<谷口稜曄> |
谷口稜曄(たにぐち すみてる、1929年1月26日 - 2017年8月30日)は長崎原爆を体験した被爆者のひとり。1929年に福岡県で生まれる。
背中の大やけど、非核の覚悟 谷口さん「どこでも脱ぐ」(2017年8月30日朝日新聞) 「第一線で活動していた被爆者がだんだん少なくなってきた。もう少し自分もがんばらないと」と話した。広島県に二つある県原爆被害者団体協議会のうち、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)にオブザーバー参加する県被団協の佐久間邦彦理事長(72)は「声にならない。残った被爆者の責任が重大だと、改めて痛感する」と、死を惜しんだ。「谷口さんを始め、被爆者が海外に出て行って実態を語ることで、核兵器禁止条約ができた」とその功績を振り返った。 ・・・谷口さんは近年、入退院を繰り返しつつも精力的に活動していた。今年1月には、大阪で講演。3月に入院する数日前には、核兵器廃絶を求める署名活動のため、街頭にも出ていた。核兵器禁止条約が国連で採択された7月には、病床から「一日でも早く、核兵器をなくす努力をしてもらいたい」とビデオメッセージで訴えた。 昨年、オバマ米大統領が現職の米大統領として初めて被爆地・広島を訪れた際、谷口さんは広島に招待された被爆者の1人だったが、体調不良で出席を断念。入院先の長崎市内の病院のテレビでオバマ氏の演説を見守った。コメントを出し、「広島に来てくれたのはうれしく思うが、核兵器廃絶への力強さは感じられなかった」と残念がった。
「崇高な努力、後世に」国内外でしのぶ声 谷口さん葬儀(2017年9月2日朝日新聞) 長崎の被爆者で日本被団協代表委員の田中熙巳(てるみ)さん(85)は「40年間をともに闘ってきた私にとって、不死鳥のような存在だった。まだがんばってほしかった」と弔辞を述べた。 2010年の核不拡散条約(NPT)再検討会議での谷口さんの証言を、「核兵器の廃絶をめざす国連の会議の流れが変わり始めた時で、全く時にかなったものだった」とたたえた。・・・長崎の被爆3世で、核兵器廃絶を求める国際署名のキャンペーンリーダー、林田光弘さん(25)は「谷口さんの生き様から、原爆を見ていない僕らは原爆を悟った」と語った。東京・渋谷で9月末に予定する街頭署名では、署名の呼びかけ人の一人だった谷口さんを追悼する時間をつくるつもりだ。「谷口さんの人生を同世代にも訴え、向き合いながら運動を進めていきたい」(真野啓太、山野健太郎) http://digital.asahi.com/articles/ASK915DS4K91TOLB00G.html 被爆者「原子力は制御できぬ」 ICAN受賞、歓迎と決意 ノーベル平和賞(2017年10月7日朝日新聞) http://digital.asahi.com/articles/DA3S13171120.html 「活動追い風に」被爆者団体も歓迎 ICANに平和賞(2017年10月6日朝日新聞) ICANの受賞の原点には被爆者の活動があると思う」と話した。・・・広島での胎内被爆者で、被爆ピアノの演奏を続ける好井敏彦さん(71)=香川県坂出市=は「元気が出るニュースだ」と声を弾ませた。好井さんを身ごもっていた母は爆心地から約2・4キロで被爆した。「私たちは一番若い被爆者」という好井さんは3年前、原爆胎内被爆者全国連絡会を設立。 「私たちが今後の活動の先頭に立たないといけない。ICANの受賞を機に、核兵器の廃絶に向けて一層頑張らなければ」と力を込めた。「核兵器廃絶の動きを進める活動が評価され、さらに追い風にもなる」。 北海道被爆者協会の事務局次長を務める北明邦雄(きためくにお)さん(70)はそう語る。自身は被爆者でないが、若い頃から平和運動に関わり、14年5月に事務局次長に就いた。「日本は核兵器廃絶に向けて世界をリードすべきだ。決して被爆者だけの問題にしてはいけない」 http://digital.asahi.com/articles/ASKB664B3KB6PTIL02K.html 核廃絶目指した先人と…長崎市長ら見守る 核禁止条約(朝日新聞2017年9月22日) 20日の署名式典で、各国代表らが順にサインする姿を傍聴席から見守った長崎市の田上富久(たうえとみひさ)市長らは、2枚の写真を抱えていた。写っているのは、長崎原爆被災者協議会の谷口稜曄(すみてる)会長と土山秀夫・元長崎大学長の2人。長崎の核廃絶運動を長年リードしてきた2人は、8月30日と9月2日に相次いで亡くなった。「人生をかけて、核のない世界を目指し、努力してきた人たちに、この瞬間を見てもらいたいと思った。2人はその代表です」。式典後、田上氏はそう語った。