「小さな人間」が世界を動かす… 高橋氏、言葉の力強調(2016年5月4日琉球新報) (論壇時評)熱狂の陰の孤独 「表現の自由」を叫ぶ前に 作家・高橋源一郎(2015/01/29朝日新聞)0135 「意見というものの困った点は、私たちはそれに固着しがちだという点である……何ごとであれ、そこにはつねに、それ以上のことがある。どんな出来事でも、ほかにも出来事がある」・・・ やはりイスラム過激派によるテロがフランスで起こった。「預言者ムハンマド」の風刺画を出した週刊紙「シャルリー・エブド」編集部が襲撃され、十数人が亡くなった。「表現の自由」が侵害されたとしてフランス中が愛国の感情に沸き立つ中で、フランスを代表する知の人、エマニュエル・トッドは、インタビューにこう答えた〈3〉。 「私も言論の自由が民主主義の柱だと考える。だが、ムハンマドやイエスを愚弄(ぐろう)し続ける『シャルリー・エブド』のあり方は、不信の時代では、有効ではないと思う。移民の若者がかろうじて手にしたささやかなものに唾(つば)を吐きかけるような行為だ。ところがフランスは今、『私はシャルリーだ』と名乗り、犠牲者たちと共にある。私は感情に流されて、理性を失いたくない。今、フランスで発言すれば、『テロリストにくみする』と受けとめられ、袋だたきに遭うだろう。だからフランスでは取材に応じていない。独りぼっちの気分だ」・・・ヨーロッパの移民社会の若者たちは貧困と差別の中で、行き場を失いつつある。明るい希望がないなら、せめての希望は、自分を受け入れない豊かな社会が壊れる情景を見ること、となるだろう。この、社会の深刻な分裂を糧にして、移民を排斥する極右は不気味に支持を伸ばしている。だが、これらすべては、わたしたち日本人にとって「対岸の火事」ではない。この国でも、貧困と差別は確実に拡大しつづけているのだから。
(論壇時評)自由の足元 支配と服従が横行する国 作家・高橋源一郎(2014年10月29日朝日新聞) だが、その底に、フェミニズムがあり、デザインによって、女性の身体や衣服に関する偏見や拘束に立ち向かおうとしたことは間違いないだろう。川久保はこの夏、パリのコレクションで、軍服をモチーフにした作品を発表し、大きな話題となった。テーマは「反戦」。川久保は「私は服で何かを積極的に発信するのは好きじゃない。だが、今回はやることにした」と語っている。元は軍服だったかもしれないその服は、カラフルに壊され、正反対の性質のものに変化しているように思えた。その川久保に呼応するように、先月末、もうひとりのデザイナー界の雄、カール・ラガーフェルドが、主宰する「シャネル」のショーのラストであっと驚くことをやってのけた。スーパーモデルたちにハンドマイクやプラカードを持たせ、パリの街頭を模した会場をデモ行進させたのだ。 プラカードに書かれた文字が楽しい。「戦争ではなくファッションを」「男も子どもを産んでみればいい」「歴史を作ったのは女たちだ」「ひとりひとり違っていてもいいじゃないか」これに対して、フェミニズムを商売にするもの、あるいは、痩せた白人モデルばかりで胡散臭(うさんくさ)い、との批判もあったが、ラガーフェルドは、(反移民や反同性婚を標榜〈ひょうぼう〉する)政治党派・国民戦線の伸長がこの国の自由を奪おうとしていることをささやかながら訴えたかった、と応えた。どちらも、ファッションという文化がその根に持っている、強い自由への希求を感じさせる事件だったように思う。 『ネットと愛国』で知られる安田浩一の新しいルポ「外国人『隷属』労働者」を読み、強い衝撃を受けた。わたしたちの国には「外国人技能実習制度」というシステムがあって、「技能」を学んだ後、「実習生」として滞在することができることになっている。だが、実際には、「技能」の「研修」などないに等しく、外国人は単に「安価な労働」として取り扱われているにすぎない。 安田は、恋人の家に外泊したために、強制帰国させられそうになった例をあげているが、彼女が会社と交わした契約では、恋愛や妊娠(や携帯電話を持つこと)は禁止であり、強制帰国させられるのだ。