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ヒューマニスト73
<その人の指向性、価値観、生き方、考え方>



<ドナルド・キーン>

 

ウィキペディアより

ドナルド・キーン(1922年6月18日 - )は、アメリカ合衆国出身の日本文学者・日本学者。日本文学と日本文化研究の第一人者であり、文芸評論家としても多くの著作がある。日本国籍取得後、本名を出生名の「Donald Lawrence Keene」から、カタカナ表記の「キーン ドナルド」へと改めた。通称(雅号)として漢字で鬼怒鳴門(きーん どなるど)を使う。コロンビア大学名誉教授。日本文化を欧米へ紹介して数多くの業績があり数多くの大学や研究施設から様々な受賞経歴を持つ。

称号は東京都北区名誉区民、新潟県柏崎市名誉市民、ケンブリッジ大学、東北大学、杏林大学ほかから名誉博士。賞歴には全米文芸評論家賞受賞など。勲等は勲二等。2008年に文化勲章受章。また、日本ペンクラブの名誉会員であり、2012年11月26日の日本ペンクラブ創立記念懇談会では演説を行った。・・・ニューヨーク市ブルックリン区で貿易商の家庭に生まれる。9歳のとき父と共にヨーロッパを旅行し、このことがきっかけでフランス語など外国語の習得に強い興味を抱くようになる。

両親の離婚により母子家庭に育ち、経済的困難に遭遇したが、奨学金を受けつつ飛び級を繰り返し、1938年(昭和13年)、16歳でコロンビア大学文学部に入学。同校でマーク・ヴァン・ドーレンやライオネル・トリリングの薫陶を受ける。同じ頃、ヴァン・ドーレンの講義で中国人学生と親しくなり、そのことがきっかけで中国語、特に漢字の学習に惹かれるに至る。・・・

1940年(昭和15年)、厚さに比して安価だったというだけの理由でタイムズスクエアで49セントで購入したアーサー・ウェイリー訳『源氏物語』に感動。漢字への興味の延長線上で日本語を学び始めると共に、角田柳作のもとで日本思想史を学び、日本研究の道に入る。・・・2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災を契機に、コロンビア大学を退職後は、日本国籍を取得し日本に永住する意思を表明した。2011年(平成23年)9月1日には、永住のため来日し『家具などを全部処分して、やっと日本に来ることができて嬉しい。今日は曇っているが、雲の合間に日本の畑が見えて美しいと思った』と流暢な日本語で感慨を語った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ドナルド・キーン

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能舞台×ダンスの創造 中村恩恵「新たな動き探る」(2017年8月26日朝日新聞)
 能舞台を使って新たな創造を目指す「能舞台とコラボ」企画の一つ。中村雅之館長は「能舞台は本来神事の場でもあり、精神的な制約が多い。照明や装置もシンプルで、出演者の素の芸術性が出る」と話す。ドナルド・キーンが原案指導し、イタリア出身で米国在住のルカ・ベジェッティが演出する。老人、男、女といった概念が登場し、主な出演は笠井叡(あきら)、中村恩恵、鈴木ユキオ。能楽小鼓方の大倉源次郎、笛方の藤田六郎兵衛らが音楽を受け持つ。

http://digital.asahi.com/articles/DA3S13104523.html

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【ドナルド・キーンの東京下町日記】「勝敗」のない平和こそ(2017年1月14日東京新聞)
部屋の書棚を整理していたら、私にとって貴重な文書が見つかった。七十四年前に、私が初めて日本語で書いた読書感想文だ。米海軍日本語学校を卒業後、初めての任地となったハワイで、勤務の合間にハワイ大学に通った。課題図書は菊池寛の「勝敗」。日本語で読んだ初めての長編小説だった。

拙い感想文だが、その後の長い日本文学研究の原点。新年を迎え「初心忘れるべからず」というおぼしめしかもしれない。・・・ハワイ時代に感想文を書いた「勝敗」では、子爵の一人娘と婚外子が醜い争いの末、婚外子の一人が精神障害をきたし、一人娘は争いのむなしさに打ちひしがれる。戦争ならなおさらだ。真珠湾の教訓は、再び誰にも銃口を向けず、武力行使をしないこと。争いのない平和こそが勝利である。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/shitamachi_nikki/list/CK2017011402000191.html

