(人生の贈りもの)寺内タケシ(74):12013年03月04日朝日新聞)
ギタリスト
■ベートーベン、上等だ まいったか
――エレキギターをかき鳴らし続け、これまで数々の賞を受けてきました。始まりは1967年の日本レコード大賞編曲賞、曲は「レッツ・ゴー『運命』」でした俺には、ベートーベンへの恨みがある。高校生のとき、音楽の試験で「ベートーベンについて述べよ」との問題が出た。俺は答案に、こう書いた。「会ったことがないから分かりません」マイナス50点だった。先生に殴られ、廊下に立たされた。面識がない男のことを知ったかぶりして論じるなんて、ひきょう者のすることだろ。間違ってるかな?それで、高校時代の恨みを晴らすことにしたのさ。ヤツの曲で一番有名なのは「運命」だ。「ベートーベン、上等だ、おまえの曲を弾いてやるよ」ってな。「ジャジャジャジャーン」を、「ジャッジャッジャッジャーーン」と、冒頭から変えまくった。コンサートで、俺は、ベートーベンにケンカを吹っかけている。「まいったかー」ってね。もちろん、ベートーベンは、なーんにも悪くない。俺の逆恨みだ。
――「月の砂漠」では、エレキがキュイーンと泣きます
想像してみてくれ。満月の砂漠は、しーんと静まりかえっている。風の音、ラクダの息づかい。さくっ、さくっ、という足音。乗っているのは、お姫様だ。御者は、姫への思いを伝えられるわけがないわな。そんな情景を思い浮かべて弾くとな、エレキは泣くんだ。「雨降りお月さん」「津軽じょんがら節」も演奏する。わらべ歌や民謡など、日本には名曲がたくさんある。若者は知らない。語り継ぐため、俺は弾くのさ。
――55年の米国映画「慕情」のテーマは、おはこですね
女性医師と新聞記者が、香港で出あう。朝鮮戦争の取材で記者が、銃弾にたおれる。原作者の自伝をもとにした悲恋だな。俺にも、こんな経験がある。朝鮮戦争のころ、神奈川県横須賀市のクラブで演奏していた。知り合った米軍将校が、すごいエレキをもっていた。100ドルで譲ってもらった。
そいつは出兵し、朝鮮半島で散っちまった。「慕情」の冒頭で、ジャーン、とエレキを鳴らすと、気持ちは、ウィリアム・ホールデン演じる記者さ。ジェニファー・ジョーンズの女性医師にもなる。寺内が女になるなんて気持ち悪い、と思ったか? 曲の終盤で、俺は絶叫している。「戦争なんてバカなこと、もうやめろー」ってな。(聞き手 編集委員・中島隆)
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■芸は命がけ 血だらけのエレキ始め
――5歳でアコースティックギターを手にしたそうですね
年のはなれた兄が、質流れのギターを持っていたんだ。バンザーイ、と見送られて出征していったので、俺のギターにした。ちなみに兄は生還した。芸事は教えてもらうにかぎる。師匠は、母だ。名は、鶴岡初茂(はつしげ)。
小唄と三味線の家元だった。俺は三つ指ついて、弟子入りを許してもらった。母、もとい、師匠は厳しかった。作法がだめ、とビシッ。背筋が伸びていない、とビシッ。竹の物差しで、俺をたたく。もう息子じゃない、弟子なんだな。師匠は三味線で、ギターの稽古をつけてくれた。
弦の数が3本と6本と違うのに、どうやったのかだって? 100本ちがうわけじゃない、たいした違いではない、心配するな。ギターの弦は、いわば針金だろ。指が血まみれになるんだ。俺は泣きじゃくる。すると、師匠が言うんだ。「泣くぐらいだったら、もうやめなさい」俺が、やめない、と言うと、師匠は、俺の手を塩に漬けた。表現できないくらい痛いんだ。そして、師匠はいった。「この痛さを覚えておきなさい。芸事は厳しいのです」大人になって知ったよ、あれは消毒でもあったんだとな。
――この修業が、どうエレキにつながるのでしょうか?
