沢田 研二(さわだ けんじ、1948年6月25日 - )は、日本の歌手、俳優、作詞・作曲家<Wikipedia>。本名、澤田 研二。ニックネームはジュリー(由来は沢田本人が女優のジュリー・アンドリュースのファン)。鳥取県鳥取市生まれで京都府京都市出身。京都のダンス喫茶「田園」でドアボーイのアルバイトをしている時にサンダースに声をかけられ、17歳の沢田はローディー兼ボーカリストになる。 ザ・タイガースの解散後、沢田は1971年2月1日、新たなバンド・PYGに参加する。当時、欧米で結成されたブラインド・フェイスやプラスチック・オノ・バンドのようなスーパーバンドを模した形で、ザ・スパイダースから井上堯之と大野克夫、ザ・テンプターズから萩原健一、大口広司、ザ・タイガースから沢田と岸部修三という6人のメンバーによって結成された。このバンドは沢田と萩原によるツインボーカルで、井上、大野、岸部ら作詞や作曲ができる技巧派が揃い、本格的なニューロックを目指した。音楽的には「花・太陽・雨」、「自由に歩いて愛して」など、哲学的で重厚なサウンドの佳曲を発表。短い活動期間だったが、「バンドサウンド」「バンドメンバーによる音楽作り」という現在に至るまで一貫した沢田のミュージックスタイルの基礎となった。 〈速報〉沢田研二「65歳、前期高齢者です」(2013/06/29朝日新聞) 息を切らしながら、「もう5キロもやせたでしょうか。とにかく、とにかく、歌うぞー」と叫ぶなど、気合は若い歌手にも負けていなかった。「ジュリー!」と掛け声が飛ぶ中、「勝手にしやがれ」「TOKIO」「サムライ」などおなじみのヒット曲を次々に披露。「カサブランカ・ダンディ」の間奏では口に水を含んで吹き出す人気パフォーマンスでファンを喜ばせた。12月3日からザ・タイガースのコンサートツアーが始まる。沢田、加橋かつみ、岸部一徳、瞳みのる、森本太郎のフルメンバーで8公演を行い、12月27日は東京ドーム公演を開催する。 沢田研二は止まらない 「被災地の人に歌残せるかな」(2013/03/12朝日新聞) そういう判断ができる人がうらやましかった」中止した舞台「探偵」は、しばらく間を置いて、巡演を再開したが、「正直どうしたらいいんだろうと途方に暮れる感じもあった」。新作は、その「探偵」の続編だ。ジュリー演じるのは、バーのマスターで実は探偵という役どころ。依頼人(南野陽子)から婚約相手の身辺調査を頼まれたところから事件が始まる。登場人物やバーの設定はそのままに、時代が前回の1970年代から50年代へ、と巻き戻る。節目節目で出演者の歌が入る。実は音楽劇は10年以上続けるライフワークの一つ。新作のストーリーと震災は直接関係ないが、前作の上演状況が頭をよぎることがある。 「でも僕は立ち止まるわけにはいかない。動いている人間は動かないと」歌い手としては、震災後の日本に、より先鋭的にメッセージを投げかける。昨年のCDでは反原発を直球で歌った。11日発売の4曲入りの新譜では、毎週金曜の反原発の官邸前デモや復興への思いを歌った。「決して忘れない人が一人でも多くいないと。僕は今さらヒットを出すということは考えにくいけど、被災地の人に歌を残すことはできるかな」反原発歌手と取り上げられることも増えた。「人の先頭に立つつもりはない。無理をしないで続けたいなあと思っているだけ」と照れたように話す。いずれ音楽劇でも3・11はテーマになるのだろうか。 「やらなければ、とも思うんだけど、お客さんが望むかどうかは分からない。僕がやってふさわしいかというのもあるしね」14〜26日、東京・新宿の紀伊国屋サザンシアター。問い合わせは、ココロ公演事業部(03・3355・7393)へ。福岡、名古屋などにも巡演する。 反原発歌うジュリーに拍手(2012年5月18日朝日新聞) 俳優の山本太郎氏が「反原発」を表明した途端に干され、窮地に立たされた報道を目にし、日本は何と言論の自由が保障されない国かと情けなく思った。一方、ベトナム戦争時、米国で反戦を訴えたジョーン・バエズ、ボブ・ディランらの歌手たちは、実に輝いて美しかった。