<後藤 健二> |
ウィキペディアより 後藤健二 (ジャーナリスト) 世田谷区内の公立小中学校から法政大学第二高等学校に進み、アメリカンフットボール部に所属したが、腰痛のため退部。1991年に法政大学社会学部応用経済学科(現・社会政策科学科)を卒業するが、在学中にアメリカのコロンビア大学に語学留学。その留学費用のかなりの部分を母親が負担し、後藤の誕生日には母親が高価なビデオカメラをプレゼントしたり、母子関係は決して疎遠ではなかった。 そのころ湾岸戦争が勃発、イスラエルに渡航し現地の大学生に話しを聞く。この経験がジャーナリズムの世界に興味を抱くきっかけになったのではないかと兄は見ている。卒業後に就職した日立製作所の子会社を入社3か月で退職したのち、東京放送系のテレビ番組制作会社を経て、1996年に映像通信会社インデペンデント・プレスを設立したものの当初は仕事は少なく、兄が経営する塾のアルバイトもしていた。ジャーナリストとしては国内を主に活動し、余裕のある時には1年〜3年間ずつ講師の仕事もこなした。
「ケンジ」の遺志を熱演/旧知の劇団、観客と追悼(2015/03/01京都新聞)
「飢餓との闘いの盟友」WFPが後藤さんを称賛(2015/02/07京都新聞) 声明は、後藤さんと接したことがあるWFP職員が「ケンジは本当に類いまれなジャーナリストで真の人道主義者だった」と話していると紹介。後藤さんは難民たちの窮状に心から関心を抱いていたと敬意を表した。(共同通信)
(私の視点)人質事件の教訓 「共に生きる」ための学習を 小荒井理恵(2015/0314朝日新聞) 後藤さんは、学校へ戻れる子どもたちだけでなく、社会的慣習など様々な理由で学校に行けず、教師の家などで懸命に学ぶ女子の姿を取材し、日本にその声を届けてくれた。テロは決して許されぬ行為である。しかし、憎しみや報復の連鎖は、我々が直面するこの地球的規模の課題を解決はしない。 ユネスコ(国連教育科学文化機関)の憲章は、前文で「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」と掲げている。また、ユネスコの国際委員会が1996年にまとめた報告書も、「共に生きること」を学び相互理解を促進することは、争いを知的で平和的に解決するために不可欠であると提言している。 ・・・では、どうすれば平和な社会を築いていけるのか。まずは様々な境遇に置かれ、価値観も異なる人々を知ることが必要だ。後藤さんが存命なら伝えたであろう「声なき声」を、今後も聞く努力を続けなければならない。
後藤健二さんらに「金のペン賞」(2015/03/4朝日新聞)
(論壇時評)寛容への祈り 「怪物」は日常の中にいる 作家・高橋源一郎(2015/02/26朝日新聞) そして、本自体が少年・少女向きに易しく書かれていることだった。家族を虐殺されたのに、その虐殺した人たちと共に暮らしていかなければならない国に生きる者の苦しみ、麻薬をうたれて敵を殺し続け、そこから現実に復帰した少年兵の哀(かな)しみ、学校に行ったことのなかった少女の葛藤。かみ砕くには苦すぎる物語を、後藤さんはあえて「少年・少女」に向けて語った。なぜだろうか。後藤さんが見つけて来る物語に、聞く耳を持たないおとなたちに絶望していたからなのだろうか。
「微力だけれど無力ではない」 後藤健二さんの作品展示(2015/02/14朝日新聞) 主催のNPO法人ジムネット(日本イラク医療支援ネットワーク)が、高津さんから借りた。・・・ジムネットが毎年2月頃にギャラリー日比谷で開く展示会に、佐藤さんは「いつか作品を展示してほしい」と頼んでいた。だが、後藤さんが殺害されたとみられる映像が流された。佐藤さんは「憤りと絶望感で、頭の中が真っ白になった」。 後藤さんが伝えようとしていたことを探すうち、高津さんとの作品展に行き着いた。一目でこの作品を選んだ。その下に置いたのは、イラクの少女(12)が03年に白血病で亡くなる直前に描いた絵。その場に鉛筆しかなく、佐藤さんは「次来る時には色鉛筆を持ってくるね」と少女と約束したが、色鉛筆を手渡す前に亡くなった少女だった。 佐藤さんは「亡くなる直前だったのに、この少女は『先生になりたい』と夢を語っていた。色鉛筆を通じて、子どもたちが描こうとしていた世界に想像が膨らんでいく」と話す。後藤さんは、「broken boy」を発表した10年の展示会のカタログに言葉を書き残していた。
