樋口陽一(東京大名誉教授) 改憲、近代国家の否定に 憲法理念の根幹を聞く(毎日新聞2016年4月21日 東京夕刊)
◆それが「立憲主義」の理念です。由来はホッブズ、ロック、ルソーが深めた安全、自由、民主の思想にさかのぼります。近代憲法思想の生い立ちはホッブズからでした。16世紀の宗教戦争という過酷な体験を踏まえ、人々の安全を守るため、約束事を取り結んで個々人の力を預け、人為的に作り出したのが国家権力である、との論理です。 −−国家は人間の意思による枠組みなのですね。 ◆しかし、国家はその権力を勝手に使おうとする。そこでロックは国家からの自由を正当化します。ここまでは英国の社会状況の変化に即した流れですが、海を隔てたフランスでは絶対王制が続き、ロックの言う自由を得るためには、国民の側がいったん国家権力を乗っ取らなければならなかった。これがルソーの民主です。こうした理性的、合理主義的な議論に立脚する政治思想こそ、近代憲法の根幹を成しています。欧米と日本の憲法に共通する「人類普遍の原理」です。−国民主権、人権尊重、平和主義を基本理念とする現憲法は前文にその原理を掲げています。 ◆近代憲法の流れの中に自己を定義しているのです。ところが、自民党の改憲案「日本国憲法改正草案」は異を唱えます。現憲法は西欧由来の「天賦人権説」に基づき、第二次世界大戦の敗戦により占領軍から「押しつけられた」ものだ、と。そして「日本は日本」とも言うべき、異なる原理を主張しています。しかし、終戦を決断して大日本帝国が受諾したポツダム宣言には「日本の民主主義的傾向の復活強化」という文言があるのです。つまり、明治時代にまでさかのぼる積み重ねがあったので、一方的な「押しつけ」ではない。 −−普遍的原理を否定することの意味とは。 ◆近代国家自体の否定につながりかねません。思考的には戦前どころか、明治憲法より前、封建制の江戸時代にまで後退するものです。こうした「自分たちらしさ」の強調には先例があります。第一次大戦の敗戦で「押しつけられた」ワイマール憲法を無視し、ヒトラーに全権委任法を与えたドイツでは、法学者カール・シュミットの「戦後からの脱却」論が援用され、立憲主義は民主的な選挙によって破壊されました。私たちも決して忘れてはならない歴史ですね。 ◆ナチス体制をホッブズの政治哲学書『リバイアサン』に描かれた怪物になぞらえる見方がありますが、実はホッブズ以前です。そこでは非合理な血のつながりによる衝動が重視され、主体が個人から民族に代わります。ナチスのパリ占領後、対独従属のヴィシー政権がこれに迎合し、フランス革命以来のスローガン「自由、平等、博愛」を「祖国、家族、労働」の標語に置き換えました。 −−今回の改憲草案にも重なるようなニュアンスが感じられます。 ◆欧米で長い曲折の末に確立された近代国家の枠組みを憲法の理念という形で共有するのは、日本など少数の先進国に過ぎません。現政権は「価値観の共有」という表現をよく使いますが、共有している価値観とは現憲法の理念です。これに代わるのはアジア的権威主義、専制主義であり、経済的繁栄のために個人の権利を制限する途上国の「開発独裁」にほかならない。国家に対する国民の協力義務を憲法に盛り込む改憲とは、まさにそういうことなのです。 〈秘密保護法案〉国民の「知る義務」阻害 樋口陽一さん(2013/11/24朝日新聞) http://digital.asahi.com 憲法改正:反対掲げ「96条の会」発足 会長に樋口氏(毎日新聞 2013年05月24日 東京朝刊) 発起人は、憲法学の大学教授ら36人で、参院選までにシンポジウムの開催などを予定。9条改正に反対する「9条の会」の中心メンバーらも含まれる。改憲論者の小林節慶応大教授は96条改正を「憲法破壊だ。私も大切にしてきた議論の前提を壊すものだ」と批判した。【飼手勇介】 |
