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ヒューマニスト64
<その人の指向性、価値観、生き方、考え方>



<中村 哲>

 

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中村 哲(なかむら てつ、1946年9月15日 - )は、日本の医師。 ペシャワール会医療サービス(PMS)総院長。
パキスタン・アフガニスタン地域で長く活動してきたが、パキスタン国内では政府の圧力で活動の継続が困難になったとして、以後はアフガニスタンに現地拠点を移して活動を続ける意思を示している。小説家の火野葦平は母方の叔父である(妹が中村の母)。

外祖父で若松において港湾荷役業を営んでいた玉井金五郎が映画『花と竜』のモデルとなったことで、周囲から玉井家が暴力団関係者と誤解され、中村も迷惑を被ったとしている。また、福岡高校の同期に原盾ェいる。自身はキリスト教プロテスタント系バプテスト派のクリスチャンであるが、現地の人々の信仰や価値観に最大限の敬意を表しながら活動を続けている。

『ペシャワールにて 癩そしてアフガン難民』石風社 1989年
『ペシャワールからの報告 現地医療現場で考える』河合ブックレット 1990年
『アフガニスタンの診療所から』筑摩書房 ちくまプリマーブックス 1993年 のち文庫 
『ダラエ・ヌールへの道 アフガン難民とともに』石風社 1993年
『医は国境を越えて』石風社 1999年
『医者井戸を掘る―アフガン旱魃との闘い』石風社 2001年
『ほんとうのアフガニスタン―18年間“闘う平和主義”をつらぬいてきた医師の現場報告』光文社 2002年
『医者よ、信念はいらないまず命を救え! アフガニスタンで「井戸を掘る」医者中村哲』羊土社 2003年
『辺境で診る辺境から見る』石風社 2003年
『アフガニスタンで考える―国際貢献と憲法九条』岩波ブックレット 2006年
『医者、用水路を拓く―アフガンの大地から世界の虚構に挑む』石風社 2007年
『天、共に在り―アフガニスタン三十年の闘い』NHK出版 2013年

https://ja.wikipedia.org/wiki/中村哲_(医師)

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講演会

アフガン支援の中村医師、港区で21日 /東京
(毎日新聞2016年6月2日 地方版)
アフガニスタンで支援活動を続けるペシャワール会(事務局・福岡市)の現地代表、中村哲医師の講演会が21日、港区白金台の明治学院大で開かれる。中村氏は九州大医学部を卒業後、1984年にパキスタンで診療を始め、アフガニスタンへ活動を広げた。干ばつ被害に遭った農村復興のために、1600本の井戸を掘り、用水路約25キロを完成させた。講演は「蘇る!アフガニスタン 大地と暮らしの物語」をテーマに、これまでの活動や「真の国際貢献とは何か」について話す。
http://mainichi.jp/articles/20160602/ddl/k13/040/142000c

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妄信 今こそ問い直せ 伯父・火野葦平に向き合う 中村哲さん(アフガン支援の医師)(2015年9月19日東京新聞)
 <死にます。芥川龍之介とはちがふかも知れないが、或(あ)る漠然とした不安のために。すみません。おゆるし下さい。さやうなら>この遺書を書いたのは、芥川賞作家の火野葦平(あしへい)。一九六〇年一月、自宅の書斎で睡眠薬を飲み、五十三歳で命を絶った。

その火野葦平の甥(おい)っ子にあたるのが、アフガニスタンでの人道支援活動で国際的に高い評価を受けるペシャワール会現地代表の医師、中村哲(てつ)さん(69)だ。「葦平は戦争作家と呼ばれることを嫌った」と振り返る。自死した伯父への思い、集団的自衛権行使や安保法制で進路を変えようとしている日本をどう感じているか。今夏、一時帰国した中村さんに聞いた。

