<サーロー節子> |
(サーロー せつこ、英語: Setsuko Thurlow、1932年1月3日 - )は、カナダ在住の被爆者、反核運動家。セツコ・サーローの日本語表記もある。 広島県生まれ。父はドイツ人の共同経営者とともにアメリカ合衆国(米国)カリフォルニア州で「西部フルーツ会社」を起業し果実業を営んでいた。広島女学院(現広島女学院中学校・高等学校)に進学、のち学徒勤労動員され大日本帝国陸軍第2総軍司令部で暗号解読作業の訓練を受けた。正規の暗号解読助手になって最初の日である1945年8月6日、広島市への原子爆弾投下により爆心地から1.8q離れた同司令部で被爆、建物の下敷きになったが九死に一生を得た。 このとき8人の親族や多くの同窓生を失った。・・・当地の友人らとともに、広島・長崎の被爆写真パネルの展示など世論を喚起する活動を始め、のちカナダ・米国・イギリス・日本などで、被爆体験を語り核兵器廃絶を訴えてきた。核兵器禁止条約採択に際して、多くの国の代表が彼女の演説によって心を動かされたと述べており、中には彼女が特別な役割を果たしてきたと発言する者もあった。 「核兵器は絶対悪」 ノーベル平和賞「ICAN」 サーローさん演説(2017年12月11日東京新聞) ・・・北朝鮮の核開発を例に「核兵器は私たちを安全にするどころか、紛争を生み出している」と述べ、核抑止力による安全保障政策を重ねて批判。「全ての国に、私たちの終わりではなく、核兵器の終わりを選ぶよう呼び掛ける」と、核兵器禁止条約への参加を訴えた。 「核兵器は必要悪ではなく絶対悪」 サーロー節子さん(2017/12/11朝日新聞) 私たち被爆者は、70年以上にわたり、核兵器の完全廃絶のために努力をしてきました。私たちは、世界中でこの恐ろしい兵器の生産と実験のために被害を受けてきた人々と連帯しています。長く忘れられてきた、ムルロア、インエケル、セミパラチンスク、マラリンガ、ビキニなどの人々と。その土地と海を放射線により汚染され、その体を実験に供され、その文化を永遠に混乱させられた人々と。 私たちは、被害者であることに甘んじていられません。私たちは、世界が大爆発して終わることも、緩慢に毒に侵されていくことも受け入れません。私たちは、大国と呼ばれる国々が私たちを核の夕暮れからさらに核の深夜へと無謀にも導いていこうとする中で、恐れの中でただ無為に座していることを拒みます。私たちは立ち上がったのです。 私たちは、私たちが生きる物語を語り始めました。核兵器と人類は共存できない、と。・・・私にとって彼は、世界で今まさに核兵器によって脅されているすべての罪のない子どもたちを代表しています。毎日、毎秒、核兵器は、私たちの愛するすべての人を、私たちの親しむすべての物を、危機にさらしています。私たちは、この異常さをこれ以上、許していてはなりません。 私たち被爆者は、苦しみと、生き残るための、そして灰の中から生き返るための真の闘いを通じて、この世に終わりをもたらす核兵器について世界に警告しなければならないと確信しました。くり返し、私たちは証言をしてきました。 それにもかかわらず、広島と長崎の残虐行為を戦争犯罪と認めない人たちがいます。彼らは、これは「正義の戦争」を終わらせた「よい爆弾」だったというプロパガンダを受け入れています。この神話こそが、今日まで続く悲惨な核軍備競争を導いているのです。 9カ国は、都市全体を燃やし尽くし、地球上の生命を破壊し、この美しい世界を将来世代が暮らしていけないものにすると脅し続けています。核兵器の開発は、国家の偉大さが高まることを表すものではなく、国家が暗黒のふちへと堕落することを表しています。核兵器は必要悪ではなく、絶対悪です。 ・・・核武装国の政府の皆さんに、そして、「核の傘」なるものの下で共犯者となっている国々の政府の皆さんに申し上げたい。