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ヒューマニスト60
<その人の指向性、価値観、生き方、考え方>



<半藤一利>

 

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半藤 一利(はんどう かずとし 1930年(昭和5年)5月21日 - )は、日本の作家、随筆家。近現代史、特に昭和史に関し人物論・史論を、対談・座談も含め多く刊行している。先祖は長岡藩士。東京府東京市向島区(現在の東京都墨田区)に生まれる。実父は運送業と区議をつとめる。近所に幼少期の王貞治が住んでおり顔見知りだった。東京都立第七中学校に入学、1945年(昭和20年)3月の東京大空襲では逃げまどい中川を漂流し、死にかける体験をする。

茨城県の旧制下妻中学校(現 茨城県立下妻第一高等学校)を経て、父の生家のある新潟県長岡市へ疎開し、新潟県立長岡高等学校の3年生で終戦を迎え、東京へ戻る。官立浦和高等学校 (学制改革のため1年間で修了) を経て、東京大学へ進学。大学ではボート部で活躍した。東京大学文学部国文科卒業。・・・保守派と見なされているが[要出典]、文藝春秋社内では『諸君!』を創刊してタカ派スキャンダル路線と言われた田中健五とは距離を保っていた。

原子力発電所については人間の手に負えない危険なものとして懸念してきた。太平洋戦争(大東亜戦争)当時の日本軍部(特に日本陸軍)及び靖国神社におけるA級戦犯の合祀には極めて批判的である。昭和天皇については、当時の軍部による暴走を押し留めようとしたことを肯定的に評価しているが、昭和天皇の戦争責任についても否定していない。

近年は護憲派としての活動を積極的に行っており、「憲法9条を守るのではなく育てる」のが持論である。当時の社内では昭和史と太平洋戦争を勉強する者は珍しく「お前は『半藤』ではなく『反動』だ」と言われたという。作家司馬遼太郎とは、半藤が『文藝春秋』編集者時代からの付き合いであり、親交が深かった。司馬の没後、関連論考・著書を発表した。また半藤は司馬が書こうとして書けなかった、『ノモンハンの夏』を執筆した。同じく長い付き合いのある秦郁彦や保阪正康との共著も多い。
https://ja.wikipedia.org/wiki/半藤一利

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(にっぽんの現在地)歴史に学ぶ 日本人と戦争の関係を見つめてきた作家・半藤一利さん(2015/09/19朝日新聞)
公開中の映画「日本のいちばん長い日」は、第2次世界大戦の最終盤に日本の中枢部で繰り広げられた“運命の24時間”を描く作品だ。原作者は作家の半藤一利さん(85)。

敗戦間近の東京大空襲では自らも命を失いかけ、戦後に日本国憲法の産声を聞いた。戦後70年の今、半藤さんの目に“この国のかたち”はどう映るのか。――半藤さんのノンフィクション作品「日本のいちばん長い日」は衝撃的でした。たとえば、連合国に降伏するという政府の方針に反対して徹底抗戦を叫んだ軍人の存在です。一時は武力で皇居(宮城)を封鎖していたのですね。「ええ、一種のクーデターでした。

『ポツダム宣言を受諾して戦争を終結させるという今の政府の決断は間違っている。だから、自分たちの思うような政府に変えて政策をひっくり返さないといけない』。そう考えた一部の軍人たちが、暴力で国家をひっくり返そうとしたのです。軍隊は武装した組織です。どこの国でもクーデターを起こすのは軍人ですよね」

「いま安全保障を考えるとき、『軍隊による安全』という視点ばかりが正面に出てきます。軍の存在が抑止力になる、といった議論ですね。でも本来は『軍隊からの安全』という視点も必要なはずです。日本人が憲法9条を受け入れてきた背景には、もう殺し合いをしたくないという思いだけではなく、軍隊からの安全を求める思いもあったのだと思います」

――3年前にインタビューさせていただいたときには、ご自身が1945年3月に体験した東京大空襲のお話が印象的でした。「15歳のとき、米軍機による焼夷弾(しょういだん)攻撃に遭いました。自宅や近所の火を消そうとしていたために逃げ遅れ、命を落としかけました」

 ――しかし半藤さんは最近、戦争体験を語り継ぐ行為に懸念を感じ始めた、とも聞きます。

 「ええ。私が死にそうだったという話をすれば『悲惨だったんだな』と思ってくれる人々がいました。でも最近、勇気ある少年の『物語』として受け止められて、かえって危険を招くんじゃないかという気もしてきました」「特攻隊の歴史を題材にした『永遠の0』がヒットしましたね。

特攻を作戦化し命じた立場にありながら戦後ものうのうと生きのびた指揮官たちを私は実際に知っています。でもそういう本質的な構造の問題より、若い隊員の純真さとか勇気の方に焦点を当てて特攻が語られてしまう。歴史が物語になっていると感じました」

 ――そういう傾向は、なぜ表れているのでしょう。

 「時間がたち、社会の中で体験者が減ったことがあるでしょう。50年を超えてしまうと戦争も、聞きやすい美談に回収されやすくなる。昭和が悪い時代のように言われ過ぎてきたので、訂正したいという民族としての誇りが表れてきた影響もあると思います」

 ――物語に回収されてしまわないような「戦争の歴史の語り方」はないのでしょうか。

 「当時の日本政府が国民に『焼夷弾はそれほど恐れるものではない』というメッセージを出していたのはなぜか。米国はなぜ、非人道的な無差別空襲という手段を採ったのか。空襲を指揮したカーチス・ルメイ氏に日本政府は戦後、なぜ叙勲したのか。事件や関係した人々について多角的・総合的に考えることで、学習していくことはできると思っています」

