追悼集:水俣病医療に尽力、故原田医師 「この道を」出版 /熊本 水俣病医療に尽くし、昨年6月に77歳で亡くなった原田正純さんの追悼集が出版された。熊本市内の空襲で母を亡くした体験や若手研究者の頃のエッセー、ゆかりの人からみた原田さんの思い出などを通じて、水俣病問題での足跡だけでなく、国内外の公害問題への取り組みを支えた熱意や医師としての等身大の姿をうかがうことができる。 原田さんは鹿児島県出身。熊本大医学部卒業後の61年に初めて水俣を訪れ、母体内で水銀を浴びた胎児性水俣病の存在を証明した。亡くなるまで水俣病医療に尽くした。追悼集は「この道を−水俣から」と副題がつけられ、水俣病裁判での原告支援の機関紙「告発」(69〜72年)▽熊本県精神病院協会の季刊誌「熊精協会誌」(75〜06年)▽原田さん自身がセンター長を務めた熊本学園大水俣学研究センターが発行した「水俣学通信」(05〜10年)−−などの掲載文の他、新聞書評や年譜、著作リストを集めた。 また、作家の石牟礼道子さんや滋賀県の嘉田由紀子知事をはじめ、研究者や取材記者、人柄を知る喫茶店主など26人の追悼文を掲載した。生前の写真のほか、NHKのインタビュー映像のDVDを付録でつけた。 「あとがきに代えて」の中で、原田さんの後任の花田昌宣・水俣学研究センター長は「原田正純という一人の人とその生き方を伝えることを考えた」と述べている。熊本日日新聞社刊。A5判、487ページ。2800円。熊日情報文化センター096・361・3274。【西貴晴】 憂楽帳:知らんぷり 「困っている人たちを前にして、知らんぷりなんて、できんでしょう」。世界で初めて胎児性水俣病の存在を証明、多くの本を記して水俣病への関心を呼び起こし、国内外で公害や労災患者の救済に奔走した医師、原田正純さんが77歳で亡くなった。「原田さん」といえばこの言葉を思い出す。無辜(むこ)の民が加害企業・チッソや行政に捨て置かれた。その理不尽な現実に憤った若き医師。「常に患者のそばに」。穏やかな語り口の中に、カシのような固い信念が一本、通っていた。 14日付本紙の1面記事に驚いた。昨年4月、福島県浪江町などの住民の内部被ばくを検査していた弘前大の調査班に県が待ったをかけたという。理由は「不安をあおると住民の苦情もあった」。なぜ水俣病被害者の救済が終わらないのか。地域住民の検診データを広く集めなかったことが大きい。人類が経験したことのない規模の放射能暴露。住民は心配だろう。だがデータがあれば将来何らかの症状が出た際、原因特定の貴重な基礎情報となったはずだ。「知らんぷり」どころかストップさせた行政に、原田さんはきっと歯がみをしているに違いない。【加藤学】 憂楽帳:崇高な人生 本紙朝刊「月曜文化」面で昨年5月〜今年9月、「水俣希望の命」を連載したNHKディレクター、吉崎健さん(47)の番組「花を奉る石牟礼道子の世界」(2月放送)が石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞で文化貢献部門の大賞に決まった。 水俣病に半世紀を超え向き合い続ける熊本市の作家・石牟礼さんの精神世界に、やはり水俣病取材が20年以上になる吉崎さんが迫ったドキュメンタリーだ。本紙連載では、胎児性患者の方々への長年の取材の中でも放送で触れられなかった事、駆け出しの放送人として出合ってしまった水俣病の悲劇の途方もなさ、ストレスに倒れ文字通り身を削って番組を作った日々をつづってもらった。 患者さん、石牟礼さん、そしてもう一人、吉崎さんが水俣で出会った巨人が、6月に77歳で亡くなった原田正純医師だった。その原田さんの生涯を描く吉崎さんの新しい番組「原田正純 水俣未来への遺産」が11月4日午後10時、放送される。終生、患者さんに寄り添い、水俣病と対峙(たいじ)した医師の、作り事ではない崇高な人生に、この番組を通し多くの人にふれてほしい。【矢部明洋】
原田 正純(はらだ まさずみ、1934年9月14日 - 2012年6月11日) は、日本の医師。学位は医学博士。鹿児島県さつま町出身。ラ・サール高校、熊本大学医学部卒業。熊本大学医学部で水俣病を研究、胎児性水俣病も見いだす。水俣病と有機水銀中毒に関して数多くある研究の中でも、患者の立場からの徹底した診断と研究を行い、水俣病研究に関して詳細な知識を持った医師でもあった。 熊本大学退職後は熊本学園大学社会福祉学部教授として環境公害を世界に訴える。1989年、『水俣が映す世界』(日本評論社)で大佛次郎賞を受賞。2001年、吉川英治文化賞受賞。2010年、朝日賞受賞。 |