石牟礼 道子(いしむれ みちこ、1927年3月11日 - )は、日本の作家。
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石牟礼道子さん死去1年で集い 福岡市と熊本県水俣市(2019/02/10琉球新報) 福岡市の会場では、芥川賞作家で長年友人として付き合いのあった池沢夏樹さん(73)が約50人を前に、「魂が動くという意味で『されく』という言葉を作品でよく使っていた。魂で患者さんに共感していたから、深い作品ができたのだろう」と静かに語った。 |
原発事故、水俣病と重ねて 石牟礼道子さんの映画上映へ(2013/11/23朝日新聞) 上映会は25日午後3時半と午後7時の2回で、入場料1500円。夜の部のほうが席に余裕があるという。問い合わせは藤原書店(03・5272・0301)へ。 ◇ 映画は2009年に石牟礼さんが倒れ、2〜3カ月記憶を失った時期の回想から始まる。「魂が抜け出していった。2カ月か3カ月ぐらいのあいだに目が覚めたんですけれど、何とも美しい音楽が聞こえるんです。幻楽四重奏団の」 幼い日の思い出。「海霊(うなだま)の宮という魚やネコ、キツネ、タヌキと交わるところがあるに違いないと思いまして。キツネになりたいと。真剣にコンコンと鳴いていれば背中にしっぽが生えてこないかと思って」 石牟礼さんは水俣病の苦しみの極致に「許し」に達したという患者の言葉をひく。「『私たちは助からない病人で、意地悪や差別、さんざん辱められてきた。それを許しますと考えれば、苦しみが少しでも取れるんじゃないか』とおっしゃいましてね」 思索は「祈り」にも向く。「近代になるほど祈りを捨ててきた気がします。水俣病が起きたときはみな祈りましたよ。それで語りきれない苦しみや悲しみを抱いて、思いを残して死んでいかれる」 福島の原発事故を語る言葉も、水俣病への思いとどこか重なる。「汚染された水を捨てるところがないでしょう。原発の炉の底が溶けて毒素が出て、そういう毒物を吸収しているわけですよね。実験にさらされている、いま日本人は」 http://digital.asahi.com/articles/ 「水俣の苦しみ今も」石牟礼さん、皇后さまに手紙(2013/10/25朝日新聞) 7月末、東京のホテルで開かれた社会学者の故・鶴見和子さんをしのぶ「山百合忌」の会。石牟礼さんは皇后さまの隣に座り、2時間あまりを過ごした。石牟礼さんが鶴見さんの思い出話をすると、皇后さまは「今度、水俣に行きますからね」と答え、パーキンソン病を患う石牟礼さんの皿に料理を取り分けたという。 石牟礼さんは後日、「今も認定されない潜在患者の方々は苦しんでいます。50歳を超えてもあどけない顔の胎児性患者たちに会ってやって下さいませ」と手紙を書いたという。石牟礼さんは4歳だった1931年、昭和天皇が日本窒素肥料(後のチッソ)水俣工場を訪れたことを覚えている。精神に障害がある祖母について警察官から「陛下の目に触れないよう島に連れて行け」と命じられた父が逆上し、「親の首に縄をつけて引っ張れない。 陛下の赤子(せきし)として腹切って死にます」と警察官のサーベルに手をかける騒ぎになったという。石牟礼さんは田んぼに敷かれたござに正座し、水俣駅から工場の門に入る車列を見守った。「一斉に頭を下げたが、子どもの私はきょろんと見ておりました。みんなは『生きとるうちに陛下様に会えてよかった』と言いましたが、私には車の窓しか見えませんでした」71年に東京のチッソ本社前で患者らと座り込みをした際は、大した成果もなく「帰ろうか」となったとき、患者の一人が「そうじゃ、二重橋に行こう」と言った。皇居前広場に行き、「天皇さんに聞こえるごつ(ように)声出さんば」と手を挙げて、「天皇陛下万歳」と3回叫んだという。 「叫ぶ仲間たちを見ていて涙がこぼれた。その患者もみんな亡くなりました」 今回の両陛下の熊本訪問は「豊かな海づくり大会」に出席するためだと聞き、石牟礼さんはつぶやいた。「豊かな海って……。(チッソが廃液を流した)不知火海をどうしてくれるのか」 |