私たちの証言を聞き、私たちの警告を心に留めなさい。 そして、あなたたちの行動こそ重要であることを知りなさい。あなたたちは皆、人類を危機にさらしている暴力システムに欠かせない一部分なのです。私たちは皆、悪の凡庸さに気づかなければなりません。世界のすべての国の大統領や首相たちに懇願します。核兵器禁止条約に参加し、核による絶滅の脅威を永遠に除去してください。 サーローさん、日本政府「一貫性ない」 授賞式控え会見(2017年12月10日朝日新聞) 2人は10日の授賞式で演説する。・・・日本政府が「唯一の被爆国だから恐怖をよく知っている。日本は平和運動の先頭に立つべきだ」と言いながら、国連や国際会議の場では全く異なる振る舞いをしていると主張し、「一貫性がない」と非難。「政府への敬意や信用を落としており悲しい」とも述べた。 日本が核保有国と非核保有国の「橋渡し役」を自任していることについて問われると、核禁条約の下で核軍縮の停滞を打ち破るか、停滞を招いている従来の体制を続けるか「二つの道がある」とした。そのうえで「(二つの道の)ギャップを埋める努力をしないといけない。別の方法を理解しようと努力もしないで、『この道しかない』というのはとても傲慢(ごうまん)だ」と批判した。 被爆者が平和賞演説へ カナダ在住サーロー節子さん(2017年10月27日東京新聞) 被爆者がノーベル平和賞の授賞式で演説するのは初めてとみられる。 サーローさんは十三歳の時に広島で被爆。自身の体験を英語で語る活動を続けている。ICANは「二〇〇七年に活動を始めたICANの中心人物」で、核兵器禁止条約制定交渉でも重要な役割を果たしたと強調した。 「核兵器の終わりの始まりだ」 待望70年…被爆女性訴え(2017年7月8日東京新聞) 今後、国際社会が進むべき道として「機能不全の核抑止政策には立ち戻らず、取り返しがつかない環境汚染もせず、将来世代の命を危険にさらし続けることもしない」と主張。各国に向けて「地球を愛しているのなら、条約に署名するでしょう。ともに世界を変えましょう」と呼び掛けた。 サーロー節子さん特別寄稿 命ある限り 核依存国に行動迫る(17年11月29日ヒロシマ平和メディアセンター) サーローさんは2007年のICAN発足時から行動を共にする。核兵器の非人道性を追及する国際会議や今年の禁止条約交渉会議で被爆体験を語り、国際世論形成に貢献した。ノルウェー・オスロで営まれる式でベアトリス・フィン事務局長とともに登壇する。 今回の特別寄稿ではICANの歩みと禁止条約の制定で果たした役割を振り返るとともに、動員学徒として爆心地から1・8キロの軍司令部で見た地獄絵図を語る。核保有国に加えて、米国の同盟国である日本もカナダも条約に背を向けることに「本当に悲しい」と吐露し、「命ある限り、核武装国と核依存国に行動を迫り続ける」と力強く表明した。(金崎由美)
日本交渉不参加「見捨てられた」 核禁止条約 サーローさん非難(17年3月30日ヒロシマ平和メディアセンター) 被爆証言 海外で切々 サーローさん ビデオ収録(14年11月18日ヒロシマ平和メディアセンター) ・・・1954年、社会福祉を学ぶため米国へ留学。同年の米国によるビキニ水爆実験を現地での記者会見で批判すると、匿名で脅迫の手紙が届いたという。「悩みもしたが、被爆の事実を伝えるのが私の使命と確信した」と語った。 サーローさんを平和大使に任命 広島市(14年11月20日15年5月7日ヒロシマ平和メディアセンター) 「核兵器なき世界を」 NYのイベント 被爆者が訴え(ヒロシマ平和メディアセンター) ・・・ロサンゼルスに住む広島の被爆者、笹森恵子(しげこ)さん(82)は、13歳の時に爆心地から約1・5キロの学徒動員先で体を焼かれ、1955年に渡米治療を受けた経験を、当時の写真をスクリーンに映して紹介した。