〈ニッポン人脈記〉石をうがつ:13(2012年9月21日朝日新聞)
隠れた事実 拾い集めて
小林圭二(こばやしけいじ)(73)が会場を一番最後に出た時、周囲はすでに暗くなっていた。近づく人影が一つ。よく見ると、京都大学の原子核工学科でともに学び、山にも登ったかつての友だった。こうして向き合うのは何年ぶりか。1997年春、原子力学会でのことだ。当時、京都大の原子炉実験所の助手だった小林は、研究者仲間との関係を自ら絶っていた。福井県敦賀市にある高速増殖炉「もんじゅ」をめぐる訴訟で原告側に請われ、国の設置許可を覆そうと証拠を集めていた。学生時代からの友人、知人の多くは「原子力ムラ」の住人だ。自分と親しいことがわかれば立場が危うくなる。年賀状も出さないと決め、学会で会っても目礼にとどめた。そんな中での、友との再会だった。
居酒屋に入り、たわいもない話をして杯を交わした。その友とも、以後、会うことはなかった。「夢の原子炉」。高速増殖炉は次世代の原発としてそう呼ばれた。プルトニウムを使い、消費した以上の燃料を生み出すとされ、発電プラントとしての性能を実証するためにつくられたのが「もんじゅ」だ。
しかし、プルトニウムは毒性が強く、冷却剤のナトリウムは水に触れると大爆発を起こす。危険性を訴える福井県の住民は85年、海渡雄一(かいどゆういち)(57)らを弁護団に据えて提訴した。壁は厚かった。情報が開示されない上、研究者は限られ、協力者が見つからない。
弁護団は、茨城県東海村の専門施設でも研究に携わった小林に再三協力を求めた。小林は、京大原子炉実験所で反原発の立場をとった「熊取6人組」の1人だ。その小林も、人間関係が失われることを考えて長くためらったが、「専門家として責任がある」と最後に腹を決めた。
日中に本来の仕事をこなし、時間外に裁判の資料集めに取り組む日々。世界中の文献に当たり続けた。東京の国会図書館にも、夜行バスで交通費を倹約しながら通った。98年11月。小林は、動力炉・核燃料開発事業団(動燃)の技術者が書いた論文にあった注釈からたどり、新事実が書かれた報告書の存在を知る。
もんじゅの設置主体だった動燃が81年に実施した蒸気発生器の試験で、伝熱管に高温破裂という現象が発生していたことが記されていた。裁判でただすと、監督官庁の科学技術庁は94年、原子力安全委員会には98年になるまで報告がなかったこともわかった。もんじゅの設置が許可されたのは83年。その前の安全審査で不利になる事実を隠していたことを意味した。
海渡も、行きつけの古書店で重要な資料を発見する。動燃が82年につくった内部報告書。炉心崩壊が起きたときの爆発エネルギーを、安全審査の際に低く見積もっていたことがわかる内容だった。「供覧、複製、転載、引用等は絶対に行わないように」と記されたその冊子が、どんな経緯で流れてきたかはわからない。古書店で付いた値段は3千円だった。
2003年1月。名古屋高裁金沢支部は一審判決を覆し、原子炉の設置許可を無効とする判決を出した。国の安全審査について「無責任で、ほとんど審査の放棄といっても過言ではない」と指摘した。各地の原発訴訟で初めて住民側が勝った判決。小林が携わって13年が経っていた。もんじゅ裁判はその後、最高裁で再び結論が覆った。
「安全審査の対象となる大枠の基本設計は不合理とはいえない」とし、05年に原告が敗訴して確定した。それでも小林は「あの高裁判決は、年を重ねるごとに私の心の支えになっている」と言う。国策で進められたもんじゅは、95年に火災を起こして停止。10年に運転を再開したが、またトラブルが起きて今も止まったままだ。この事実が、自分たちの正しさを何より語っていると思う。
小林は9年前に定年で実験所を退き、市民運動にも加わってきた。この6月には、福井県おおい町へ。悪くなった足を引きずりながら、若者たちと大飯原発のゲート前に座り込み、再稼働に反対の声を上げた。道は遠いが、いつか扉は開く。その思いが、小林を支えている。(大久保真紀)
http://digital.asahi.com/articles/TKY201209200241.html
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