転職(職場移動)の自由がなく、強制帰国の例が後を絶たず、正常な労使関係が存在せず、支配・服従の関係が横行する制度がまかり通っている。実習生たちの労働問題に取り組むある団体の責任者は、ワシントンで国務省の幹部から「実習制度は廃止すべきだ。 米国の基準であれば、あれは人身売買以外の何物でもない」と言われた。外国人だから自由も人権も奪われていても気にならない、という社会では、自由や人権も空語でしかないだろう。 「週刊東洋経済」の特集「ビジネスマンのための歴史問題」が異彩を放っていた。特集では、日・中・韓の間にある歴史問題を、丁寧に指摘している。その視点は、「日本の外からはどう見えているか」で、冷静さが際立つ。いったいなぜ、一経済誌が、こんな特集を、と思ったが、途中の「石橋湛山(たんざん)のアジア認識に学ぶ」という小特集ページを見て、疑問が解けた。 石橋湛山は、「週刊東洋経済」の前身「東洋経済新報」に拠(よ)り、明治末年から長く、「日本の領土拡大・権益獲得の方針に一貫して強い批判を続けた」。ラディカルなリベラリズムの立場から、湛山は、言論の力のみで、政府・軍部に戦いを挑んだ。「アジア大陸に領土を拡張すべからず」と主張し、冷静な経済分析から、植民地支配は経済的利益などもたらさず、支配地の人びとの反感が、逆に、日本の経済的発展を妨げる、と訴えた。 だが、湛山の主張の白眉(はくび)は、1931年の「満蒙問題解決の根本方針如何(いかん)」だろう。この社説で、湛山は、高まりつつあった中国の排日運動について、排日運動を支えるナショナリズム教育は、実は、日本もまた明治維新以来やってきたのと同じだ、と書いた。 「我が国民がいかに支那を知らざるかは、前々号に述べたる排日読本に対する我が国民の認識不足によって見てもわかる。と同時にこれはまた我が国民が我自らを識(し)らざる証拠とすることも出来る」他国のことを知らない国民は、結局、自分たちのことも知らないのだ。湛山は、戦後72歳で総理大臣になったが、病を得て、2カ月で辞任した。その後も、自由と平和を語り続け、1960年には「憲法を空文化」しようとする「歴代の保守党政府」を批判し、73年、88歳で亡くなった。半世紀にわたる湛山の評論活動を収めた『石橋湛山評論集』を読むと、湛山のことばが、いまもまったく古びていないことがわかる。「シャネル」の創業者で「女性の身体を自由にした」ココ・シャネルと石橋湛山、実は同時代の人である。 http://digital.asahi.com/articles/DA3S11428817.html (論壇時評)僕らの民主主義 少数派からの「ありがとう」 作家・高橋源一郎(2014/05/31朝日新聞) その地下施設の中心部で、急進的な反原発派でもある監督が、インタビュアーとして、施設の責任者たちに直接、質問をぶつける。厳しい質問に、時に、彼らは絶句し、苦悩し、それでも逃げることなく答え続けようとしていた。この映画が可能になったのは、「すべて」を見せることを、フィンランド政府がためらわなかったからだろう。わたしが、原発に反対するフィンランド国民だったとしても「あなたたちの考え方には反対だけれど、情報の公開をためらわず、誠実に対応してくれてありがとう」といったと思う。そこに存在していたものが民主主義だとするなら、わたしたちの国には、まだ民主主義は存在していないのである。・・・ (論壇時評)戦争の傷痕 すべて解決済みなのか 作家・高橋源一郎(2014/01/30朝日新聞) そこに登場していたのは「元日本軍在日韓国人傷痍(しょうい)軍人会」の12人だ。日本の軍人として戦った彼らは、戦争によって手や足や視力を失った。なのに、戦後、韓国籍になった彼らには、軍人としての恩給は支給されなかった。日本政府に訴える彼らに政府は「あなたたちは韓国人だから韓国政府に陳情せよ」といい、韓国政府に訴える彼らに政府は「その傷は日本のために受けたものだから日本政府に要求せよ」という。