条約は被爆者を中心としたこれまでの運動の積み重ねのたまものだと強調。「小さな流れを、たくさんの人たちの力で大河にまで広げることができた」 長崎)谷口さんと土山さんの証言映像を展示 原爆資料館(2017年9月17日朝日新聞) 個人を追悼する展示は同資料館では初めてという。資料館の企画展示室に置かれたモニターでは、谷口さんと土山さんが証言する映像が、交互に上映されている。それぞれ3分ほどに編集されたもので、主に被爆直後の体験について語ったものだ。 このほか、2人のプロフィルや、谷口さんの罹災(りさい)証明書、カルテなど、2人のゆかりの品なども展示されている。千葉市から訪れた大学教授の男性(57)は、戦争を経験した世代がいなくなる日を展示から想像したという。「子どもたちにうまく伝えられるかわからない。物語のようなものに頼らざるをえなくなるのか……」8月30日に88歳で亡くなった谷口さんは、原爆で背中を焼かれた自身の16歳のときの写真を使って証言を続け、被爆者運動を牽引(けんいん)してきた。 9月2日に92歳で亡くなった土山さんは医学生だった20歳のときに被爆。その後、医師として病理学を研究した。核廃絶のためには「感性と理性の両方に訴えかける必要がある」と唱え、核廃絶運動を理論的に支えてきた。(真野啓太) (社説)谷口さん死去 被爆者のバトン未来へ(2017年9月2日朝日新聞) 肺活量も人の半分ほどしかないが、証言時は振り絞るように力強い声を出した。その言葉に心打たれた人は数え切れない。・・・ 「もう二度と誰も同じ運命に遭わせたくない」という被爆者の訴えは、世界中の市民に共感を持って受け止められてきた。7月には核兵器禁止条約の採択という大きな前進があった。ただ、「核兵器のない世界」はなお遠い。命をかけて走ってきた被爆者のバトンを受け取り、夢の実現を目指すのは、これからを生きる世代の役割だ。被爆者と接し、動き出している人たちは各地にいる。 谷口さんらの呼びかけで昨年始まった「ヒバクシャ国際署名」は今年6月までに296万筆を集めた。キャンペーンリーダーの大学院生、林田光弘(みつひろ)さん(25)は「被爆者一人ひとりの人生を思い、核兵器廃絶は僕らの問題なんだということをもっと伝えていきたい」と語る。 谷口さん「私の姿、目そらさないで」 国連で語った被爆(2017年8月31日朝日新聞)
日本の被爆者23万人と平和を愛する世界のNGOを代表して、ここで発言するという栄誉をお与えくださいまして、ありがとうございます。 《私は1945年8月9日、当時16歳の時、長崎の爆心地から北方1・8キロの所を自転車で走っていて被爆しました。3000度、4000度ともいわれる強烈な熱線と、放射線によって背後から焼かれ、次の瞬間、猛烈な爆風によって、自転車もろとも4メートル近く飛ばされ、道路にたたきつけられました。》 突風が過ぎ去ったので顔をあげて見ると、建物は吹き倒され、近くで遊んでいた子供たちが、ほこりのように飛ばされていたのです。私は、近くに大きな爆弾が落ちたと思い、このまま死んでしまうのではと、死の恐怖に襲われました。 でも、私はここで死ぬものか、死んではならないと、自分を励ましていたのです。しばらくして、騒ぎがおさまったので起き上がってみると、左の手は腕から手の先までボロ布を下げたように皮膚が垂れ下がっていました。 背中に手をやってみると、ヌルヌルと焼けただれ、手に黒い物がベットリついてきました。それまで乗っていた自転車は、車体も車輪もアメのように曲がっていました。近くの家はつぶれてしまい、山や家や方々から火の手が上がっていました。 吹き飛ばされた子供たちは、黒焦げになったり、無傷のままだったりの状態で死んでいました。・・・核兵器は絶滅の兵器、人間と共存できません。どんな理由があろうとも絶対に使ってはなりません。 核兵器を持つこと、持とうと考えること自体が反人間的です。最初の核戦争地獄を生身で体験した私たちは、65年前のあの8月、核兵器の恐ろしさを本能的に学びました。核攻撃に防御の手段はなく、「報復」もあり得ません。もしも、3発目の核兵器が使われるならば、それはただちに人類の絶滅、地球とあらゆる生命の終焉(しゅうえん)を意味するでしょう。人類は生き残らねばなりません。平和に、豊かに。 《そのために、皆で最大の力を出し合って、核兵器のない世界をつくりましょう。人間が人間として生きていくためには、地球上に一発たりとも核兵器を残してはなりません。 私は核兵器が、この世からなくなるのを、見届けなければ安心して死んでいけません。 長崎を最後の被爆地とするため。 私を最後の被爆者とするため。 核兵器廃絶の声を全世界に。
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