帰れなくなったり、汚染された餌や水分を摂取した幼虫が正常に生育できなくなったりする結果、群れ全体が緩慢な死に至る可能性が指摘され、実際にそれを追認する研究発表が相次いでいる。農薬メーカーは発売当初、こうした低濃度での安全性を検証していなかった。ミツバチが代表する花粉媒介昆虫がいなくなると、農業分野の損失は全世界で20兆円以上と深刻だ。 他にも次のような問題点が指摘される。a) 標的となる“害虫”が農薬耐性をつけ、逆に大量発生しかねないこと(すでに東南アジアのウンカで現実化)、b) 神経組織の基本構造は、標的となる“害虫”もミツバチのような益虫も、さらにはチョウの仲間、鳥、そして人間を含む哺乳類まで同一であるため、神経毒性が特定の昆虫だけに発動するとは考えにくいこと(日本に先進的な研究あり)、c) “害虫”をはじめ幅広い昆虫相が打撃を受けると、それを捕食する鳥類などの生存、ひいては生物多様性全体が脅かされること。 欧米の科学者たちがネオニコチノイド系農薬の危険性に気づくきっかけは、CCDと並び各地で鳥類が目に見えて激減したことだったという。国際自然保護連合(IUCN)のもとに、世界各国から独立した科学者が結集して「浸透性農薬に関するタスクフォース」を立ち上げ、ネオニコチノイド系農薬の有害性を取り上げた主要論文の総合評価を進めているのも、そうした強い危機感の表れだろう。 私の住む世界自然遺産の屋久島でも、北西部永田集落のラムサール条約登録地の浜に隣接する松林で、松枯れ対策の農薬散布に、ここ5年はネオニコチノイド系でEUなら暫定禁止のクロチアニジンが使われてきた。日本で産卵するウミガメの3分の1が上陸する地域であり、散布地沿いには小学校の通学路も通っている。東京電力福島第一原発事故由来の低線量被ばくと長く向き合っていかざるをえない時代だからこそ、農薬のような“減らせる脅威”はできる限り抑え、負の相乗効果を避けたい。 星川 淳(ほしかわ・じゅん) 【琉球弧北端から】サンゴの白化から温暖化懐疑論を再考する(2013/09/05朝日新聞WEBRONZA) 私は科学者ではないが、屋久島の自然を30年間ゆるやかに定点観察してきた経験から、気候変動に関しては確かな体感がある。かつては珍しく、育ててもなかなか甘い実をつけなかったパパイヤが作物として定着したり、夏の蓄熱による海水膨張で秋口の満潮時水位が年々微妙に高止まりしたり、漁師の息子から直に海水温上昇の実態を聞いたりと、傍証的なエピソードには枚挙のいとまがない。確証がなくても、温暖化の進行で予想される地球史・人類史的な悪影響の大きさから、予防原則にもとづいて可能な手を打つべきだと考える。ところがこのところ、世界的に気候変動防止への取り組みは停滞気味だし、とりわけ日本では3・11以降「温暖化説は原発推進派の陰謀」という懐疑論が広がり、昔から原発にも気候変動にも警鐘を鳴らしてきたNGOなどは困惑気味だ。温暖化トンデモ説がこれほど世論に浸透した先進国は少ないかもしれない。名だたる反原発論客の何人かが温暖化を否定する影響も大きいだろう。もともと“原子力ムラ”は、原発を推進するために荒唐無稽な屁理屈やウソを重ねてきた。初期には「電気代がタダになる!」という売り文句さえ流れた。1990年代に推進派が「原発は温暖化防止の切り札」と言い出したとき、それがご都合主義の最新プロパガンダにすぎないことは明白だった。7℃も温度を上げた冷却排水を全国52基の原発から、日本列島の総河川流量の4分の1にあたる年間1千億トンも沿岸に吐き出すほうがどれだけ直接的な温暖化要因か、容易に想像できる。 その証拠に3・11後の稼働停止により、原発銀座の若狭湾や鹿児島の川内原発周辺で、長期にわたる高温適応からもっと南のものに入れ替わっていた海の生き物たちが、かつての様相を取り戻し始めたとの報告もある。原発憎しから温暖化否定に傾く必要はない。そもそも、気候変動を「(地球)温暖化」と通称することが誤解を招きやすい。本来はやはり“変動”であり、英語の通称の一つである「気候カオス」が的を射ている。つまり、地球の気候システムが相転移局面に入ってゆらぎを強め、場所によって、また時期によって異常に暑くなったり寒くなったり、海からの蒸発活性化や、氷河など固定水から流動水への移行促進により総量増加中の水循環の乱調と密接に絡み合いながら、しばらく予測のつきにくい暴走が続く見通しだ。「しばらく」が数十年になるのか、数百年あるいは数千年のオーダーになるのかも定かでない。 夏の夕方、久しぶりに妻とスノーケリングでひとときの海中散歩に出て、こんな現実を噛みしめた。連載開始、よろしくお願いします。 |