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ヒューマニスト75
<その人の指向性、価値観、生き方、考え方>



<サーロー節子>

(サーロー せつこ、英語: Setsuko Thurlow、1932年1月3日 - )は、カナダ在住の被爆者、反核運動家。セツコ・サーローの日本語表記もある。

広島県生まれ。父はドイツ人の共同経営者とともにアメリカ合衆国(米国)カリフォルニア州で「西部フルーツ会社」を起業し果実業を営んでいた。広島女学院(現広島女学院中学校・高等学校)に進学、のち学徒勤労動員され大日本帝国陸軍第2総軍司令部で暗号解読作業の訓練を受けた。正規の暗号解読助手になって最初の日である1945年8月6日、広島市への原子爆弾投下により爆心地から1.8q離れた同司令部で被爆、建物の下敷きになったが九死に一生を得た。

このとき8人の親族や多くの同窓生を失った。・・・当地の友人らとともに、広島・長崎の被爆写真パネルの展示など世論を喚起する活動を始め、のちカナダ・米国・イギリス・日本などで、被爆体験を語り核兵器廃絶を訴えてきた。核兵器禁止条約採択に際して、多くの国の代表が彼女の演説によって心を動かされたと述べており、中には彼女が特別な役割を果たしてきたと発言する者もあった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/サーロー節子

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「核兵器は絶対悪」 ノーベル平和賞「ICAN」 サーローさん演説(2017年12月11日東京新聞)
【オスロ=沢田千秋】広島、長崎の被爆者らと連携し、核兵器禁止条約の採択に尽力した非政府組織(NGO)「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN(アイキャン))に対するノーベル平和賞の授賞式が十日、ノルウェー・オスロの市庁舎で行われた。ICANの一員として英語で被爆体験を語り続けて来たカナダ在住のサーロー節子さん(85)が、被爆者として初めて授賞式で演説し「核兵器は必要悪ではなく絶対悪だ」と強調。「世界の全ての国の大統領と首相に懇願する。条約に参加し、核による滅亡の脅威を永久に絶ってほしい」と訴えた。

 
 サーローさんは演説で、十三歳で被爆した体験を証言。「肉や皮が垂れ下がり、眼球が飛び出て、裂けた腹から内臓を出している人々が幽霊のように列をなして歩いていた」「四歳だったおいは、溶けた肉の塊となり、死ぬまで水を求め続けた」と生々しく語った。
 核保有国と「核の傘」に頼る国々に「私たちの証言を聞き、警告に従いなさい。あなたたちは人類を危険にさらす暴力を構成する不可欠な要素だ」と忠告。核の傘に頼る国々を「共犯者」と呼び、条約に署名しない日本政府を暗に批判した。

・・・北朝鮮の核開発を例に「核兵器は私たちを安全にするどころか、紛争を生み出している」と述べ、核抑止力による安全保障政策を重ねて批判。「全ての国に、私たちの終わりではなく、核兵器の終わりを選ぶよう呼び掛ける」と、核兵器禁止条約への参加を訴えた。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/
world/list/201712/CK2017121102000067.html

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「核兵器は必要悪ではなく絶対悪」 サーロー節子さん(2017/12/11朝日新聞)
皆さま、この賞をベアトリスとともに、ICAN運動にかかわる類いまれなる全ての人たちを代表して受け取ることは、大変な光栄です。皆さん一人一人が、核兵器の時代を終わらせることは可能であるし、私たちはそれを成し遂げるのだという大いなる希望を与えてくれます。私は、広島と長崎の原爆投下から生き延びた被爆者の一人としてお話をします。

私たち被爆者は、70年以上にわたり、核兵器の完全廃絶のために努力をしてきました。私たちは、世界中でこの恐ろしい兵器の生産と実験のために被害を受けてきた人々と連帯しています。長く忘れられてきた、ムルロア、インエケル、セミパラチンスク、マラリンガ、ビキニなどの人々と。その土地と海を放射線により汚染され、その体を実験に供され、その文化を永遠に混乱させられた人々と。