紛争地アフガニスタンで三十年。ソ連の侵攻、「対テロ」名目の米英軍による空爆、武装勢力の衝突…。中村さんにとって「戦争と平和」は、日々肌身で感じる現実そのものだ。難民や貧困層への医療活動だけでなく、二〇〇〇年からの大干ばつで飢餓状態となった住民を救うため井戸掘りや用水路建設事業を続ける。

伯父である葦平は、陸軍の報道部員として日中戦争に従軍した。銃を担いで泥の中を歩いた記録を小説にしたのが『麦と兵隊』などの兵隊三部作。当時、大ベストセラーになった。「葦平は無口だが、えらそうなところは全然なかった。酒を飲むとユーモラスな好人物だった」という。ところがそんな豪気な楽天主義者の顔は外側だけで、繊細な心に戦争が暗い影を落としていた。

 「米英撃滅と叫んでいた軍人が、今度は進駐軍相手のバーを開く。敗戦を境に、多くの日本人は器用に転身した。でも、葦平は十年以上悩み続けた。この世で何を信じればいいのか。そんな耐えがたさが『漠然とした不安』という遺書の言葉になったのかもしれない」と中村さんは推し量る。・・・遺作『革命前後』では、自らの戦争責任を問うた。作品に登場する戦争作家は「あんたは戦地で文章書いて大もうけ」と、元兵士に批判される。

「逆に言えば、戦後の日本人の多くは葦平のような徹底的な悩み方をしなかった」と中村さんは感じる。「大震災が起きたと思ったら、オリンピックで騒いでいる。帰国するたび、違う惑星に来たような気がする。日本人はみんなで動いて、その動きに乗れない人間をはじく」


 戦闘が終わっても、心の傷は死ぬまで消えない。伯父の自死を見て、戦争が破壊するのは体だけではないと実感した。アフガンでも米兵や武装勢力、住民の別を問わず、人々が心を壊される過酷な現実を見た。だからこそ集団的自衛権行使や安保法制をめぐる国会論議の「ゲームのような軽さ」にがくぜんとする。

「日本を守ると連呼するが、現代の戦争はもはや国同士の戦いですらない。もっと複雑で汚くてあざとい」 安保法制の根拠として、周辺国の脅威が盛んに語られることにも違和感を覚える。「武力行使が身を守ると信じるのは、妄信そのもの」と確信するからだ。運営する診療所がかつて襲撃されたとき、中村さんは「死んでも撃ち返すな」と仲間に言った。報復の連鎖を断ったことが、後々まで自分や仲間、事業を守った。安全保障とは地域住民との信頼関係にほかならない。そんな思いを、近著にこう書いた。


 <利害を超え、忍耐を重ね、裏切られても裏切り返さない誠実さこそが、人々の心に触れる。それは、武力以上に強固な安全を提供してくれ、人々を動かすことができる><私たちにとって平和とは理念ではなく、現実の力なのだ。私たちはいとも安易に戦争と平和を語りすぎる。武力行使によって守られるものとは何か、静かに思いをいたすべきかと思われる>(『天、共に在り』)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/doyou/CK2015091902000260.html

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(インタビュー)アフガン復興を支える NGO「ペシャワール会」現地代表・中村哲さん(2016年1月30日朝日新聞)

――1980年代から90年代は医療支援でしたが、今は灌漑(かんがい)事業が中心です。お医者さんがなぜ用水路を引くのですか?

 「農業の復興が国造りの最も重要な基盤だからです。2000年からアフガニスタンは記録的な干ばつに襲われ、水不足で作物が育たず、何百万という農民が村を捨てました。栄養失調になった子が泥水をすすり、下痢でいとも簡単に死ぬ。診療待ちの間に母親の腕の中で次々に冷たくなるのです」「医者は病気は治せても、飢えや渇きは治せない。清潔な水を求めて1600本の井戸を掘り、一時は好転しました。しかし地下水位は下がるし、農業用水としては絶対量が足らない。そこで大河から水を引き、砂漠化した農地を復活させようと考えたのです。合言葉は『100の診療所より1本の用水路』でした」

・・・ ――工事はだれが?

