<中村 哲> |
Wikipedia 中村 哲(なかむら てつ、1946年9月15日 - )は、日本の医師。 ペシャワール会医療サービス(PMS)総院長。 外祖父で若松において港湾荷役業を営んでいた玉井金五郎が映画『花と竜』のモデルとなったことで、周囲から玉井家が暴力団関係者と誤解され、中村も迷惑を被ったとしている。また、福岡高校の同期に原盾ェいる。自身はキリスト教プロテスタント系バプテスト派のクリスチャンであるが、現地の人々の信仰や価値観に最大限の敬意を表しながら活動を続けている。
講演会 妄信 今こそ問い直せ 伯父・火野葦平に向き合う 中村哲さん(アフガン支援の医師)(2015年9月19日東京新聞) その火野葦平の甥(おい)っ子にあたるのが、アフガニスタンでの人道支援活動で国際的に高い評価を受けるペシャワール会現地代表の医師、中村哲(てつ)さん(69)だ。「葦平は戦争作家と呼ばれることを嫌った」と振り返る。自死した伯父への思い、集団的自衛権行使や安保法制で進路を変えようとしている日本をどう感じているか。今夏、一時帰国した中村さんに聞いた。 紛争地アフガニスタンで三十年。ソ連の侵攻、「対テロ」名目の米英軍による空爆、武装勢力の衝突…。中村さんにとって「戦争と平和」は、日々肌身で感じる現実そのものだ。難民や貧困層への医療活動だけでなく、二〇〇〇年からの大干ばつで飢餓状態となった住民を救うため井戸掘りや用水路建設事業を続ける。 伯父である葦平は、陸軍の報道部員として日中戦争に従軍した。銃を担いで泥の中を歩いた記録を小説にしたのが『麦と兵隊』などの兵隊三部作。当時、大ベストセラーになった。「葦平は無口だが、えらそうなところは全然なかった。酒を飲むとユーモラスな好人物だった」という。ところがそんな豪気な楽天主義者の顔は外側だけで、繊細な心に戦争が暗い影を落としていた。 「逆に言えば、戦後の日本人の多くは葦平のような徹底的な悩み方をしなかった」と中村さんは感じる。「大震災が起きたと思ったら、オリンピックで騒いでいる。帰国するたび、違う惑星に来たような気がする。日本人はみんなで動いて、その動きに乗れない人間をはじく」
「日本を守ると連呼するが、現代の戦争はもはや国同士の戦いですらない。もっと複雑で汚くてあざとい」 安保法制の根拠として、周辺国の脅威が盛んに語られることにも違和感を覚える。「武力行使が身を守ると信じるのは、妄信そのもの」と確信するからだ。運営する診療所がかつて襲撃されたとき、中村さんは「死んでも撃ち返すな」と仲間に言った。報復の連鎖を断ったことが、後々まで自分や仲間、事業を守った。安全保障とは地域住民との信頼関係にほかならない。そんな思いを、近著にこう書いた。
(インタビュー)アフガン復興を支える NGO「ペシャワール会」現地代表・中村哲さん(2016年1月30日朝日新聞) 「農業の復興が国造りの最も重要な基盤だからです。2000年からアフガニスタンは記録的な干ばつに襲われ、水不足で作物が育たず、何百万という農民が村を捨てました。栄養失調になった子が泥水をすすり、下痢でいとも簡単に死ぬ。診療待ちの間に母親の腕の中で次々に冷たくなるのです」「医者は病気は治せても、飢えや渇きは治せない。清潔な水を求めて1600本の井戸を掘り、一時は好転しました。しかし地下水位は下がるし、農業用水としては絶対量が足らない。そこで大河から水を引き、砂漠化した農地を復活させようと考えたのです。合言葉は『100の診療所より1本の用水路』でした」 ・・・ ――工事はだれが? 「毎日数百人の地元民が250〜350アフガニ(約450〜630円)の賃金で作業し、職の確保にもなります。元傭兵(ようへい)もゴロゴロいます。『湾岸戦争も戦った』と言うから『米軍相手か』と聞くと『米軍に雇われてた』とかね。思想は関係ない。 家族が飢えれば父親は命をかけて出稼ぎします」「最近は、JICA(国際協力機構)の協力も得て事業を進めていますが、基本は日本での募金だけが頼り。これまで30億円に迫る浄財を得て、数十万人が故郷に戻れました。欧米の支援はその何万倍にもなるのに、混乱が収まる気配はない。これが現実なのです」 ――反政府勢力タリバーンが勢いを盛り返しているようです。 「タリバーンは海外からは悪の権化のように言われますが、地元の受け止めはかなり違う。内戦の頃、各地に割拠していた軍閥は暴力で地域を支配し、賄賂は取り放題。それを宗教的に厳格なタリバーンが押さえ、住民は当時、大歓迎しました。この国の伝統である地域の長老による自治を大幅に認めた土着性の高い政権でした。そうでなければ、たった1万5千人の兵士で全土を治められない。治安も良く、医療支援が最も円滑に進んだのもタリバーン時代です」 「欧米などの後押しでできた現政権は、タリバーンに駆逐された軍閥の有力者がたくさんいるから、歓迎されにくい。昼は政府が統治し、夜はタリバーンが支配する地域も多く、誰が味方か敵かさっぱり分からない。さらに(過激派組織)イスラム国(IS)と呼応する武装勢力が勢力を伸ばし、事態を複雑にしています」・・・ ――戦争と混乱の中でよく約30年も支援を続けられましたね。 「日本が、日本人が展開しているという信頼が大きいのは間違いありません。アフガンで日露戦争とヒロシマ・ナガサキを知らない人はいません。3度も大英帝国の侵攻をはねのけ、ソ連にも屈さなかったアフガンだから、明治時代にアジアの小国だった日本が大国ロシアに勝った歴史に共鳴し、尊敬してくれる。戦後は、原爆を落とされた廃虚から驚異的な速度で経済大国になりながら、一度も他国に軍事介入をしたことがない姿を称賛する。言ってみれば、憲法9条を具現化してきた国のあり方が信頼の源になっているのです」・・・ ――日本では安保法制が転換されました。影響はありますか。 「アフガン国民は日本の首相の名前も、安保に関する論議も知りません。知っているのは、空爆などでアフガン国民を苦しめ続ける米国に、日本が追随していることだけです。だから、90年代までの圧倒的な親日の雰囲気はなくなりかけている。嫌われるところまではいってないかな。欧米人が街中を歩けば狙撃される可能性があるけれど、日本人はまだ安心。漫画でハートが破れた絵が出てきますが、あれに近いかもしれない。愛するニッポンよ、お前も我々を苦しめる側に回るのか、と」 ――新法制で自衛隊の駆けつけ警護や後方支援が認められます。 「日本人が嫌われるところまで行っていない理由の一つは、自衛隊が『軍服姿』を見せていないことが大きい。軍服は軍事力の最も分かりやすい表現ですから。米軍とともに兵士がアフガンに駐留した韓国への嫌悪感は強いですよ」「それに、自衛隊にNGOの警護はできません。アフガンでは現地の作業員に『武器を持って集まれ』と号令すれば、すぐに1個中隊ができる。兵農未分離のアフガン社会では、全員が潜在的な準武装勢力です。アフガン人ですら敵と味方が分からないのに、外国の部隊がどうやって敵を見分けるのですか? 机上の空論です」 http://digital.asahi.com/articles/DA3S12184935.html |