 私たちは、被害者であることに甘んじていられません。私たちは、世界が大爆発して終わることも、緩慢に毒に侵されていくことも受け入れません。私たちは、大国と呼ばれる国々が私たちを核の夕暮れからさらに核の深夜へと無謀にも導いていこうとする中で、恐れの中でただ無為に座していることを拒みます。私たちは立ち上がったのです。

私たちは、私たちが生きる物語を語り始めました。核兵器と人類は共存できない、と。・・・私にとって彼は、世界で今まさに核兵器によって脅されているすべての罪のない子どもたちを代表しています。毎日、毎秒、核兵器は、私たちの愛するすべての人を、私たちの親しむすべての物を、危機にさらしています。私たちは、この異常さをこれ以上、許していてはなりません。

 私たち被爆者は、苦しみと、生き残るための、そして灰の中から生き返るための真の闘いを通じて、この世に終わりをもたらす核兵器について世界に警告しなければならないと確信しました。くり返し、私たちは証言をしてきました。

それにもかかわらず、広島と長崎の残虐行為を戦争犯罪と認めない人たちがいます。彼らは、これは「正義の戦争」を終わらせた「よい爆弾」だったというプロパガンダを受け入れています。この神話こそが、今日まで続く悲惨な核軍備競争を導いているのです。

 9カ国は、都市全体を燃やし尽くし、地球上の生命を破壊し、この美しい世界を将来世代が暮らしていけないものにすると脅し続けています。核兵器の開発は、国家の偉大さが高まることを表すものではなく、国家が暗黒のふちへと堕落することを表しています。核兵器は必要悪ではなく、絶対悪です。

・・・核武装国の政府の皆さんに、そして、「核の傘」なるものの下で共犯者となっている国々の政府の皆さんに申し上げたい。私たちの証言を聞き、私たちの警告を心に留めなさい。

そして、あなたたちの行動こそ重要であることを知りなさい。あなたたちは皆、人類を危機にさらしている暴力システムに欠かせない一部分なのです。私たちは皆、悪の凡庸さに気づかなければなりません。世界のすべての国の大統領や首相たちに懇願します。核兵器禁止条約に参加し、核による絶滅の脅威を永遠に除去してください。
http://digital.asahi.com/articles/
ASKDB4H8VKDBUHBI008.html?iref=com_rnavi_srank

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サーローさん、日本政府「一貫性ない」 授賞式控え会見(2017年12月10日朝日新聞)
 今年のノーベル平和賞を受賞する国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(I(アイ)CAN(キャン))のベアトリス・フィン事務局長(35)と広島で被爆したカナダ在住のサーロー節子さん(85)が授賞式前日の9日、オスロのノーベル研究所で記者会見した。サーローさんは緊張が高まる北朝鮮情勢などを念頭に、「何があっても決して核兵器を使わないで」と訴えた。

2人は10日の授賞式で演説する。・・・日本政府が「唯一の被爆国だから恐怖をよく知っている。日本は平和運動の先頭に立つべきだ」と言いながら、国連や国際会議の場では全く異なる振る舞いをしていると主張し、「一貫性がない」と非難。「政府への敬意や信用を落としており悲しい」とも述べた。

 日本が核保有国と非核保有国の「橋渡し役」を自任していることについて問われると、核禁条約の下で核軍縮の停滞を打ち破るか、停滞を招いている従来の体制を続けるか「二つの道がある」とした。そのうえで「(二つの道の)ギャップを埋める努力をしないといけない。別の方法を理解しようと努力もしないで、『この道しかない』というのはとても傲慢(ごうまん)だ」と批判した。
http://digital.asahi.com/articles/
ASKDB03VPKD9UHBI01N.html?iref=pc_rellink