やはり広島で被爆したカナダ・トロント市のサーロー節子さん(83)は「原爆に葬り去られた人びとの死を無駄にしたくない。今こそ核兵器禁止を」と演説した。 「軍縮の人」に被爆者 米協会 サーローさんら選ぶ(16年1月12日ヒロシマ平和メディアセンター) 協会が9候補を選び、インターネット投票を12月8日から約1カ月実施。サーローさんと被爆者が最多得票した。功績を「自身の体験を伝えるという献身を通じ、核兵器のさらなる使用を防ぎ、その違法化と廃絶へ圧力をかけてきた」と強調している。 |
沈黙の閃光/ セツコ・サーロー(日本原水協antiatom.org) 私のことをお話しするのは同情を得るためではありません。警告なのです。・・・その晩はいつものように空襲警報が鳴り、よく眠れませんでした。しかし翌朝は警報解除が鳴り、人々はいつもの仕事を始めようとしていました。美しい夏の日で、青空がいっぱいに広がっていました。 6時30分に布団から出て朝食をとりました。綾子と英治は医者と美容院へと出かけました。7時45分頃、私も家を出て、生徒たちのグループといっしょになるために駅へと歩きました。私が班長でした。隊列を組み、市の中心から1.8キロメートルのところにある第二総軍司令部へとむかいました。 「歩調をとれ!」「かしら、右!」と、私の号令で入り口の歩哨に敬礼した隊員たちを、暗号作戦の責任者であった柳井少佐が待っていました。少佐は、二階の大きな部屋に集まった私たちを前に演説し、元気で、天皇陛下のために一生懸命に働くよう話しました。ちょうど、私らが「わかりました。最善を尽くします」と言ったときでした。窓全体が青白い閃光でいっぱいになったのです。 爆発音は聞きませんでした。市から何キロもはなれたところでは、落雷のような轟音がはっきりと聞こえました。しかし私たちは、爆心近くにいたほかのすべての被爆者と同じように何も耳にしなかったのです。静かな閃光だけがあったのです。それを見た瞬間、机の下に潜り込もうとしました。けれどなにか浮かび上がるような感じがしました。 建物とともに、私の身体は落ちていったのです。気がつくと、辺りは静かで真っ暗でした。瓦礫の下敷きになっていました。爆弾が頭上に落ちたのだと思いました。市民の誰もがそういう感じを持ったようです。・・・
被爆者の声、外交官に届いた ノーベル平和賞、ICAN事務局長(2017年10月8日朝日新聞) 被爆者は自らの体験を共有することで、核禁条約交渉の場に、不可欠な人道的視点をもたらしてくれた」「被爆者はただ自分の話をするためだけに、そこにいたわけじゃない。活動し、(各国政府に)圧力をかけ、(核軍縮に)変化を起こすためにいてくれた」フィン氏がいうように、今年3月の核禁条約交渉会議では広島の被爆者でカナダ在住のサーロー節子さん(85)が英語で証言した。 「認識不能なまでに黒ずみ、膨らみ、溶けた肉体の塊となり、死が苦しみから解放してくれるまでの間、消え入る声で水を求めていた、4歳のおいの姿が脳裏によみがえる」。こうした被爆者の声が、出席した外交官に届いたと評価する。 ICANと活動、サーローさん「72年間、長い道のり」(2017年10月6日朝日新聞) 7月の核禁条約採択、そして今回のノーベル賞。「何十年も反核平和運動に参加したが、ここ数年は非常に集中的だった」と振り返る。「(核禁条約は)核兵器の終わりの始まり。この星を愛しているのなら、世界の指導者は署名してください」 「敬愛する姉が虫けらのように扱われても、涙一滴出なかった。それで自分を責めました」(2014年11月、ビデオでの証言) 留学で米国を訪れたのは、その米国が太平洋ビキニ環礁で水爆実験を行い、漁船「第五福竜丸」が被曝(ひばく)した54年。