言論の自由のもと、意見を素直に述べ合うことによってしか本当の「世論」はできてこない。いまこそ、この教訓を踏まえて行動したい。 ザ・特集:沢田研二さんに会いに行く 「震災」「脱原発」への思い 自分の言葉で歌いたい ◇売れなくなって考えた 何が一番大事なのか ちゃんと言わないと恥ずかしい ◇立ち直っていない人、きっと多い 「頑張らなくていい」「大丈夫」言い合える曲、作りたかった 舞台には、黒いタキシードのジュリーが汗を光らせて立っていた。昨年12月23日、パシフィコ横浜・国立大ホールでのコンサート。ザ・タイガースのメンバー、瞳みのるさん、森本太郎さん、岸部一徳さんが加わったツアーで、若い頃より太ったジュリーは、おなかの肉をつまんで「あげるよー」とメンバーに投げつけるふりをしたりしながら、「僕のマリー」など代表曲を次々披露。会場の“元若者たち”もすごく楽しそうだ。 一方、ロビーでは「さようなら原発1000万人署名」が行われていた。作家・大江健三郎さんらによる脱原発を求める活動だ。女性たちが次々に署名していく。なんだか甘いマスクでダンディーなイメージが変わっていく……。15日から4月半ばまで、東京、大阪、名古屋で上演される音楽劇「お嬢さんお手上げだ」。その稽古(けいこ)場を訪ねた。ジュリーは素顔のまま、アロハシャツ姿で、首にタオルを巻いて現れた。 「ま、歌の仕事もそうなんですけど、僕は大体が積極的にやるっていうたちじゃないんです。でも脱原発は賛成なので、自分なりに何ができるかな、と。それも会場に来た人に『署名を』とお願いするのではなく、気が付いて賛同する人は署名すればいいし、そうでない人はやらなくていい。いろんな人がいていいんじゃないの、というのが僕のスタンスだから」 淡々としている。でもこれだけではない。11日発売のCD「3月8日の雲」は、4曲すべて東日本大震災がテーマだ。こんな目に遭うなんて情けない、胸がしぼむ、と歌うタイトル曲。みんな流されて君ひとりが残った……と始まる「恨まないよ」。頑張らなくていい、泣いていい、でも笑って生きていくしかないという「カガヤケイノチ」。そして、大ヒット「TOKIO」以上にポップなリズムで、この国は一体何を護(まも)るのか、バイバイ原発!と繰り返す「F・A・P・P」(フクシマ・アトミック・パワー・プラント、福島原発の意味)。 すべてジュリーの作詞だ。しかも「がんばろう」も「絆」も出てこない。「危険なふたり」「勝手にしやがれ」……。調査会社オリコンによると、1968年からの20年、最も多くのシングルレコードを売り上げたのは美空ひばりさんでも山口百恵さんでもなく、ジュリーだ。 ブンブン売れていた頃、多くを人にまかせていた。曲のイメージも、派手な衣装も。阿久悠さんのカッコいい歌詞は「実は好きじゃなかった」という。「売れている時はそれでもいい。売れなくなって真剣に考えるようになるんだよね」30代半ば、ヒットが減っていく。「でもみんなが言うの。『ジュリーは派手でいくべきだ』。本人がもう無理無理って思っているのに」85年に大手プロから独立してからも10年近く迷い続けた。 「資金もないし、セットとかいろんなことを削って削って、結局何が一番大事なのかとなった時、思った。売れる売れないはもう違う。やっぱり『あいつはちゃんと考えている』と思われないと応援する気にならないよな、と」。コンサートに回帰した。嫌いな曲はもう歌わない。08年、東京ドームで約3万人を集めて「人間60年 ジュリー祭り」を開催。憲法9条を守ろうとの思いを込めた「我が窮状」も発表した。それにしても、大震災という生々しい出来事を歌うのには、ある意味、勇気がいる。 「いや、こっちに邪気がなかったら大丈夫なんです。これで売れたいとか下心があったら『被災者の気持ちじゃない』と言われたら困るけど、下心がなければ『いや、これ僕の気持ちなんだもの』って。それで十分じゃないですか」あっさり、そう返された。「テレビや新聞には、元気で、前向きな被災地の方々が出てくるでしょう。けなげだし立派だけれど、一人になったら泣いているんじゃないかな、と思う。立ち直っていない人の方がきっと多い。 