(人質事件とメディア)苦しむ人の痛み想像できるか/フリージャーナリスト 土井敏邦さん(2015/02/10朝日新聞) だからこの間、テレビも新聞も日本人の生死に関する報道で埋め尽くされたことに、私は強い違和感を覚えます。過去にも紛争地で日本人が巻き込まれるたびに似た報道が繰り返されました。2004年にイラクで高遠菜穂子さんらが人質となり、07年にはビルマ(現ミャンマー)の民衆デモを取材していた長井健司さん、12年にはシリアを取材中の山本美香さんが殺され、メディアはその報道一色になりました。 同じ日本人の生死に関心が集まるのは当然だとしても、報道がそれで埋め尽くされると、肝心の現地の実情が伝えられなくなります。例えば長井さんが亡くなったとき、その葬儀がトップニュースになる一方、ビルマで民主化を求めた僧侶らに激しい弾圧が行われていたことは黙殺された。ビルマ問題が「長井さん殺害問題」に変わってしまったのです。 今回も後藤さんが本当に伝えたかったであろう、内戦に巻き込まれて苦しむシリアの女性や子ども、寒さと飢えに苦しむ何十万人というシリア人避難民のことはどこかへ行ってしまった。日本人の命は、ビルマ人の、イラク人の、シリア人の何千倍も重いのでしょうか。 これは日本人の国際感覚の問題だと思います。・・・紛争の現場に行くと、遠い日本では見えなかった、現地の視点が見えてきます。今回の事件の最中、積極的平和主義を唱える安倍晋三首相は、イスラエルの首相と握手をして「テロとの戦い」を宣言した。 しかし「テロ」とは何か。私は去年夏、イスラエルが「テロの殲滅(せんめつ)」を大義名分に猛攻撃をかけたガザ地区にいました。F16戦闘機や戦車など最先端の武器が投入され、2100人のパレスチナ人が殺されました。1460人は一般住民で子供が520人、女性が260人です。現地のパレスチナ人は私に「これは国家によるテロだ」と語りました。・・・ 自民党の高村正彦副総裁は、後藤さんの行動は政府の3度の警告を無視した「蛮勇」だと非難しています。 しかし政府の警告に従っているばかりでは「伝えられない事実を伝える」仕事はできません。悪の権化と伝えられる「イスラム国」。その支配下にある数百万の住民はどう生きているのか、支配者をどう見ているのか。それは今後の「イスラム国」の行方を知る上で重要な鍵であり、将来の中東の政治地図を占う上で不可欠です。現在は危険で困難ですが、それを伝えられるのは現場へ行くジャーナリストです。 メディアが日本人報道一色になり、被害者を英雄や聖人にしたり、一転して誹謗(ひぼう)中傷したりという形で視聴率や部数を稼ぐような報道をくりひろげている一方で、ジャーナリズムの危機が迫っているのです。私たちフリーにとっても大手メディアにとっても、安易な自主規制や萎縮はジャーナリズムの自殺行為になりかねません。(聞き手 編集委員・稲垣えみ子)
ケンジの思い、広がる共感 後藤さん「憎むは人の業にあらず」(2015/02/05朝日新聞) 戦争になったり、紛争が起きると弱い立場の人たちが、そこに巻き込まれてつらい思いをするということを、彼は一生懸命伝えようとしていたんじゃないか――》・・・ 暴力や憎悪を鎮める知性。それは、紛争地の日常をリポートしてきた後藤さんの言葉にも息づく。《目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。―そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった。》
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