 

 ――戦後70年の今年、安倍政権は新しい安保法制の整備に踏み出しました。使えないとされてきた集団的自衛権を使えるようにし、武力行使の制約が変わります。

 「日本を危険な国に作り替えるものだと思います。ただ正直に言うと、国民が法案に相当に反対をしても安倍晋三首相からは関係ないものとして扱われるだろう、とも予測していました。今年4月、政権が米国政府との間で約束を交わしてしまったときからです」――安倍首相が米国の議会で演説したり、日米の外務と防衛の担当閣僚が「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」を改定したりしたときですね。

 「自衛隊は今後は集団的自衛権も行使しながら極東以外の地域でも米軍に協力します――そう約束する内容でした。憲法が骨抜きにされるだけでなく、極東を対象にする日米安保条約も骨抜きにされたと感じました。

関連法案の審議が国会で始まる前に起きたことですよ。恐るべきは、こうした日本政府のやり口です。米国から協力を求められたときに断れる主体性があるとも思えません」「日本が米国の戦争責任にどう向き合ってきたかという歴史の問題と、いま安倍首相が見せている米国追従の姿勢の間には、つながりがあると思っています」

 ――先ほどの「軍隊からの安全」という視点からは、どんな問題点が挙げられるでしょう。

 「懸念しているのは、共産党が明るみに出した防衛省の内部資料の問題です。制服組トップの統合幕僚長が米軍幹部との間で今後の日米両軍の共同作戦のあり方を決めたり、統合幕僚監部が法案成立後の自衛隊の運用のあり方を決めたりしていた。

文官ではなく武官の側が前面に出てきている傾向が見えます。しかも国民が知らされないところで。外交防衛政策を軍によって規定される――それがいかに国を危うくするかは戦争の昭和史が教えるところです」

――今の日本は「軍隊からの安全」に関する意識が薄いと?

 「薄いのではなく、無いのだと思います。70年もたっているから仕方ない面もありますが」

 

 ――半藤さんは保守的とされる「文芸春秋」のご出身ですが、9条については護憲の立場であり脱原発に賛同してもいます。ご自身を保守派とお考えですか。

 「いえ。現実主義者でしょうね。保守派の中でも国家主義的な人とか、革新派の中の党派的な人には、違和感がありました」

 ――安保法制への批判も、イデオロギーからではなく現実主義の視点からしていると?

 「中東へ自衛隊の精鋭部隊を送ったら日本列島の守りは薄くなります。それをカバーするための軍事費の膨張は、経済や財政の現状に照らして可能なのか。そういう議論をすべきだと思います」

――2011年に起きた「3・11」のあと、原発に批判的な発言をしています。いつから原発に対して懐疑的になったのですか。

 「初めからですね。1950年代に核の『平和利用』が言われ始めた時期から、原子力という技術は人間の理性で制御できるものではない、と思っていました」「地政学的に海岸線が長い日本には、もともと敵からの攻撃を防ぎにくい弱みがあります。

だから近代に入って日本は国土の『外』で国を守る戦略を採り、朝鮮半島や中国大陸に軍を送ったけれど、結果は悲惨な敗戦でした。今はもっと守りにくい状況です。海岸線に40基以上も原発がある。それを攻められたらお手上げです」「武力だけで守ろうとしても守れない、貿易と外交力を軸にしたほうがいい。理想主義だと批判されますが、それが現実だし、本気で検討すべきだと思います」

 ――中国が台頭してきたことで「アジアで一番の国」という近代日本の自己イメージは揺らいでいるように見えます。戦時中の半藤さんにも「アジアで一番の国」というイメージがあったのですか。「ありましたね。近所には台湾や朝鮮半島出身の子供もいましたが、『大和民族の方が上だ』と上から見ていました。戦争自体も『アジアのための戦争だ』と」

 ――この先、日本は「一番」を目指すべきでしょうか。

 「目指すも何も、単純に『不可能』でしょう。こんなに自給自足ができない国、借金が1千兆円もある国が『大国』になれるわけがない。それが現実です」

 ――憲法9条を守ろう、という運動を手がけていますね。

 「はい。ノンフィクション作家の保阪正康君と二人で、憲法を100年守ろうと言い合っています。100年もてばそれが国の意思になるし、海外の人々の戦争観にも影響を与える。いま約70年ですから、あと30年ですね」

 ――いつから9条を支持するようになったのですか。

 「憲法が誕生したときからですよ。こんなに良いものができたのかと、非常に喜びました。おやじからは『お前はバカじゃないか』と批判されましたけどね。『人類が始まって以来、戦争がなかったためしがあるか。日本も日清戦争とか日露戦争とか、あれこれ頻繁にやってきたじゃないか』と」「おやじは戦後、1950年に亡くなっています。もし会えるのなら、『あのときおやじが言ったこと、間違ってたじゃないか』と言ってやりたいですね」

 

 はんどうかずとし 1930年生まれ。文芸春秋社で「文芸春秋」編集長などを務めた。著書に「昭和史」「『昭和天皇実録』にみる開戦と終戦」など。

 ■取材を終えて

 自分は憲法も原発もそれらが生まれたときから見てきた、と半藤さんは語った。聞いていると、自分の中にある「日本」のイメージが少し変わってくる気がした。「軍隊からの安全」という視点は、安保法制を今後点検していく際にも必要なものと思えた。(編集委員・塩倉裕)
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11972237.html

 

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