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被爆者が平和賞演説へ カナダ在住サーロー節子さん(2017年10月27日東京新聞)
【ジュネーブ=共同】ノーベル平和賞に決まった非政府組織(NGO)「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN(アイキャン))は二十六日、ノルウェー・オスロで十二月十日に開かれる授賞式にカナダ在住の被爆者サーロー節子さん(85)と、日本国内在住の被爆者二人の計三人が出席すると発表した。サーローさんはICANのフィン事務局長と共に演説し記念メダルと賞状を受け取る予定。

被爆者がノーベル平和賞の授賞式で演説するのは初めてとみられる。 サーローさんは十三歳の時に広島で被爆。自身の体験を英語で語る活動を続けている。ICANは「二〇〇七年に活動を始めたICANの中心人物」で、核兵器禁止条約制定交渉でも重要な役割を果たしたと強調した。
 他の被爆者二人については日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が人選を進めているとした。
 今回の発表に当たり、フィン氏は「広島と長崎の被爆者は核戦争の恐怖の生き証人だ。世界の指導者は核兵器なき世界という未来への彼らの呼び掛けを傾聴すべきだ」と指摘した。
 サーローさんも「平和賞はわれわれの目標を前進させるための力強い手段となり得る。特にこれまで核兵器禁止条約への署名を拒否している国でそうだ」とコメント。条約に反対する日本政府に対し、署名するよう改めて求めた。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201710/CK2017102702000121.html

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「核兵器の終わりの始まりだ」 待望70年…被爆女性訴え(2017年7月8日東京新聞)
【ニューヨーク=東條仁史】一九四五年に広島で被爆したサーロー節子さん(85)=カナダ在住=は七日、核兵器禁止条約の採択後に米ニューヨークの国連本部で演説し、「この日を七十年間も待ち続けてきた。核兵器の終わりの始まりだ」と述べた。会場内の各国代表者や市民団体関係者らは万雷の拍手を送った。
 サーローさんは、原爆の犠牲者たちに思いを向け、「亡くなった人たちは名前があり、誰かに愛されていた」と振り返った。その上で「核兵器は道徳に反するものであったが、違法なものになった」と条約の重要性を強調した。

今後、国際社会が進むべき道として「機能不全の核抑止政策には立ち戻らず、取り返しがつかない環境汚染もせず、将来世代の命を危険にさらし続けることもしない」と主張。各国に向けて「地球を愛しているのなら、条約に署名するでしょう。ともに世界を変えましょう」と呼び掛けた。
 サーローさんは記者会見で、日本の条約不参加について「日本政府は、世界の唯一の被爆国で反核の先頭に立っていると言っているが、国連ではまったく反対のことをしている」と不満を表明した。・・・
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201707/CK2017070802000245.html

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サーロー節子さん特別寄稿 命ある限り 核依存国に行動迫る(17年11月29日ヒロシマ平和メディアセンター)
非政府組織(NGO)の「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN(アイキャン))へのノーベル平和賞授賞式(12月10日)を前に、受賞演説を行うカナダ・トロント市在住で広島出身の被爆者、サーロー節子さん(85)が中国新聞に思いを寄せた。

サーローさんは2007年のICAN発足時から行動を共にする。核兵器の非人道性を追及する国際会議や今年の禁止条約交渉会議で被爆体験を語り、国際世論形成に貢献した。ノルウェー・オスロで営まれる式でベアトリス・フィン事務局長とともに登壇する。

 今回の特別寄稿ではICANの歩みと禁止条約の制定で果たした役割を振り返るとともに、動員学徒として爆心地から1・8キロの軍司令部で見た地獄絵図を語る。核保有国に加えて、米国の同盟国である日本もカナダも条約に背を向けることに「本当に悲しい」と吐露し、「命ある限り、核武装国と核依存国に行動を迫り続ける」と力強く表明した。(金崎由美)
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=78488&query=サーロー節子