樋口 陽一(ひぐち よういち、1934年9月10日 - )は、日本の法学者 <Wikipedia>。専門は比較憲法学。東北大学名誉教授、パリ大学名誉博士、東京大学名誉教授。法学博士(東北大学、1964年)。日本学士院会員。日本学士院賞受賞。宮城県仙台市出身。父親も東北大学教授であった関係で、生まれも育ちも宮城県仙台市。仙台第一高等学校卒業後、東北大学法学部法学科入学、憲法学者清宮四郎の門下。英語、ドイツ語、フランス語、ラテン語等の語学に堪能で、それを生かして比較憲法学に取り組んだ。「近代立憲主義と現代国家」によって、41歳で日本学士院賞を受賞。いくつかの共著がある作家の井上ひさしは、仙台一高の同級、菅原文太は一年先輩である。 インタビュー《戦時世代が語る憲法といま》 憲法学者 樋口陽一氏 東京の自宅の窓から、六本木や赤坂の街が見えます。夜には明るく輝いている。豊かさを楽しむ人たちがいるのでしょう。一方、3・11後の苦難を強いられている多くの人たちがいます。新聞の社会面には餓死や孤独死といった悲惨なニュースが絶えません。公正な社会をつくろうというのは、第2次世界大戦後、日本も含め、戦勝国にも敗戦国にも共通した流れでした。日本国憲法はその一つとして生まれました。この憲法のもとで私たちは、外国から「日本ほど平等な社会はない」とまで評価された社会をつくってきました。それがどこでどう変わってしまったのか。大震災、そして原発事故という大きな試練と合わせ、一度、戦後の出発点に立ち返って考える時期だと思います。私自身は、まだ答えは見つかっていません。 学校も急に民主化されたのですね。福沢諭吉流に言えば、一身にして二生ならぬ三生を経る、です。私たちの世代は戦争には行きませんでしたが、戦時を体験したという意味では「戦時世代」です。この体験を次の世代に引き継げただろうか、という思いがあります。戦前の日本がすべて真っ暗な時代だったというわけではありません。誰でも知っている明治時代の自由民権運動があり、これも誰でも知っている大正デモクラシーはあり、マルクス・エンゲルス全集が世界で一番売れたという時代もありました。45年7月に米・英・中の3カ国が日本に降伏を求めたポツダム宣言に、こんな文言があります。「日本国政府は日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙(ショウガイ)を除去すべし」。戦前の日本には民主主義があったことを、ほかならぬポツダム宣言の起草者が認識していたわけです。 日本国憲法を「この国に合わない」「押しつけだ」と非難する人たちがいますが、それは違う。この憲法の価値観は、幕末以来の日本の近代と無縁ではありません。先ほどあげた自由民権運動や大正デモクラシーといった、幕末・明治以来の日本社会の「持ち物」とつながっています。むしろ35〜45年の国粋主義、全体主義の時期こそ、幕末からの流れと異なるものだった。 ポツダム宣言は軍国主義に染まる前の日本の民主主義を「復活強化」せよといい、日本政府はそれに調印したわけです。大東亜戦争に負けた翌々年の5月3日、日本国憲法が施行されました。私は新制中学の1年生でした。初めて日本国憲法を知った時の印象ですか。学校であの有名な冊子「あたらしい憲法のはなし」が配られました。当時の私は「そういうものか」ぐらいの感じでしたが、少し年上の先輩は「基本的人権」という文字を見て、そんな言葉があるのかと身震いしたといいます。 しかもそれが何かは、自分で決めないといけません。国民主権についてもそうです。たとえば、ドイツ憲法は第1条で、国民主権よりも、前に「人間の尊厳」をうたっています。ドイツは過去に国民全体でヒトラーとナチスを受け入れてしまった。それが大量のユダヤ人虐殺を生み、第2次世界大戦につながった。だから今度こそ、人間の尊厳を冒すようなことは決めてはいけない、たとえ主権者たる国民の多数を占めても、決めてはいけないことがある。憲法でそう定めたわけです。ドイツは、抽象的な憲法原理でそんなことを言っているわけではありません。 