師匠と演奏するだろ。三味線の音はでっかいから、ギターの音が消されっちまう。俺はギターの音を大きくしようと思った。ある日、うちにあった電話機をこわしてコイルをとりだし、ギターの弦と、これもうちにあった何かのコードにつなげた。そして、ギターを鳴らしつづけた。すると、外が騒がしい。
みんな防空壕(ごう)に避難してるんだ。そのコードは、うちの屋根にあった十数個の拡声機につながっていた。そこからいつも、空襲警報を出していたんだ。俺のギターの音が近所中にとどろき、警報と勘ちがいされたんだな。
特高警察がやって来て、「この非国民がっ」と親父(おやじ)を殴り、連行していった。十日ほどのち、親父は帰ってきた。親父は、そろばんで、俺を殴りつけた。血が出たわ、出たわ。これが、俺のエレキ始め。最低最悪だよな。
――もちろん、懲りるはずがありません
俺は、電気の力はすごい、と思った。ラジオを改造してギターにつなげるなど、研究を重ねた。小学1年で敗戦。洋画が日本に入ってきた。「禁じられた遊び」なんかは、格好の練習曲だった。世間の大人は、こう言う。
「あの人が成功したのは、才能があったからだ。私には才能がなかった」俺に言わせれば、努力をしてこなかったことをごまかす、逃げ口上でしかないね。母は俺に、国宝級のまな板と日本刀を遺(のこ)して、逝った。「気合が入らなくなったら、潔く指を切れ」というのさ。芸事は命がけなんだ。(聞き手 編集委員・中島隆)
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■家が更地、看板に「勘当」だって
――お父さんから、何度も勘当されたそうですね
うちの父は実業家で、茨城県土浦市の市議会議長もした。俺は金持ちのお坊ちゃんで、中学からバンド活動をした。そんな俺を、父は認めなかった。関東学院大への進学が決まり、父は、後継ぎになってくれる、と期待したんだろう。横浜に一軒家をたててくれた。俺は空手部に入り、夜は、横浜のクラブに出演していた。そこに、父が取引先と飲みに来て、見つかっちまった。
気まずいので友だちの所などを泊まり歩いた。一週間たって戻ったら、あるはずの家がなく、更地になっていた。鉄条網に看板があって、「勘当」って書いてあった。これが10回目の勘当だ。ほとんどコントだよな。
――1962年、バンド「ブルージーンズ」を結成します。ステージ、テレビ出演などで寝る暇がなかったそうですね
宝塚歌劇団の月組の人たちが、後援会に入ってくれた。新宿のクラブのママさんやおカマちゃんたちも後援会に入ってくれた。コンサート中、お互いにケンカを始めるんだ。「何よ、その派手なメーク」「あんたに言われる筋合いはないわ」。俺はステージの上から、「うるせえ、黙って聞け」。すると、「寺内さん、すてきー」ってな。コントだよな。
――世界中で公演しています。東西冷戦中の76年9月、ソ連であった公演は、いかもに寺内さんらしいコンサートでした
ソ連邦に入っていたアルメニア共和国で、まもなく公演開始、という時だった。関係者が「中止してくれ」と言ってきたんだ。ソ連の戦闘機、「ミグ25」が函館空港に着陸し、将校が亡命を求めた事件がおきていたんだ。ソ連では、日本政府と米中央情報局(CIA)が結託して亡命話に仕立てている、という。
すわ戦争か、という雰囲気だった。俺の心に火がついた。会場には、銃をもった軍人や警官が何十人といた。コンサートが最高潮に達したとき、俺は、およそ4万人の観客に語りかけた。「ミグ25のことで大騒ぎになっていますが」カシャカシャッ、と銃を身構える音がする。撃たれるかも、と覚悟しつつ、俺はつづけた。
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■いまの大人どもに、コノヤロー
――高校をまわる「ハイスクールコンサート」は、ライフワークになりました
俺はこの40年、全国の高校をまわってコンサートをしてきた。もうすぐ1600回だ。エレキは不良の温床だから、買えば停学、バンドを組めば退学、なんて時代があった。高校生である子どもたちは、そんな大人たちを信じなかった。そこで、ふざけるな先生さんよ、教育委員会のお偉いさん方よ、と俺は立ち上がった。子どもたちに、信じられる大人もいるぜ、と示してきたつもりだ。そのときの子どもたちが、いまの大人さ。おい、俺は、おまえらに言いたいことがある。おまえらは、子どもたちに信じてもらえる大人になったのか、コノヤロー。
――その憤りの理由とは?