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日本交渉不参加「見捨てられた」 核禁止条約 サーローさん非難(17年3月30日ヒロシマ平和メディアセンター)
 広島市南区出身の被爆者、サーロー節子さん(85)=カナダ・トロント市=が28日、「核兵器禁止条約」の制定交渉会議でスピーチした。「この条約は世界を変えられる」と期待感を表明。交渉に参加しない日本政府を「被爆者は自分の国に裏切られ、見捨てられているとの思いが強まった」と厳しく非難した。英語で被爆体験を伝え続けているサーローさんは、非政府組織(NGO)の発言枠で演説。原爆に容赦なく焼かれた当時4歳のおいの死を語り、広島、長崎の犠牲者を思って条約作りを前進させるよう各国政府の代表へ呼び掛けた。
核保有国や、その抑止力に頼る国々については「間違った考えにしがみついている」と指摘。日本政府の外交姿勢を「各国の要人を広島に招き核軍縮を主導するというが、米国の『核の傘』の下にいる限り空虚でごまかしだ」と批判した。会場からは大きな拍手が湧き起こった。
・・・
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=70651&query=サーロー節子

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被爆証言 海外で切々 サーローさん ビデオ収録(14年11月18日ヒロシマ平和メディアセンター)
 カナダ・トロント市に住み、広島での被爆体験を英語で発信しているサーロー節子さん(82)が17日、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島市中区)で、証言ビデオを収録した。被爆者に対する差別や無関心が根深い海外で核兵器廃絶を訴えてきた戦後を振り返り、「非人道兵器を後世に残さないよう、一人一人が行動することが大切」と力強く呼び掛けた。

・・・1954年、社会福祉を学ぶため米国へ留学。同年の米国によるビキニ水爆実験を現地での記者会見で批判すると、匿名で脅迫の手紙が届いたという。「悩みもしたが、被爆の事実を伝えるのが私の使命と確信した」と語った。
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=38074&query=サーロー節子

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サーローさんを平和大使に任命 広島市(14年11月20日15年5月7日ヒロシマ平和メディアセンター)
広島での被爆体験を英語で証言しているカナダ・トロント市のサーロー節子さん(82)が19日、広島市の「ひろしま平和大使」に任命された。市役所で松井一実市長から委嘱書を受け取り「核兵器は普遍的な問題。一人一人に関心を持ってもらえるよう活動したい」と意気込みを語った。
・・・南区出身のサーローさんは13歳の時、学徒動員されていた二葉の里(現東区)の陸軍第二総軍司令部で被爆。大学卒業後に留学先の米国で平和活動を始めた。結婚後にカナダへ移住し、欧米や日本などで精力的に証言活動をしている。
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=38102&query=サーロー節子

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「核兵器なき世界を」 NYのイベント 被爆者が訴え(ヒロシマ平和メディアセンター)
核拡散防止条約(NPT)再検討会議が開かれている米ニューヨークで2日夜、平和イベントがあった。広島、長崎の被爆者がスピーチや合唱で「核兵器なき世界」に向けた願いを響かせた。

・・・ロサンゼルスに住む広島の被爆者、笹森恵子(しげこ)さん(82)は、13歳の時に爆心地から約1・5キロの学徒動員先で体を焼かれ、1955年に渡米治療を受けた経験を、当時の写真をスクリーンに映して紹介した。やはり広島で被爆したカナダ・トロント市のサーロー節子さん(83)は「原爆に葬り去られた人びとの死を無駄にしたくない。今こそ核兵器禁止を」と演説した。
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=43907&query=サーロー節子

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「軍縮の人」に被爆者 米協会 サーローさんら選ぶ(16年1月12日ヒロシマ平和メディアセンター)
 米シンクタンクの軍備管理協会は7日、軍縮に貢献した個人や団体をたたえる2015年の「アームズ・コントロール・パーソン・オブ・ザ・イヤー」を、広島市南区出身の被爆者サーロー節子さん(84)=カナダ・トロント市=と広島、長崎の被爆者に贈ると発表した。