 「毎日数百人の地元民が250〜350アフガニ(約450〜630円)の賃金で作業し、職の確保にもなります。元傭兵(ようへい)もゴロゴロいます。『湾岸戦争も戦った』と言うから『米軍相手か』と聞くと『米軍に雇われてた』とかね。思想は関係ない。

家族が飢えれば父親は命をかけて出稼ぎします」「最近は、JICA(国際協力機構)の協力も得て事業を進めていますが、基本は日本での募金だけが頼り。これまで30億円に迫る浄財を得て、数十万人が故郷に戻れました。欧米の支援はその何万倍にもなるのに、混乱が収まる気配はない。これが現実なのです」

――反政府勢力タリバーンが勢いを盛り返しているようです。

 「タリバーンは海外からは悪の権化のように言われますが、地元の受け止めはかなり違う。内戦の頃、各地に割拠していた軍閥は暴力で地域を支配し、賄賂は取り放題。それを宗教的に厳格なタリバーンが押さえ、住民は当時、大歓迎しました。この国の伝統である地域の長老による自治を大幅に認めた土着性の高い政権でした。そうでなければ、たった1万5千人の兵士で全土を治められない。治安も良く、医療支援が最も円滑に進んだのもタリバーン時代です」

 「欧米などの後押しでできた現政権は、タリバーンに駆逐された軍閥の有力者がたくさんいるから、歓迎されにくい。昼は政府が統治し、夜はタリバーンが支配する地域も多く、誰が味方か敵かさっぱり分からない。さらに(過激派組織)イスラム国(IS)と呼応する武装勢力が勢力を伸ばし、事態を複雑にしています」・・・ 

――戦争と混乱の中でよく約30年も支援を続けられましたね。

 「日本が、日本人が展開しているという信頼が大きいのは間違いありません。アフガンで日露戦争とヒロシマ・ナガサキを知らない人はいません。3度も大英帝国の侵攻をはねのけ、ソ連にも屈さなかったアフガンだから、明治時代にアジアの小国だった日本が大国ロシアに勝った歴史に共鳴し、尊敬してくれる。戦後は、原爆を落とされた廃虚から驚異的な速度で経済大国になりながら、一度も他国に軍事介入をしたことがない姿を称賛する。言ってみれば、憲法9条を具現化してきた国のあり方が信頼の源になっているのです」・・・

――日本では安保法制が転換されました。影響はありますか。

 「アフガン国民は日本の首相の名前も、安保に関する論議も知りません。知っているのは、空爆などでアフガン国民を苦しめ続ける米国に、日本が追随していることだけです。だから、90年代までの圧倒的な親日の雰囲気はなくなりかけている。嫌われるところまではいってないかな。欧米人が街中を歩けば狙撃される可能性があるけれど、日本人はまだ安心。漫画でハートが破れた絵が出てきますが、あれに近いかもしれない。愛するニッポンよ、お前も我々を苦しめる側に回るのか、と」

――新法制で自衛隊の駆けつけ警護や後方支援が認められます。

 「日本人が嫌われるところまで行っていない理由の一つは、自衛隊が『軍服姿』を見せていないことが大きい。軍服は軍事力の最も分かりやすい表現ですから。米軍とともに兵士がアフガンに駐留した韓国への嫌悪感は強いですよ」「それに、自衛隊にNGOの警護はできません。アフガンでは現地の作業員に『武器を持って集まれ』と号令すれば、すぐに1個中隊ができる。兵農未分離のアフガン社会では、全員が潜在的な準武装勢力です。アフガン人ですら敵と味方が分からないのに、外国の部隊がどうやって敵を見分けるのですか? 机上の空論です」

http://digital.asahi.com/articles/DA3S12184935.html

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