地元紙の取材に「米国はとても非人道的なことをした」と答えると、「日本に帰れ」と批判する手紙が届く。 「口をつぐむべきか、それともあえて公の場で発言をすべきか。そのときに将来の方向が決まりましたね」(10年4月、ビデオでの証言) カナダ移住後の75年8月6日、トロントで平和を祈る「ヒロシマデー」を企画。以後世界に向け、あるときは激しく、あるときは呼びかけるように言葉を紡いだ。 「一発の爆弾が、今も被爆者を放射線の被害で苦しめている。核と人類は共存できない」(14年12月、ウィーン) 「被爆から70年になろうとしているのに、現状は変わっていない。今こそ行動するときだ」(同2月、メキシコ) (MONDAY解説)発効へ向け、早々に50カ国署名 核禁止条約、脅威増す今こそ 松尾一郎(2017年9月25日朝日新聞) 被爆者、世界動かした 「将来世代の命、危険にさらし続けない」 国連総立ち、拍手・涙(2017年7月9日朝日新聞) 「私はこの日を70年以上待ち続けていました」訴えかけるような英語のスピーチに各国代表やNGO関係者らが耳を傾ける。これまでの核抑止政策を失敗と断じ、「我々は取り返しのつかない環境汚染を繰り返しません。将来世代の命を危険にさらすことを続けません。世界各国の指導者たちに懇願します。もしあなたがこの惑星を愛しているのなら、この条約に署名してください」。最後は、こう締めくくった。「核兵器はこれまでずっと、道徳に反するものでした。そして今では、法律にも反するのです。一緒に世界を変えていきましょう」 会場はほぼ総立ち。盛大な拍手が送られた。涙ぐむ人、嗚咽(おえつ)する人……。胸に去来したのは、思いを受け入れてくれたという深い満足感だ。取材にこう答えた。「やっとここまでこぎ着けた」・・・ 広島女学院高等女学部の生徒だった1945年8月6日、動員先の第2総軍司令部(現・広島市東区)にいた。13歳だった。午前8時15分、原爆が投下された。責任者の訓示中に閃光(せんこう)を見たと同時に気を失う。その後、目の当たりにした光景は忘れられない。がれきの街と炎。眼球が飛び出たり、皮膚が垂れ下がったりしている人々。姉と4歳のおいが大やけどを負い、死へと向かう姿を、ただ見ていた。・・・ ■不参加日本を批判 今回の条約は待ち望んでいたものだ。「われわれ被爆者の気持ちを理解し、核廃絶を目指す人々の情熱が加わった」一方で会議に参加しなかった日本政府を「被爆者のサポートをちっともしてくれなかった」と批判。会議に参加しなかった核保有国には「人類の脅威を作り出した国が条約に向き合わないのは無責任」と憤る。 日本の交渉不参加、被爆者「裏切られた」 核禁止条約(2017年3月29日朝日新聞) サーローさんは「広島に人々を招くことで、核軍縮で重要な役割を果たしていると日本政府は言うが、米国の『核の傘』に入り続けるのなら、空っぽでごまかしの行動だ」と非難した。13歳で被爆したサーローさんは「広島を思い出すとき、認識不能なまでに黒ずみ、膨らみ、溶けた肉体の塊となり、死が苦しみから解放してくれるまでの間、消え入る声で水を求めていた、4歳だったおいの姿が脳裏に最初によみがえる」と証言。 人類は二度と核兵器の苦しみを体験するべきでないとの確信から、生存者たちは核廃絶の運動を続けてきたと説明した。さらに、各国の外交官に「将来世代だけでなく、広島や長崎の犠牲者の支持も感じながら」交渉に当たって欲しいと呼び掛け、核兵器の違法性の国際基準が確立されることを期待した。 核禁止条約交渉「第一歩に過ぎぬ」 被爆者サーローさん(2017年3月23日朝日新聞) http://digital.asahi.com/articles/DA3S12854938.html |