 協会が9候補を選び、インターネット投票を12月8日から約1カ月実施。サーローさんと被爆者が最多得票した。功績を「自身の体験を伝えるという献身を通じ、核兵器のさらなる使用を防ぎ、その違法化と廃絶へ圧力をかけてきた」と強調している。
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=55403&query=サーロー節子

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沈黙の閃光/ セツコ・サーロー(日本原水協antiatom.org)
いまから40年前の1945年8月6日、アメリカは広島に原爆を投下しました。当時、私は広島女学院に通う13歳の生徒でした。この一発の爆弾でおよそ14万の人々が命を失いました。私は生き残った者のひとりです。その後の人生の大半を、あのとき目の当たりにした恐怖と被害を二度とくり返させないために生きてきました。廃墟から這い出てきた私たちは、いま世界を脅かしている核の破局を垣間見ました。

私のことをお話しするのは同情を得るためではありません。警告なのです。・・・その晩はいつものように空襲警報が鳴り、よく眠れませんでした。しかし翌朝は警報解除が鳴り、人々はいつもの仕事を始めようとしていました。美しい夏の日で、青空がいっぱいに広がっていました。

6時30分に布団から出て朝食をとりました。綾子と英治は医者と美容院へと出かけました。7時45分頃、私も家を出て、生徒たちのグループといっしょになるために駅へと歩きました。私が班長でした。隊列を組み、市の中心から1.8キロメートルのところにある第二総軍司令部へとむかいました。

「歩調をとれ!」「かしら、右!」と、私の号令で入り口の歩哨に敬礼した隊員たちを、暗号作戦の責任者であった柳井少佐が待っていました。少佐は、二階の大きな部屋に集まった私たちを前に演説し、元気で、天皇陛下のために一生懸命に働くよう話しました。ちょうど、私らが「わかりました。最善を尽くします」と言ったときでした。窓全体が青白い閃光でいっぱいになったのです。

 爆発音は聞きませんでした。市から何キロもはなれたところでは、落雷のような轟音がはっきりと聞こえました。しかし私たちは、爆心近くにいたほかのすべての被爆者と同じように何も耳にしなかったのです。静かな閃光だけがあったのです。それを見た瞬間、机の下に潜り込もうとしました。けれどなにか浮かび上がるような感じがしました。

建物とともに、私の身体は落ちていったのです。気がつくと、辺りは静かで真っ暗でした。瓦礫の下敷きになっていました。爆弾が頭上に落ちたのだと思いました。市民の誰もがそういう感じを持ったようです。・・・
http://www.antiatom.org/GSKY/jp/Hbksh/1008_setsuko-WC10.html

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被爆者の声、外交官に届いた ノーベル平和賞、ICAN事務局長(2017年10月8日朝日新聞)
ノーベル平和賞の受賞が決まった「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)のベアトリス・フィン事務局長(34)=スウェーデン出身=は6日、朝日新聞の取材にそう答えた。この「人道第一」の考えの根底にあるのは、広島と長崎の被爆者や、核実験で被害を受けた人々が続けてきた証言活動だった。「(反対派が批判する核兵器禁止条約の内容よりも大事なのは)まさに人道的視点でしょ。

被爆者は自らの体験を共有することで、核禁条約交渉の場に、不可欠な人道的視点をもたらしてくれた」「被爆者はただ自分の話をするためだけに、そこにいたわけじゃない。活動し、(各国政府に)圧力をかけ、(核軍縮に)変化を起こすためにいてくれた」フィン氏がいうように、今年3月の核禁条約交渉会議では広島の被爆者でカナダ在住のサーロー節子さん(85)が英語で証言した。