だから、彼らは、その無残な体を見せつけるように、街頭に現れ、日本人に直接訴えたのだ。 「眼(め)なし、手足なし、職なし、補償なし」という旗をかかげ、募金をつのる異形の者たちに、戦後18年、急激に復興しつつあったこの国の人たちが向ける視線は冷ややかだ。つかの間の慰安を求めて、安い酒を飲んでも、彼らの口をついて出るのは日本の軍歌だった。番組の後段、片手と両眼を失った元日本人軍属、ジョ・ラクゲンは自らサングラスをとる。国家と歴史に翻弄(ほんろう)された男の、潰れた眼から涙がこぼれる。彼がもし戦死していれば、靖国に「英霊」として祀(まつ)られただろう。だが、生き残った者には金を払わないのである。最後にナレーションは、ほとんど叫ぶようにこういう。 「日本人たちよ、わたしたちよ、これでいいのだろうか? これでいいのだろうか?」 その問いは、この半世紀の間に答えられたのか。問題は、すべて「解決済み」なのだろうか。ニューズウィーク日本版が繰り返し載せた「靖国」に関する論考〈3〉からは、内向きで感情的な議論になりがちな、この問題を、冷静にとらえようとする「外側の視線」が感じられた。「劇場化する靖国問題」の筆者たちは「今の日本には『2つの靖国』が存在している」と書く〈4〉。それは、「中国と韓国がむき出しの感情をぶつけ、結果的に外交の道具と化した『ヤスクニ』」、そして「外国からの批判に惑わされ、日本人自身が見失ってしまった慰霊の場としての靖国」だ。それぞれの国内事情から「ヤスクニ」を外交カードとして使わなければならない中国や韓国、また、それに対抗するうちに、「慰霊」の場としての靖国を忘れそうなこの国。日本遺族会会長であり、父をソロモン沖で失った尾辻秀久参院議員は「苦い思いをかみしめ」ながら、この混乱は、日本人が自らの過去と向かい合ってこなかったツケだ、という。合祀(ごうし)されたA級戦犯たちの問題がいつまでもくすぶり続けるのは、日本人自身の手で彼らの責任を問わなかったからではないか、と〈5〉。 わたしの親しい週刊誌記者が、ある時、「嫌韓」や「反中」記事なんか書きたくないが、売れるから仕方ないといったことがあった。だが、メディアには、冷静さを取り戻そうとする動きもある。週刊現代の特集は「『嫌中』『憎韓』『反日』 何でお互いそんなにムキになるのか?」〈6〉。「憎しみの連鎖」が続く現状を「常軌を逸している」とし、それぞれの国の事情を取材しつつ、日本人の根底にある「差別意識」に触れる。「憎しみに気をとられるな」という声が聞こえる。社会に溢(あふ)れる「憎しみ」のことばは、問題を解決できない社会が、その失敗を隠すための必須の品なのだ。 * 最後に、わたしの個人的な「靖国」について書いておきたい。父親のふたりの兄はアッツ島とフィリピンでそれぞれ「玉砕」している。大阪に住んでいた祖母は、上京すると靖国に詣でた。そんな祖母に、わたしの父親はこういって、いつも喧嘩(けんか)になった。 「下の兄さんの霊が、靖国になんかおるもんか。あんだけフランスが好きだったんや、いるとしたらパリやな」 では、その、わたしの伯父は「英霊」となって靖国にいるのだろうか、それとも、パリの空の下にいるのだろうか。父は、兄たちが玉砕したとされる日になると、部屋にこもり、瞑目(めいもく)した。それが、父の追悼の姿勢だった。もちろん、父は祖母の靖国行きを止めることもなかった。「忘れられた皇軍」兵士、ジョ・ラクゲンは父と同い年だ。伯父の霊は、靖国にもパリにもいないような気がする。「彼」がいる場所があるとしたら、祖母や父の記憶の中ではなかっただろうか。その、懐かしい記憶の中では、伯父は永遠に若いままだったのだ。「公」が指定する場所ではなく、社会の喧噪(けんそう)から遠く離れた、個人のかけがえのない記憶こそ、死者を追悼できる唯一の場所ではないか、とわたしは考えるのである。 * 〈1〉籾井勝人(もみいかつと)NHK新会長の発言(記事「従軍慰安婦『どこの国にも』」=本紙26日付) 〈2〉大島渚監督「忘れられた皇軍」(日本テレビ・ノンフィクション劇場=1963年放送) 〈3〉「靖国参拝はお粗末な大誤算」ニューズウィーク日本版1月14日号、特集「劇場化する靖国問題」同1月28日号 〈4〉前川祐輔・深田政彦「劇場化する靖国問題」ニューズウィーク日本版1月28日号 〈5〉尾辻秀久参院議員の発言(記事〈4〉で紹介されたもの) 〈6〉「『嫌中』『憎韓』『反日』 何でお互いそんなにムキになるのか?」週刊現代1月25日・2月1日合併号 ◇ (論壇時評)愛を強いる支配 ここは、DV国家なのか 作家・高橋源一郎(2013/12/19朝日新聞)