民主主義という制度は、選挙という民主的な手続きによって、独裁者を生んでしまうおそれがあります。民主的に生まれた権力であっても、国民が作る憲法によって制限する。それが憲法の役割です。 政治家の側が、選挙で多数を得たのだから白紙委任で勝手なことをしていい、などということにはなりません。近代国家における憲法とは、国民が権力の側を縛るものです。権力の側が国民に行動や価値観を指示するものではありません。数年前に与野党の政治家たちが盛んに言っていた、憲法で国民に生き方を教えるとか、憲法にもっと国民の義務を書き込むべきだ、などというのはお門違いです。 今から120年も前、大日本帝国憲法の制定にかかわる政府の会議で、伊藤博文がこう語っています。「そもそも憲法を設くる趣旨は、第一、君権を制限し、第二、臣民の権利を保全することにある」憲法をつくるとはこういうことです。伊藤は、いわば模範解答を残した。憲法によって国家権力を縛るという「立憲主義」の考え方を理解していたことがわかります。明治から昭和のはじめにかけて、立憲改進党とか立憲政友会のように「立憲」の名を冠した政党がいくつもありました。それほどなじみのある言葉だったのです。では、現代の政治家たちはどうでしょうか。 私が生まれ育った東北は、戦前、貧しさに耐えられずに娘を売るなどということがすいぶんありました。一方、東京の銀座や浅草ではモダンな消費文化が大きな花を咲かせていた。戦争も震災も、大きな格差を抱えた中での惨禍という意味で、私には重なって映ります。3.11の天災・人災と生活格差が覆ういま、11条の「基本的人権」や13条の「幸福追求の権利」、そして25条の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」といった日本国憲法が持っている理念を、私たち戦時世代は次世代に引き継がなければいけません。冒頭で「戦後の出発点に立ち返って考える時期」とお話ししたのは、そういうことです。 停滞する政治や社会を、憲法を改正することで変えよう、という声が聞こえてきます。しかし、例えば衆参両院の議論がまとまらないのは、憲法が定める二院制が悪いからでしょうか。決められない首相は、公選制になったら正しく決断できるようになるでしょうか。 憲法に「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」があるのだから、脱原発で電力が十分に供給されないのはけしからん、とでも言うのでしょうか。あの小泉純一郎首相でさえ、イラクへの自衛隊派遣の際「参戦」とは言えなかった。本当に9条は空洞化したのでしょうか。自分たちで新しい憲法を書きたい、作りたいという若い人たちがいるそうですね。そのこと自体は健全な考え方だと思います。議論することに反対しません。 ただ、お願いしたいのは、その際、日本の近現代史、さらには世界史まで視野を広げてほしいということです。少なくとも幕末まではさかのぼって、自分たちの社会を作ってきた先人たちが何を考え、どういう犠牲を払って何を達成し、何を達成できなかったのか。どれを継承していくか、捨てるものがあるとしたら何か。過去の蓄積の上に現在があることを、忘れないでください。 世界には、日本国憲法よりはるかに古い憲法を今も使っている国があります。アメリカでは「建国の父」たちの権威は絶対で、1788年に成立した合衆国憲法、あるいは1776年の独立宣言が現役です。フランスでは1789年の人権宣言が現行法なのです。彼らには、こうしたものを度外視して憲法草案をつくるという発想はありません。憲法という基本法を作り直すということは、自分たちの歴史に向き合うことでもあります。論議をするのなら、そのことは十分に意識してほしいと思いますね。「決められない政治」にいらだつあまり、大きな物差しでこの社会の将来を考えることを、忘れないでください。 (聞き手 編集委員・刀祢館正明 秋山惣一郎) |