「認識不能なまでに黒ずみ、膨らみ、溶けた肉体の塊となり、死が苦しみから解放してくれるまでの間、消え入る声で水を求めていた、4歳のおいの姿が脳裏によみがえる」。こうした被爆者の声が、出席した外交官に届いたと評価する。
http://digital.asahi.com/articles/DA3S13171298.html

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ICANと活動、サーローさん「72年間、長い道のり」(2017年10月6日朝日新聞)
広島で被爆し、現在はカナダ・トロントで暮らすサーロー節子さん(85)は、被爆体験を世界で語り続けてきたICANの「顔」。6日早朝、ノーベル賞受賞が決まったことについて、自らの体を何度も抱きしめるようにして喜んだ。核廃絶への取り組みには今年、大きな動きが続いた。

7月の核禁条約採択、そして今回のノーベル賞。「何十年も反核平和運動に参加したが、ここ数年は非常に集中的だった」と振り返る。「(核禁条約は)核兵器の終わりの始まり。この星を愛しているのなら、世界の指導者は署名してください」

「敬愛する姉が虫けらのように扱われても、涙一滴出なかった。それで自分を責めました」(2014年11月、ビデオでの証言)

 留学で米国を訪れたのは、その米国が太平洋ビキニ環礁で水爆実験を行い、漁船「第五福竜丸」が被曝(ひばく)した54年。地元紙の取材に「米国はとても非人道的なことをした」と答えると、「日本に帰れ」と批判する手紙が届く。

 「口をつぐむべきか、それともあえて公の場で発言をすべきか。そのときに将来の方向が決まりましたね」(10年4月、ビデオでの証言)

 カナダ移住後の75年8月6日、トロントで平和を祈る「ヒロシマデー」を企画。以後世界に向け、あるときは激しく、あるときは呼びかけるように言葉を紡いだ。

 「一発の爆弾が、今も被爆者を放射線の被害で苦しめている。核と人類は共存できない」(14年12月、ウィーン)

 「被爆から70年になろうとしているのに、現状は変わっていない。今こそ行動するときだ」(同2月、メキシコ)
http://digital.asahi.com/articles/ASKB663YSKB6PTIL02D.html

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(MONDAY解説)発効へ向け、早々に50カ国署名 核禁止条約、脅威増す今こそ 松尾一郎(2017年9月25日朝日新聞)
核禁条約の「魂」は被爆地にある。広島市の原爆死没者慰霊碑に刻まれた「過ちは繰返しませぬから」がそれだ。カナダ在住の広島被爆者サーロー節子さん(85)は3月、条約の交渉会議でこう証言した。「認識不能なまでに黒ずみ、膨らみ、溶けた肉体の塊となり、死が苦しみから解放してくれるまでの間、消え入る声で水を求めていた、4歳のおいの姿が脳裏によみがえる」サーローさんの体験談は、核被害者の救済義務など人道的見地を盛り込んだ画期的な条約に結実した。前文には「核兵器の使用による犠牲者(ヒバクシャ)ならびに核兵器の実験による被害者にもたらされた受け入れがたい苦痛と被害を心に留める」との一文が盛り込まれた。きっかけは、2007年に国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」が結成されたことだ。核不拡散条約(NPT)の会合で、軍縮の議論は後回し。ICANは核を禁じる法的枠組みの必要性を訴えた。それが、核軍縮を進めない核保有国に対する、非核保有国の不満のマグマと結びついた。
http://digital.asahi.com/articles/DA3S13149996.html

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被爆者、世界動かした 「将来世代の命、危険にさらし続けない」 国連総立ち、拍手・涙(2017年7月9日朝日新聞)
「亡くなった数十万の人々。彼らはみな、それぞれに名前を持っていました。そして、みな誰かに愛されていました」核兵器禁止条約採択後の7日午後(日本時間8日早朝)、米ニューヨークの国連本部。カナダ在住の被爆者、サーロー節子さん(85)の力強い声が響く。