秘密の内容や罰則適用について拡大解釈が危惧されている「特定秘密保護法」が、強い反対の下、可決・成立した。この法律の問題点については、多くのメディアが詳細に論じている。たとえば、秘密情報の専門家として佐藤優〈1〉は、特定秘密に該当する情報は国民のものではなく官僚のものになる、と警告し、外岡秀俊〈2〉は秘密保全に関する法の歴史をたどり直す。この法案に反対する約2千人の学者たちの代表が記者会見を行った、その映像をユーチューブで見ることができる。中でも、わたしは、平田オリザのこんなことばに強い印象を受けた〈3〉。「最近、わたしは大阪のある行政職員から封書をいただきました。なぜ封書かというと、大阪の職員は、メールは検閲される可能性があると、萎縮してしまっているのです。……このいやな感じは、東京にいるとわからないと思います。(特定秘密法の成立とは)それが国政で当たり前になるということです」 維新の会の政治家がトップを務める大阪の状況は、この法案とは、厳密にいうなら関係がない。けれども、平田は関係がある、と示唆するのである。今年になって目立ったのは、様々な社会的「弱者」がバッシングを受けたこと、「従軍慰安婦は戦争につきもの」という政治家や、「子どもが生まれたら会社を辞めろ」という女性評論家が現れたこと、そして、新しい政権が、強硬な政策を次々と打ち出し、対話ではなく力でその政策の実現を図ろうとしていることだった。さらに不思議なのは、力を誇示する政治家たちが、同時に力とはおよそ正反対な「愛(国心)」ということばを叫ぶことだった。 誤解を恐れずにいうなら、わたしには、この国の政治が、パートナーに暴力をふるう、いわゆるDV(ドメスティック・バイオレンス)の加害者に酷似しつつあるように思える。彼らは、パートナーを「力」で支配し、経済的な自立を邪魔し、それにもかかわらず自らを「愛する」よう命令するのである。平田が紹介した大阪職員は、「外部への発信」が「パートナー」に知られることを極度に恐れている。それは、DVでもっとも典型的な症候に他ならない。
わたしは、いま毎日、「特定秘密法」全文〈4〉と、「国家安全保障と情報への権利に関する国際原則」(通称「ツワネ原則」)の(膨大な)英和対訳全文〈5〉を持ち歩き、しょっちゅう読んでいる。妙な言い方だが、とても面白い。前者で特徴的なのは、そこで使われている日本語が奇妙であることだ。いわゆる法律用語で書かれた文章のいくつかはまったく意味がわからない。詳しい人たちの話を聞くと、通常の日本語では考えられないような意味になったりするらしい〈6〉。日本語でないとしたら、それは何語なのだろう。ほとんどの日本人に意味がとれないことばで書かれた「重要」法案とは何なのだろう。 一方、国家の安全保障と情報の権利に関して、長い討議の果てにできた「ツワネ原則」は、全ての人間に「公権力が保有する情報」にアクセスする権利があることを、民主主義社会の根幹であるとしていて、知る権利の価値を軽んじる「特定秘密法」の考え方と鋭く対立する。だが、「原則」で、わたしがもっとも感銘を受けたのは、「わかる」ことだ。およそ、ことばを理解することができる者なら誰でもわかるように「原則」は書かれている。「ツワネ原則」(の文章)は読むものすべての心を明るく、励ます。DV被害者へのアドバイスの多くは、こんな一文で終わっている。わたしがいま書くべきことは、実はそれと同じなのかもしれない。 ……自分を責めてはならない。明るく、前向きな気持ちでいることだけが、この状況から抜け出す力を与えてくれるのである。 