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【ドナルド・キーンの東京下町日記】異質ではない日本(2017年2月5日東京新聞)
 気になる映画があったので見てきた。キリスト教が禁じられた江戸時代、長崎を舞台に、ポルトガルから密入国した司祭の苦悩を描いた「沈黙−サイレンス−」だ。私は原作者の作家、遠藤周作さんと親交があり、原作を半世紀以上も前に読んでいた。江戸時代の日本に関心があったので、ポルトガルなどからの宣教師が母国へ書いた手紙も、かなり読んだことがある。

・・・だが、日本に二年滞在したザビエルは「日本人はわれわれによく似ている国民である。同程度の文化を有する」「自分にとってポルトガル人よりも親しい民族は日本人だ」とまで手紙に書いていた。禁教令で、六千人もが殉教したとされるが、そんな例は他に聞いたことがない。今も、少数ながら当時の隠れキリシタンの流れをくむ信者がいる。これは、日本人を理解した外国人や、キリスト教を理解した日本人がいたことの証明といえる。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/shitamachi_nikki/list/CK2017020502000126.html

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【ドナルド・キーンの東京下町日記】利己主義という「醜」(2017年5月5日東京新聞)
先月、JR渋谷駅に近い歩道を歩いていて、自転車との「接触事故」に遭った。少し混雑する中、正面から来た自転車のハンドルの柄が、すれ違いざまに私の右肘を強打した。右腕は持って行かれ、私は「痛い」と声を上げた。擦り傷が残り、血がにじんだ。「事故」と呼ぶのは少し大げさだろう。だが、私が気になったのは、自転車に乗っていた中年女性が何事もなかったかのように通り過ぎ、振り返りもしなかったことだ。私の声やハンドルの振動で、接触に気付いたはずなのに。


 今年で私は九十五歳になる。一見して高齢者で電車に乗れば、若い人が率先して席を譲ってくれる。日本ではおおむね高齢者は大切にされているし、私が不満を覚えることはほとんどない。だが、自己中心的な人が増えているからか、冒頭の自転車の女性のように公共の場で、周囲に気配りできない人が目立つように感じる。・・・六十年ほど前に私が学生生活を送った京都では、家に鍵をかけなかった。地域や親族のコミュニティーがしっかりと築かれ、高齢者や子どもには保護の目、外部からの侵入者には監視の目が行き届いていた。そんな日本の精神性は、今も生きていると思う。


 東日本大震災の被災地では、家や家族を失った被災者同士が避難所でコミュニティーを作り、お互いをいたわり合っていた。不安や不満でストレスが鬱積(うっせき)しても、暴動などは起こらず、秩序は保たれ、各地からのボランティアが援助の手を差し伸べた。そんな光景を世界は絶賛し、日本の国際的イメージは、かつてないほど上がった。コミュニティーを大切にする日本なのに、一方で他人の迷惑を顧みない利己主義がはびこっている。だが、それが美しくも醜くもあり、矛盾が絡み合う人間社会なのだろう。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/shitamachi_nikki/list/CK2017050502000183.html

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【ドナルド・キーンの東京下町日記】五輪の闇 報じるべき(2017年6月11日東京新聞)
この連載を始めて今年で六年目になるが、ほぼ毎回、手紙が届く。今月で九十五歳の私は、残された時間を研究活動に使うために返事も書かず、申し訳なく思っている。だが、温かい手紙は、私の活力になっている。この紙面をお借りして、お礼を申し上げたい。
 ところで、意外なのだが、これまでに一番、手紙が多かったのは、私の専門分野の日本文学がテーマだったときではない。昨年九月に、リオデジャネイロ五輪の報道を批判したときだった。新聞もテレビも、日本選手の活躍ばかりを大きく報じた。その影響で他の重要なニュースが押しつぶされ、まるで全体主義国家にいるような気分がした。・・・

あれから九カ月たって、私の懸念はますます深まっている。最近では、東京五輪でのテロ対策にかこつけた「共謀罪」法案が、数の力で衆議院を通過した。五輪とは全く関係がないのに、平和憲法を二〇年に改正しようとする動きも顕在化している。私は、もともと東京五輪には反対だ。まだ、その時期ではない。「復興五輪」と銘打ちながら、東日本大震災や原発事故の被災地の復興とは無関係だ。むしろ、五輪関連の公共事業によって職人が不足し、復興の遅れや費用の高騰を招いていると聞く。