(書評)『蘇生した魂をのせて』『石牟礼道子 魂の言葉、いのちの海』(2013/07/14朝日新聞) 御存知(ごぞんじ)のように石牟礼は故郷熊本で水俣病患者に寄り添い、『苦海浄土』という貴重な記録文学を成した。そこには何よりも方言が踊り、震え、出来事に耐えている。体の中に水銀を貯(た)めざるを得なかった患者の苦しみはいまだ終わっておらず、そもそも近代化にともなう技術の一方的な“進歩”が、世界をどう不均衡にしてしまうかは、私たちの抱える原発事故問題に一直線につながっている。公害とはなんであるか。一体その「公」とは何か。本当にそれは公であるか。日本という国のために毒を排出し、誰かがそれを受け入れる、ということがあってよいのか。原発事故は公害である。その簡潔な視点に立てば、過去の公害をめぐる論議は私たちの礎になる。それを後退させてはならない、答えに窮して黙り込んではならない、と石牟礼の言葉を前に思う。 特に何度も繰り返して考えたいのは、抗議運動を続けて来た患者たちの「自分たちの絶対的な加害者のために祈る」(『蘇生した魂をのせて』)という到達点だ。それはどれほどの苦難からしぼり出された深く重い言葉だろうか。また、『魂の言葉、いのちの海』で池澤夏樹は言っている。「水俣病の苦痛というのは世界中の人間にとって大事な財産なんですね」(2010年4月)。 そして今、世界どころか、まさに日本の私たち自身が水俣から学び直さねばならない。学ばなければ、公害はとどめようもなく続く。「公」とはつまり、私たちを含む「絶対的な加害者」ではないか。評・いとうせいこう(作家・クリエーター)『蘇生した〜』河出書房新社・1890円▽『魂の言葉〜』KAWADE道の手帖・1680円 |
水俣病「まだ何も解決しない」 石牟礼さんが講演(2013/04/22朝日新聞) 1956年に水俣病が公式確認される前後の状況にも言及した。病院で、患者が苦悶(くもん)して壁に残した爪痕や、人に見られないよう雑誌で顔を隠すのを見たことがあったという。また、現在も苦しむ患者のことに触れ、「まだ何も解決いたしません」と述べた。 最後に、人との絆を断ち切られ、自ら語ることができない患者たちのことを語ってきた石牟礼さんに、多くの人が応えてくれたことに謝辞を述べ、「天の魚 続・苦海浄土」に収められた自作の詩「生死(しょうじ)のあわいにあれば」を朗読した。 作家の池澤夏樹さんは、水俣病の原因企業チッソや東京電力を例に、人間を数としてしか考えない官僚、企業の発想が、大規模な不幸を引き起こすと指摘。さらに、水俣病の背景には、経済成長を享受した国民の存在があり、私たち一人ひとりがその罪を背負うべきだと話した。水俣病をめぐる環境相の私的懇談会のメンバーや福島第一原発の事故調査・検証委員会で委員長代理を務めたノンフィクション作家の柳田邦男さんは「企業、行政、そして専門家のあり方、思想は、福島の原発事故でも水俣の時の構造と変わらない」とし、「(被害の)数字だけではリアリティーがない。 私が取材で現場を歩くのは一人ひとりに会い、その実存を確かめたいから」と個別の被害に注目すべきだと強調した。講演会を主催した認定NPO法人水俣フォーラムは5月15〜27日、同じ会場で水俣病の歴史的資料や患者の遺影などを展示する「水俣・福岡展」を開く。入場料1千円(大学生以下600円)。問い合わせは同フォーラム福岡事務所(092・282・5846)。 水俣から福島はどう見える 石牟礼道子さんに聞く 福島(2012年10月19日朝日新聞)
――かつて石牟礼さんはチッソ本社前での座り込みに参加されていました。今の官邸前のデモをどう見ていますか? ――16万人もの福島県民が避難している中で政府は原発を再稼働させました。「2030年代に原発稼働ゼロ」という政府方針には、経済界から反発がおきました。
原田正純さんを悼む 水俣病患者支え続けた笑顔(2012/06/19朝日新聞) 村々では井戸が消毒され、猫が海に飛び込んで全滅するなど異常が続き、検診会場にも困惑した気配がただよっていた。その中で、子供たちが一人の青年医師の白衣にすがりついて甘えているのをしばしば見かけた。この方が後に、胎児性患者の存在を立証された原田先生だった。母親の胎内というものは、侵すべからざる神聖なところで、外界からの毒物は侵入しないというのが当時の医学的定説であった。二人の小児患者を持つ母親から「おこられて」、胎児性がありうると考えはじめた、と先生はおっしゃっていた。
原田先生のお噂(うわさ)をうかがって、水俣の様子を知りたい、と思っていると、先生からお電話があったり、お見えになってくださったりした。「いやあ、この前は抗がん剤をのまされましてね、頭がつるっぱげになっとりましたですよ。幸い生えてきたもんですから、お見舞いにうかがいました」などと冗談をおっしゃりながら、この仕事場にも何度か来ていただいた。 最近はこんなこともよくおっしゃっていた。
家に訪ねて行っただけでそれは喜びなはりますよ。あの人たちは、人のなさけに飢えとりますよね。声かけただけで大恩を受けたと思いなはる。なんというか、じつに純な心をお持ちの方が多かですよ。みんな貧乏でねえ」貧乏というや涙ぐみ、ふいに声を落とされた。あの牧歌的な先生の胸の底に、直接ふれることはもう出来なくなった。 |