〈1〉佐藤優「特定秘密保護法と統帥権」(創1月号) 〈2〉外岡秀俊「秘密保全の法律がいかに濫用(らんよう)されたか 現実を直視しよう」(Journalism12月号) 〈3〉平田オリザの発言が含まれた動画「特定秘密保護法案・2千人超の学者が廃案を要求」(http://www.youtube.com/watch?v=yBOBvrytChM) 〈4〉特定秘密法・全文(本紙12月8日付、ネット記事はhttp://digital.asahi.com/articles/ 〈5〉日弁連による「ツワネ原則」の全文日本語訳(掲載ページはhttp://www.nichibenren.or.jp/ 〈6〉たとえば、おがた林太郎「テロリズムの定義」 http://digital.asahi.com/ |
(論壇時評)戦争を伝える 知らない世代こそが希望だ 作家・高橋源一郎(2013/0829朝日新聞) 彼女たちは「だれも死にたくなんてなかった」と繰り返し叫び、次々に倒れてゆくのである。この、若い世代が作り上げた「戦争の物語」には、ひとつ大きな特徴があるように、ぼくには思えた。それは戦争を、単なる「過去の悲しい出来事」にはしない、という思いだ。戦争が「被害を受けた人たちが語る、苦しみの物語」であるなら、それはどんなに悲惨であっても、後からやって来る、そのことを経験しなかった人たちにとっては「他人の物語」にすぎない。 前の戦争は、日本人にとってもっとも「大きな記憶」でありつづけた。だが、それに代わる「大きな記憶」を作ることは難しい。なぜなら、現在の日本人の大半にとって、もっとも「大きな記憶」とは、実は68年つづいた「平和経験」だからだ。古市はこう言うのである。「僕たちは、戦争を知らない。そこから始めていくしかない。背伸びして国防の意義を語るのでもなく、安直な想像力を働かせて戦死者たちと自分を同一化するのでもなく、戦争を自分に都合よく解釈し直すのでもない。戦争を知らずに、平和な場所で生きてきた。そのことをまず、気負わずに肯定してあげればいい」「戦争の記憶」を語ることが「平和」への道筋であると考えてきた、多くの人たちは、古市のこの発言を、不快に、あるいは疑問に思うだろうか。 『敗北を抱きしめて』の著者ジョン・ダワーは新刊『忘却のしかた、記憶のしかた』で、過去から学びとることの困難さをテーマにした〈4〉。その中で、ダワーは、ある日本の保守主義者の書いたものに触れた。その人は、「日本が他国に侵略されたら祖国を守るか、と聞かれた日本の若者のうち、『はい』と答えたのは一〇%だった」とし、愛国主義的でなくなった日本の若者を強く批判した。だが、ぼくには、問いそのものが古めかしく感じられた。そして、そこで批判されている若者は、「cocoon」の少女やももクロとよく似ている。
(論壇時評)あの日から2年 忘れさせる「力」に逆らう 作家・高橋源一郎(2013/03/28朝日新聞) だが、それも束(つか)の間のことだった。すぐに、すべては元に戻った。先生は国が公認した「正解」を教える存在へ、生徒はその「正解」を暗記する存在へ、と。震災時、首相であった菅直人へのインタビューで小熊英二はこういっている〈2〉。「『再稼働反対』というのは、たんに大飯三号機と四号機という個別の原発を再稼働するのに反対という狭い意味だけではなくて、『三・一一以前の日本を「再稼働」するのは許せない』という意味だと私は解釈していました」小熊のことばを借りるなら、この国はいま、「三・一一以前再稼働」への道をまっしぐらに歩みつつあるように見える。 「今日は自己弁護や党派的利害を抜きに、本当のことを語っていただきたいのです。アメリカではこういった証言のさい、証言者は聖書にかけて、自分が知る限りの真実を語ることを宣誓します。本日は『歴史の法廷に立つ身』として、自らが命令を下された方々、犠牲になった方々へ向けて、宣誓をお願いいたします」異様な文言だ、と感じる読者も多いだろう。それは、ぼくたちが、これほどまで真剣に「本当のこと」を語れ、といわれることがないからだ。