「私はこの日を70年以上待ち続けていました」訴えかけるような英語のスピーチに各国代表やNGO関係者らが耳を傾ける。これまでの核抑止政策を失敗と断じ、「我々は取り返しのつかない環境汚染を繰り返しません。将来世代の命を危険にさらすことを続けません。世界各国の指導者たちに懇願します。もしあなたがこの惑星を愛しているのなら、この条約に署名してください」。最後は、こう締めくくった。「核兵器はこれまでずっと、道徳に反するものでした。そして今では、法律にも反するのです。一緒に世界を変えていきましょう」

 会場はほぼ総立ち。盛大な拍手が送られた。涙ぐむ人、嗚咽(おえつ)する人……。胸に去来したのは、思いを受け入れてくれたという深い満足感だ。取材にこう答えた。「やっとここまでこぎ着けた」・・・ 広島女学院高等女学部の生徒だった1945年8月6日、動員先の第2総軍司令部(現・広島市東区)にいた。13歳だった。午前8時15分、原爆が投下された。責任者の訓示中に閃光(せんこう)を見たと同時に気を失う。その後、目の当たりにした光景は忘れられない。がれきの街と炎。眼球が飛び出たり、皮膚が垂れ下がったりしている人々。姉と4歳のおいが大やけどを負い、死へと向かう姿を、ただ見ていた。・・・

■不参加日本を批判

 今回の条約は待ち望んでいたものだ。「われわれ被爆者の気持ちを理解し、核廃絶を目指す人々の情熱が加わった」一方で会議に参加しなかった日本政府を「被爆者のサポートをちっともしてくれなかった」と批判。会議に参加しなかった核保有国には「人類の脅威を作り出した国が条約に向き合わないのは無責任」と憤る。
http://digital.asahi.com/articles/DA3S13026640.html

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日本の交渉不参加、被爆者「裏切られた」 核禁止条約(2017年3月29日朝日新聞)
米ニューヨークの国連本部で開かれている「核兵器禁止条約」の交渉会議で28日、カナダ在住の被爆者、サーロー節子さん(85)が演説し、日本の交渉不参加を痛烈に批判した。「自国に裏切られ、見捨てられ続けたという被爆者の思いを深めた」と述べ、参加国に対し、核兵器を違法化する条約の制定を求めた。

サーローさんは「広島に人々を招くことで、核軍縮で重要な役割を果たしていると日本政府は言うが、米国の『核の傘』に入り続けるのなら、空っぽでごまかしの行動だ」と非難した。13歳で被爆したサーローさんは「広島を思い出すとき、認識不能なまでに黒ずみ、膨らみ、溶けた肉体の塊となり、死が苦しみから解放してくれるまでの間、消え入る声で水を求めていた、4歳だったおいの姿が脳裏に最初によみがえる」と証言。

人類は二度と核兵器の苦しみを体験するべきでないとの確信から、生存者たちは核廃絶の運動を続けてきたと説明した。さらに、各国の外交官に「将来世代だけでなく、広島や長崎の犠牲者の支持も感じながら」交渉に当たって欲しいと呼び掛け、核兵器の違法性の国際基準が確立されることを期待した。
http://digital.asahi.com/articles/
ASK3Y0PNZK3XUHBI04G.html?iref=pc_extlink

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核禁止条約交渉「第一歩に過ぎぬ」 被爆者サーローさん(2017年3月23日朝日新聞)
広島での被爆体験の証言を各国で続けるカナダ在住のサーロー節子さん(85)が21日、ロンドン大学で講演した。27日に米国で始まる核兵器禁止条約交渉について「これは第一歩に過ぎない」と語った。広島市出身のサーローさんは13歳の時、爆心地から約1・8キロの地点で同級生らとともに被爆。姉やおいを失った。「こんな非人道的な体験を、人類は二度と経験するべきではない」と英語で訴えた。

http://digital.asahi.com/articles/DA3S12854938.html

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