でも立ち直れないまま、自分のやるべきことを黙々とやっている、そういう人も多いでしょう。だって、昔から人間はそうやって生きてきたから」だから「頑張ろう」ではなく、被災した人もそうでない人も「きっと大丈夫」「こういう気持ちだよね」と言い合えるような曲を作りたかった。CDのタイトルは自分の体験からだ。昨年3月8日、空の雲を見て写真に撮った。3日後に大震災とは夢にも思わずに。誰もがそうだったよね……そんな思いを込めた。 それでももう一度、聞いた。被災地の人が聴いてどう感じるか、怖くないですか。「もちろん怖さはあるけど、それはどんな歌でも同じでしょう。一緒に頑張ろうという曲だって嫌な人はいる。ただ、みんな絶対、わざわざ原発の歌なんて作らないでしょうね」アハハハハ、と大笑いしてから続けた。「結局、自分の言葉じゃないと歌えなくなったんですね。古い曲もヒット曲も歌う。 でも新しい曲は自分の気持ちを、自分の方法で歌わないと、純度が下がる」どきん、とした。あなたはあなたの言葉で記事を書いている?と問われたようで。インタビューの間中、ジュリーは首のタオルを取らなかった。まるで、かつてのようにカッコいいヒーローとして派手に書かないでくれ……そう言っているみたいだ。 79年公開の映画「太陽を盗んだ男」。ジュリーは、原発からプルトニウムを盗み原爆をつくって政府を脅迫する理科教師を演じた。原発には当時から関心が? 「9条も含めて、売れている頃は、そういうことは考えないようにしていました。考えて何かしようとしても、きっと周囲が止めると分かっていたから。でも、こんな年齢になったから、ちゃんと言っていかないと恥ずかしいよね。集会やデモの先頭に立って、ではないけど。だって自分に無理のない方法でやらないとしんどいでしょう。だから俳優の山本太郎くんと仕事がしたい。脱原発を主張していてつらいと思うから」横浜のコンサートで、歌った1曲「怒りの鐘を鳴らせ」にこんな一節があった。 ♪目をさませ いくじなし お前が やるのだ 還暦を過ぎ、タオルを巻いてても、この人はカッコいい。多分、若い頃よりも。 http://mainichi.jp/enta/news/
言おうよ、言いたいこと タブーと向き合う2人に聞く(2012年5月4日朝日新聞) あれから1年あまり。被災地で炊き出しをする人。大声で支援を呼びかける人。でも多くの人は、気持ちはあるけど何をしていいかわからなかった。「僕もその一人でした」 歌手の沢田研二さん(63)。3月、被災地への思いを歌った4曲入りの新譜「3月8日の雲〜カガヤケイノチ」を出した。ジャケットに、あの雲の写真を使った。 「60歳超えたら余生。死ぬ準備をしているようなもの」だから。4年前、「我が窮状」という歌をアルバムの9曲目に入れた。「もう戦争をしないと誓った憲法9条を守りたい」と思う人たちに、「同じ気持ちだよ」とそっと伝えたかった。 その後も福島で、子どもを被曝(ひばく)から守る母親たちの活動を支援したり、玄海原発の再稼働に反対する佐賀県庁での抗議活動に加わったり。「客寄せパンダでいいんです」。現場に足を運び、取材も受ける。生活は一変した。予想通り仕事は激減。ツイッターに「原発関連の発言が原因でドラマを降板した」と書き込むと、ネット上で「降板させたテレビ局はどこだ」という犯人捜しが始まった。「関心の矛先がずれて喜ぶのは、国や電力会社。浅はかだった」 芸能界に「反原発」と声を上げる人が少ないのがわかった気がした。そんななか、歌手の沢田研二さんが応援してくれていることをツイッターで知った。コンサート会場に反原発の署名用紙を置いていることも。「いまこの国が置かれた状況に対し、メッセージを発信してくれていることが心強く、うれしかった。僕にとっては今でもスター」後悔はない。「いま声を上げないと、この国の未来を諦めることになるから」先月18日、3カ月の契約社員として採用された太陽光発電システムの販売会社の入社式に出た。新調したスーツは、靴代も含めて3万円だった。(山本亮介) ひそやかジュリー流を応援(2012年5月14日朝日新聞) |