学校も家庭も地域も、つまり、いまの大人たちは、いじめを見て見ぬふりしているだろ。生徒が自殺に追い込まれても、「いじめとの因果関係はわからない」なんて、よく平気で言うよな。子どもは、おまえらを見ているぞ。子どもだった昔のおまえらのようにな。分かるだろ、おまえらは、子どもにまったく信頼されていない。情けないじゃないか。おまえら、覚悟を決めろよ。
子どもに、きちんと手を差し伸べろ。注意すべきときは、ちゃんと注意しろよ。いじめは最低、恐喝は犯罪、していいのはケンカだけ。そういう基本を、きちんと教えろよ。いまのまんまだと、エレキを頭ごなしに禁止した昔の大人と、おまえらは同じだぞ。
――ところで、寺内さんの高校生時代はどんなでしたか
最低最悪でした。ギターと空手に忙しく、勉強をする気は、これっぽっちもありません。PTA会長だった親父(おやじ)は、面目丸つぶれ。だから、うちの高校の数学教師に、家庭教師を頼みました。勉強は、こちらからお断りです。先生が家に来ても、私は漫画を読んでいました。「わたしの立場も考えてくれ」と困った先生は、試験の問題と答えを、すべて教えてくれました。
結果はマイナス50点だった。教えてもらった答えを、ひとつずつずらして書いちまったんだ。先生は教頭から怒られ、俺は先生に大目玉をくらった。番長の俺には、学業ではビリを守る、という美学があった。これが難しい。ビリ争いにもライバルがいるし、ちょっと間違えたら落第だからな。でもな、うちの生徒が他校のやつに痛めつけられたら、乗り込んだぞ。学校でいじめがあろうものなら、ただじゃすませなかった。
自己犠牲、無償の愛、番長ってのは、そういうもんだ。だから、俺が卒業できたとき、クラスのみんなが、万歳三唱してくれた。うれしかったなあ。去年の秋、クラス会があった。みんな、じいさん、ばあさんになっちまった。でも、「寺内はバカだったなあ」って話で盛り上がった。そんときは、少年少女の気持ちに戻ってるんだ。俺って役に立ってるだろ、どうだい?(聞き手 編集委員・中島隆)
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■「挫折」「絶望」なんて読めねぇよ
――エレキ、アンプ、マイクなどをつなぐ電線は、金でできているそうですね
1メートルあたり1万8千円ほどする電線を、コンサートで5千メートルほど使っている。聞いたら分かるけれど、最高の音がするんだ。1945年3月10日、東京大空襲があった。6歳だった俺は、東京のおじさんの家に遊びにいっていた。池に飛び込んで一夜をすごした。夜があけてきて、歩きはじめた。死体だらけだったよ。上野駅にたどりつき、常磐線の列車に乗って、家がある茨城の土浦に向かう。途中、いくども米軍機の機銃掃射をくらった。
たくさんの人が死んだ。お兄さんとお姉さんが、列車に乗っていた。ふたりは俺に、おにぎりを半分くれた。土浦駅では窓から俺をおろしてくれた。それから半世紀、つまり、いまから20年ほど前のことだ。俺は、日立電線の人たちと、電線づくりの検討を重ねていた。 ある日、技師長さんが、俺にこう言ったんだ。
「東京で空襲にあい、土浦駅でおりませんでしたか?」驚いた。技師長は、あの若いお兄さんだったんだ。当時、あのお姉さんとは婚約中だった。ご夫婦といっしょに、俺は泣いた。とびっきりの電線をつくってくれた彼は数年前、亡くなった。不思議な縁だよな。極上のテケテケテケが出るのは、当然だろ。
――東日本大震災から3カ月後に、岩手県宮古市でコンサートをしました
震災のまえに、ハイスクールコンサートに行くことになっていたからな。津波で予定されていた会場は流されたけれど、行くのは当然、男の約束だ。11トントラックにフル装備を乗っけて、自家発電機も持ってってな。被災された方々には、慰めの言葉がない。
俺みたいなのが、声をかけるのは僭越(せんえつ)だ。戦争も震災も、こりゃあ心底、重いぞ。言えることは、これだけだ。「ギターは弾かなきゃ、音がでない」何ごとも、行動しなければ始まらないんだよな。被災者のみなさん、くじけそうになったら、寺内の馬鹿がこんなことを言ってた、と笑ってくれ。それが、ゆいいつのお願いだ。
――挫折、絶望。この世の中、生きるのも大変です
残念だったな。俺は頭が悪いから、その熟語を読めないし意味も分からない。エレキに、言葉は必要ない。そうか、「ざせつ」「ぜつぼう」と読むのか。意味は教えてくれなくていい。どうせ、むかしの日本人がつくった人生を悲観する熟語なんだろ。そんな言葉に、いまを生きる自分の境遇を当てはめて下を向く必要は、ない。さあみんな、上を向いて、Vサインをしようぜ。(聞き手 編集委員・中島隆)=おわり
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てらうち・たけし 1939年、茨城県土浦市生まれ。62年に「寺内タケシとブルージーンズ」結成。5歳からエレキの道を歩み、ついた異名が「エレキの神様」。2011年、日本レコード大賞の功労賞を受賞。
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