だが、「本当のこと」が語られないところでは、どんな責任もとりようがないのだけれど。このインタビューではもう一つ大きなテーマが扱われている。それは“原発というのは、最悪の場合には誰かに死んでもらう命令を出さなければならないものであり、日本にその仕組みがない”という問題だ。 そして、その答えがないまま、いまも、その問題に直面している原発作業員たちは座談会で、こう赤裸々にしゃべっている〈3〉。「収束」などしていない、「収束」したことにしたい人たちがいるのだ、と。あるいは、東電は事故前の体質にもどっている、と。そして最後に「世間」に向かってこう述懐するのである。「もう震災や原発事故は過去のことだと思っているのでしょうか」鷲田清一は、アーティストたちと震災の関わりについて書いている〈4〉。 その、外からやって来たアーティストは、やがて、その集落の「専属カメラマン」として、行事に参加し、写真を撮り、人びとの話に耳をかたむける。「北釜」の「記録係」になった志賀は、深く、その土地と歴史に魅せられてゆく。そんな志賀と集落を、津波が襲った。集落のおよそ6分の1の人たちが亡くなるのである。「ある日突然スーツを着た人たちが高級車でやってきて、夢物語のような復興計画をたくさん話したことがありました。『これさえ実行できればすべてがよくなる。前よりももっと豊かになる。雇用も生まれて苦しい思いをしなくてすむ。あなたを助けたい』と言って豪華なお弁当を配った。……私たちが望む望まないにかかわらず、ここの住民ではない推進者の周到な計画にすべてを急がされたのはすごく悔しいことでした」〈5〉志賀は、そこに根づいた「地霊」のように、土地の人びとの内奥の声を響かせる。そのことによって、過去を忘れ、責任や問題から目を逸(そ)らし、楽観的に「未来」を語ろうとする「大きな力」に立ち向かっているように、ぼくには思えた。 〈1〉鶴見俊輔「日本教育史外伝」(岩波新書『思い出袋』〈2010年刊〉所収)
(論壇時評)この国の「壁」 ひとりでぶつかってみる 作家・高橋源一郎(2013/02/28朝日新聞) 気が弱そうな青年の声、断られてしまった後の徒労感。ある事務所のスタッフは「マスコミじゃないんだから」と冷たく言い放つ。それでも、気を取り直して、青年はまた別の事務所をひとりで訪ねる。そして、この映像を見ていた者は、突然、この青年がぶつかって弾(はじ)き飛ばされる「壁」の正体に気づくんだ。実は、その「壁」に、ぼくたちみんなが弾き飛ばされているってことにも。 近代日本最大の公害病である水俣病の原因が、チッソが排出する有機水銀であることを証明するための長い旅の始まりだ。「壁」を前にして、彼らは絶望しなかった。いま考えるなら、彼らは、ひとりひとり、それぞれの場所で、目の前で起こっていることを「記録」しようとしたんだ。なぜ? いつか、未来のだれかが、それを読むことが希望だったからだ。そして、彼らは不可能を可能にしたのだった。
〈高橋源一郎〉和解への道(2012/11/29朝日新聞) そして、滅びゆく炭鉱と連動するように成長していった原発の背景が、あまりにも似ていると感じ、この本を作った。熊谷は、過去を丹念に追う。いや、「過去」ではない。生きている人たちがいまもいるからだ。炭じん爆発事故によるCO中毒にかかった労働者たち、強制連行されてきたおびただしい数の朝鮮や中国の労働者、そして、彼らが起こした訴訟。これら一連の裁判の最高裁による決定は、東日本大震災が起こるわずか10日前にもあった。 筑豊じん肺訴訟の最高裁判決で国を代表して患者たちに頭を下げたのは「原子力安全・保安院」の初代の院長だ。資料によれば、裁判が国に問いかけたのは、「《石炭政策》を推し進め、《炭鉱企業》と共同し、劣悪な《粉じん職場》をつくり出し、かつ国として《じん肺防止》のための対策をとらなかった責任」だった。 熊谷は「《》をそれぞれ、『原発政策』『電力企業』『放射能職場』『被ばく防止』と置き換えれば、そのまま同じではないか」という。 