〈ニッポン人脈記〉石をうがつ:7(2012年9月10日朝日新聞) 当時は、予定地の住民を、すでに原発ができた地域に視察旅行に連れて行くのが常だった。金は電力会社が出す。地元漁協の幹部だった濱の父、清一(きよかず)も、誘われて何度か参加した。視察といっても実際は観光がメーンで、夜になればどんちゃん騒ぎだ。清一はあるとき、一行を離れ、網の繕いをしていた老齢の漁師に声をかけた。「俺は和歌山からきた漁師です。原発ができてから、どんな案配ですか?」 手探りの中、関西の反原発運動のリーダー的な存在だった大阪大講師の久米三四郎(くめさんしろう)、「6人組」と呼ばれる京都大原子炉実験所の研究者らを招き、勉強を重ねた。6人組の1人、今中哲二(いまなかてつじ)(61)は広島出身の被爆2世。濱はビラの作り方から今中に教えてもらった。 夜中に母校の小学校に忍び込み、約2千枚のビラを刷って新聞に折り込んだこともある。漁もまともにする時間がなく、運動のため月に4万〜5万円は持ち出しになった。「反対運動をやれとは言ったが、そこまでアホとは思わんかった」。あきれる清一に濱は言い返した。 「金もうけは原発止めたら、したる!」濱の頭からは、福井県の原発の近くで聞いた漁師の言葉が離れなかった。「放射能漏れもあったし、取った魚は子どもや孫には食べさせられん」。漁師としてこんなに悲しいことはない。一進一退が続くなか、推進派の町長が最後の勝負に出た。90年、漁協が開いた総代会でのことだ。 「わかった。調査のことはもう持ち出さん」。漁協も「反対」で意見を一つにまとめた。約1カ月後の町長選で反対派が当選し、日高町の騒動は終わった。濱が反対運動に費やした時間は14年に及ぶ。清一はその2年後、79歳で亡くなった。 「波満の家」はいま、クエ料理を看板に、長男の一也(かずや)(33)夫婦が濱とともに切り盛りする。次男の直喜(なおき)(30)は漁師になり、今では指折りの水揚げを誇る。民宿はこの夏も多くの家族連れを迎え、大忙しだった。「6人組」は毎夏ここで合宿し、交流は続く。すぐ目の前には、昔と変わらぬ風景が広がっている。父から子へ、そして孫へ。海とともにある暮らしが受け継がれている。(大久保真紀) |