原発事故の後始末もこれからだ。被災地にもスポーツ観戦が好きで、東京五輪を楽しみにしている人もいるだろうが、大震災から六年たっても、それどころではない被災者は少なくない。五輪の競技施設の建設にしても、東京都知事が代わって、少し見直しをしただけで何百億円も事業費が減額となったことは、誰が見ても不可解だ。まだまだ、五輪の光に隠れている闇はあるはずだ。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/shitamachi_nikki/list/CK2017061102000183.html

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【ドナルド・キーンの東京下町日記】「日本学」のセンセイ(2016年11月20日東京新聞)
先日、群馬県高崎市の土屋文明記念文学館で、恩師の角田柳作先生について講演した。太平洋戦争前、ニューヨークのコロンビア大学で、私に日本について初めて教えてくれた先生だ。あまり知られていないが、米国で多くのジャパノロジストを育てた「日本学の祖」。もっと評価されるべき教育者である。・・・一八七七年に角田先生は現在の群馬県渋川市で生まれた。初めてお目にかかったのは一九四一年九月。私が先生の「日本思想史」を受講しようとした時だ。戦争前夜で対日感情は最悪。希望者は私だけだった。

日本語はほとんど分からず、日本についてまだ何も知らない私のために、先生の貴重な時間を使わせては申し訳ない。辞退を申し出た。ところが、意外な一言に引きつけられてしまった。「One man is enough(一人いれば十分です)」


 謙虚で思いやりがあり、それでいて指導はいつも全力投球だった。・・・東日本大震災と福島原発事故が人生の転機になった。「日本から多くの外国人が逃げ出し、腹立たしかった。私は今こそ、日本人と一緒に生き、一緒に死にたい」と片道航空券でニューヨークから東京へ。「外国人の時はお客さんなので遠慮したが、日本人なのだから言いたいことを言う」とキーンさん。連載では日本文学はもちろん、独自の視点から戦争と平和憲法、原発、五輪報道なども話題にして、読者からは共感の手紙が相次いだ。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/shitamachi_nikki/
list/CK2016112002000100.html

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幻の古浄瑠璃「英でも伝わる」 6月上演、尽力のドナルド・キーンさん(2017年4月25日朝日新聞)
江戸時代に海外に持ち出され、ロンドンの大英博物館で見つかった浄瑠璃本が、6月に英国で上演される。国内では現存が確認されていない「幻の浄瑠璃」。復活上演に尽力した人たちのなかに、日本文学研究者のドナルド・キーンさん(94)と、キーンさんの養子で浄瑠璃三味線奏者でもあるキーン誠己(せいき)さん(66)がいる。

・・・日本の古浄瑠璃は、英国人にどう映るのか。上演時には英文の字幕がつく。浄瑠璃三味線奏者・越後角太夫(かくたゆう)として弾き語りを務める誠己さんは「国内で復活上演したそのままを、せいいっぱいぶつけたい。海外だからわかりやすく、などとは考えていません」。キーンさんは「途中で帰る人だって、いなくはないでしょう。でもそんな人たちは無視したらいい」と冗談めかして言う。
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12908169.html

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「天才は遠くから眺めるべき」啄木を語る ドナルド・キーンさん、新潟で講演(2016年10月26日朝日新聞)
2月に刊行された評伝『石川啄木』の英語版が出来上がったばかりというキーンさんは、明治大大学院教授で国際啄木学会の会長の池田功さんの質問に答える形で啄木の魅力を語った。キーンさんは評伝で、啄木の最高傑作はローマ字で記された日記だと述べている。この「ローマ字日記」について、キーンさんは1950年代に京都大に留学していた頃、フランス文学研究者の桑原武夫から読むように勧められたと振り返った。「啄木の詩歌は知っていたが、日記はよく知らなかった。読んで、見事なものだと思いました」

 啄木を表現する一番簡単な言葉は「天才」だとキーンさん。「啄木にお金を貸してくれと頼まれたら、どうしますか」という池田さんの問いに「もし貸したら、そのお金を二度と見ることはないでしょう。天才というのは遠くから眺めるべきものなのです」と答え、会場の笑いを誘った。

http://digital.asahi.com/articles/DA3S12627642.html

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