特集ワイド:原発の呪縛・日本よ! 作家・澤地久枝さん ◇「絶望した」言うまい−−澤地久枝さん(82) 「16日の夜、何時ごろかしらね、大勢を知ってがっかりしましたよ。憲法9条、脱原発……一生懸命に訴えてきたつもりだったけど、有権者は目の前の利益を守るために投票所に行ったんだなって。しかも今の憲法になり、誰もが投票できるようになってから最低の投票率。恥ずかしいことです。 4割の人は政治に無関心というのか、飽き飽きしちゃったんですね」不思議にも声の張りはみじんも失われていない。「だって、こんな結果になったからこそ、いつまでもがっかりしてはいられないでしょう。16日に全部が消えたわけじゃない。私は何があっても『絶望した』とは言いたくないの」 文壇きっての反骨の人は早くも「反攻ののろし」を上げようとしている。 2・26事件、ミッドウェー海戦、そして自ら情報公開訴訟の原告を務める沖縄返還を巡る日米密約文書……。昭和史の中の声なき人の声を掘り起こし、歴史の真相を語り継ぐことを使命としてきた。原点は、14歳で経験した中国大陸での敗戦と残留生活の辛酸。戦争がどれだけ暮らしを踏みにじるか、国家がいかにやすやすと個人を見捨てるかを目の当たりにした。戦争放棄、平和主義を定めた憲法を守ろうと訴える「九条の会」の呼びかけ人も務める。 そんな作家にとって、福島第1原発事故の被害と向き合うのは必然だった。「雇用や補助金というしがらみにがんじがらめにされ、日本全体が抱える問題のツケを押しつけられる。米軍基地を抱える沖縄と原発が立地する地域がダブって見えるんです」事故で放出された放射性物質は町の境、県の境を越え、さらに海を通じて他国にまで影響を及ぼそうとしている。 「原発事故の対応は一国だけにとどまるものではありません。他国で起きた場合もしかり。原発問題については視野を広げ、地球規模で考えないと。その時に重要なのは他国との信頼関係であり、その根本となるのは、国際社会とともに生きると誓った平和憲法です。今こそ、その原点に立ち戻るべきなのです」その行動力は、とても80歳を超えた人とは思えない。全国運動の「さようなら原発1000万人アクション」の呼びかけ人となり、作家の瀬戸内寂聴さん(90)らとともに経済産業省の敷地内で大飯原発再稼働阻止のためのハンガーストライキに参加。「九条の会」の同志で作家の大江健三郎さん(77)らと首相官邸に行き、野田佳彦首相に脱原発を求める751万人分の署名の一部を渡した。 実は今回の衆院選で、活動をともにする仲間内から、信頼できる独自候補を出そうという声もあった。原発ゼロと福島の人たちの生活場所と仕事の確保をスローガンに掲げることまで煮詰めたが、準備期間や意見の違いで実現しなかった。「やれることは全てやればよかったかもしれない」と振り返る。 全国の集会にも足を運び、脱原発を訴え続ける。「集まって話を聞いてくれる人たちからエネルギーを受け取り、その力が私をまた次の場所に向かわせるの。人の気持ちが人を動かすのです」人を動かすのは人の気持ち−−そのことを教えてくれた一人が、07年に75歳で亡くなった作家の小田実さんだ。「彼が今生きていたら何を言うかしらと、常に自問しています。例えばこの選挙結果」。強い口調だった。 「『前回、同じ選挙制度で政権交代させたんだから、新しい政権を厳重に監視して、また次に奪還すればいいんや』って、きっとそう言うでしょうね。世の中を変えるのは大きな力を持つ人間じゃない、同じ志を持った小さな人間たちなんだというのが口癖だったから」その「監視」すべき新政権は26日に誕生する。自民党の安倍晋三総裁は国防軍構想を打ち出し「憲法を変える」と明言している。 「前回政権担当時にも増して、日本を戦争のできる国に持って行こうとしていますね」。原発については公明党との政策協議で「依存を減らす」としたが、脱原発への動きは鈍い。 希望はある。昨年の震災を経て、この国の市民社会は明らかに変わったという実感があるからだ。「自分で考え、自分の意見を持ち、自分で動こうという人たちが一人一人立ち上がって官邸前に向かった。ああ、日本は変わると思いました。選挙の結果には結びつかなかったかもしれないけれど、政治家には非常な脅威だったはずですよ」街頭で見かけた若者たちが脳裏に刻まれている。一人は奇抜なファッションで楽器を演奏しているが、よく見ると傍らに立つ別の一人が候補者の名前を書いた小さな紙片を持っている。 やがて少し離れた場所にその候補者が現れ街頭演説を始めたが、演奏はやまず、候補者が車で去った後も続いた。はっと気付いて胸が熱くなった。「既存の選挙運動の外で、自分たちのやりたい方法でメッセージを伝えている。すごいことよね」満身創痍(そうい)の人でもある。昨夏、自宅で転んでひざを骨折し、2カ月入院。年末には脳梗塞(こうそく)で倒れた。今年に入っても、経産省ハンスト後に受けた心臓ペースメーカーの検査結果が思わしくなく緊急入院した。 「この選挙中、少し無理したら体がむくみ、数日で体重が2キロも増えていたのね。もう思うようには動けない。でも、こんな選挙結果を突きつけられると、私のような病の身でさえ何かやらなきゃいけないと思います。私だけじゃない、そう思う人たちが運動の核になればいい。その周りに人は増えていく。 核になれる人はあちこちに、いや日本中にいますよ」このインタビューの前々日には日比谷であった脱原発デモに顔を出した後、避難生活中の震災遺族の話を聞く会に参加。前日には言論の自由を考えるシンポジウムに出席した。「動ける限りは動こうと思うの。病院からも毎回、なんとか生きて帰ってきている。あまり先のことは考えないんです。人はね、必要な間は生きているんですよ」。そう言って、ふふ、と笑った。 立ち上る炎のような強さを感じた。出会い、言葉を交わした人すべてに思いは流れ込んでいく。人の気持ちが人を動かす。 【藤田祐子】
1930年東京生まれ。4歳で家族と旧満州(中国東北部)に渡り、46年帰国。中央公論社に勤務しながら早大第2文学部を卒業。63年退社後、ノンフィクション作家に。「滄海(うみ)よ眠れ」など。 |