原発問題は「むかし」からあった。あるいは、「いま」も炭鉱問題は生きているのだ。外務省出身の東郷和彦は、日韓関係の緊張に触れて、その最大の要因は「慰安婦問題にある」とする。そして、驚くべきことをいう。この問題に関して、「世界の大勢」は、日本国内の議論は無意味である、としている、と。「慰安婦問題」に関して、この国では、「強制性」があったかどうかが議論になっている。またその裏側には、当時の社会事情の中で「慰安所」の設置そのものは否定できないという考え方がある。だが、あるアメリカ人は、東郷にこういう。建国の頃アメリカは奴隷制を受け入れていたのだから、歴史的には奴隷制は当然の制度だ、という議論は、いまのアメリカではまったく受け入れられない。過去は常に現在からの審判に向かい合わねばならないのだ、と。その考え方によれば、狭義の「強制」がなくとも、国や社会が、結果として、弱い立場の女性に性的な奉仕を強いたなら、それは「人道に対する罪」なのである。かつて、朴裕河(パクユハ)は『和解のために』で「教科書」「慰安婦」「靖国」「独島(竹島)」という、日韓の間にあって両者を引き裂く四つの問題の解決への道を探った。 朴が試みたのは、真実を単純化させないために、両者の意見に徹底的に耳をかたむけることだった。どちらにも理があり、また同時にどちらにも理のないところがあった。たとえば、朴は、「慰安婦」問題については、日本の責任を問いつつ、同時に「娘を売り渡した養父」や「日本軍兵士でもあった朝鮮人兵士」による「慰安婦施設の利用」を指摘し、その責任を問う。被害と加害は単純に分類できない。時に、被害者は加害者でもあるのだ。 その朴が、「改めて『和解のために』」と題し、「独島(竹島)」問題について発言した。その小さな島がどちらに属するのかをめぐって、二つの国は、膨大な資料を基にその帰属を主張する。けれど、朴はこういうのである。
朴裕河は、責任は問われ続けなければならない、とした上で、攻撃の応酬を終わらせる鍵を握っているのは「被害者側」だ、と書いている。「被害者の示すべき度量と、加害者の身につけるべき慎みが出会うとき、はじめて和解は可能になるはずである」ぼくたちの国では不満が鬱積(うっせき)し、その捌(は)け口として、誰かを、あるいは何かを攻撃する言論が跋扈(ばっこ)している。だが、それは何も生み出さず、この国を走る亀裂を深めるだけだ。必要なのは「和解」への道筋なのかもしれない。だが、そのためには、相手を「理解」しようとする強い思いがなければならないのである。 〈高橋源一郎〉フタバから遠く(20212/10/25朝日新聞) 映画の登場人物の中でもっとも心をうつのは、方舟(はこぶね)を率いるノアのような、井戸川克隆町長のように思えた。最初は、政治家たちに「原発立地」の立場から弱々しくお願いするだけだった町長は、やがてこの国の正体に気づき、変貌(へんぼう)していく。同時に発売された単行本の中で、長いインタビューに答え、こんな事態に陥ったのは、物事の隠蔽(いんぺい)を可能にさせている国民性であると述べた町長は、最後「民主主義とは何か」という問いに、こう答える。 「代務者、代議員にすべてを任せるのとは違うものと考えます。……任せられる者と任せる者との信頼関係の下に隠蔽や偽りがない代務を行うことを原則として、任せられた者は任せた者の意向を勝手にできない約束ができていることが大切です。……『信頼』に大きな権限を与え、代務者に資格基準を求め、品性、品格、正義がなければならない」故郷を失った、小さな、東北の町の長の口から、民主主義に関するもっとも深い考察が語られている。 なぜ、それが、すなわち「協同」が可能だったのか。それは、沿岸漁民たちにはもともと「みんなで海を守るという『海の自治形態』」があるからだ。彼らの「自分たちの権利を守るために人任せにせずに責任を負う」という考え方に、いまこそ耳をかたむけたい。津田直則が紹介しているスペインのモンドラゴン協同組合は総計250の様々な企業・組織の連合体だが、そこでは「連帯」の精神が重視されている。 たとえば、給与の最低と最高の格差に制限を設けることで、「現場労働者と経営トップの連帯を示している」。「クーリエ・ジャポン」〈5〉は、同じくスペインで去年、オキュパイ・ウォールストリートに先駆けて起こった、市民の反格差の行動「15―M運動」が、次の段階に、既存の政治・経済システムとは違う独自のシステムの構築へ向かっていることを教えてくれる。 あるいは同じ号でとりあげている、インターネットとパソコンを駆使して、まったく新しい政治参加の方法を繰り広げ、支持を広げつつあるドイツの海賊党。これらのグループに共通するのは、硬直した政治・経済システムに頼らず(人任せにせず)、自らの手でシステムを作ろうという意志だ。今月、論壇誌には「領土問題」に関する論考があふれた。その中には、示唆に満ちたものも、感情を煽(あお)り立てるだけのものもあった。 そのどれかについて書きたいと思ったけれど、そのどれより鮮烈な印象を受けたものを、ぼくは読んだ。『ドイツ・フランス共通歴史教科書』だ。かつて殺し合った二つの国の、双方の高校生に向けて執筆された、この現代史は、ドイツ語版もフランス語版も全く同じものになるよう作られた。表紙には2枚の写真が置かれている。1枚は、1989年の「ベルリンの壁崩壊」であり、もう1枚は、1984年、第1次世界大戦でもっとも多くの戦死者を出した仏ヴェルダンで両大戦の死者に哀悼の意を表するために、固く手を握り合って立つ2国の首脳の姿だ。その、まるで幼子のように無防備な姿を見せることのできる指導者を持つ、その国の人たちをぼくは羨(うらや)ましいと思った。序文は、こういう。 〈高橋源一郎〉新しいデモ(2012/8/30朝日新聞) 国家と国民は同じ声を持つ必要はないし、そんな義務もない。誰でも「国民」である前に「人間」なのだ。そして「人間」はみんな違う考えを持っている。同じ考えを持つものしか「国民」になれない国は「ロボットの国」(ロボットに失礼だが)だけだ――というのが、ぼくにとっての「ふつう」の感覚だ。「3・11」から1年半近くが過ぎて、ぼくたちが生きているのは、欠陥に満ちた社会であったことが、多くの人たちの共通の認識になりつつあるように思う。 それでは、どうすればいいのか。どんな社会をつくればいいのか。 首相官邸の前に、何万、何十万もの人たちが集まる。そんな風景は何十年ぶりだろうか。長い間、この国では大規模なデモが行われなかったのだ。でも、うたぐり深い人はいて、「デモで社会が変わるのか?」と問うのである。それに対して柄谷行人は、こう答える。「デモで社会は変わる、なぜなら、デモをすることで、『人がデモをする社会』に変わるからだ」ふざけて、こう答えたのではない。柄谷は、質問者が想定している回答より、ずっと「本質的」な答えを返したのだ。「デモで社会が変わるのか?」と問いかけるのは、「それでは、変わらない」と思っているからだろう。 あるいは「代議制民主主義の社会だから、その社会を変えるのは、選挙によるしかない」と思っているからだろう。もちろん、「『デモによってもたらされる社会』は、必ずしも幸福な社会とは限らない」という佐藤卓己の懐疑には、十分な理由がある。「ドイツのナチ党はデモや集会で台頭したし、それを日常化したのが第三帝国である」ことは事実だからだ。 「社会を作る」プロセスの一つ一つが、自分を変え、それに関わる相手を変えてゆく。変わってゆくことは楽しい、と人びとが知ったとき、そこに「人がデモをする社会」が生まれている。長い間、様々な社会運動に関わってきた太田昌国は、「金曜デモ」に遭遇し、その新しさにとまどい、でもそこに「日常生活では味わうことのない『解放感』」を感じる。そして、こういう。 「楽しさや解放感がある時の、人間の学び方は、広い。深い。早い」そこは「相手を罵倒することも否定することもな」い場所だ。そして、そんな場所を作ることだけが、「罵倒と否定」の社会を変えられるのである。 |
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